第32話 落月痕


 毬屋の周囲は嘘のように静まり返っていた。


 いくら脇にそれているとはいえ、花街の一角である。まだ宵のうちにも満たぬこの刻限に、通常ならば人影が絶えることなどない。

 だがまるで、見えない磁場のようなものが人の足を遠ざけてでもいるのか。辺りに人の気配は無かった。


「これは――」


 開け放たれたままの毬屋の戸。その奥から洩れ出る異様な気配に、山南が眉間に皺を寄せる。

 開け放たれた戸の奥を見つめる弓月の震える瞳が、紅く燐光を放っていた。


「……お、おかあさん……結月――」


 唇を震わせ、中に入ろうとする弓月を、山南がおし止めた。

 私が先に入ろう――と弓月を背後に回し、山南が毬屋に脚を踏み入れる。

 敷居をまたいだ瞬間、強烈な瘴気が山南の顔を叩いた。


 半刻にも満たぬ間に、穏やかなな空気の漂う置屋が、濁り荒んだ魔窟の様相へと一変してしまった。


「女将さん――」


 返事がないことは分かっている。この場に生きた人間の気配などない。

 だがそれでも、呼びかけずにはいられなかった。


「おかあさん――おかぁ――」


 山南に続き、弓月が声を上げたときだった。


 ぺちゃり…………と、濡れた雑巾を落としたような音がした。


「な、なに。おかあさん、おるの!」


 弓月が声を上げる。

 すると――ごそりと、衣ずれのような音が続いた。


「結月?帰ってはるん?」


 思わず走り出しそうになる弓月を、山南が無言で制す。


「待つんだ。様子がおかしい」


 足元を見ると、廊下が濡れていた。薄暗く判別がつかぬが、濡れた雑巾でも引きずったような跡が、廊下の奥に続いている。


 生臭い強烈な匂いが、むわりと鼻をついた。

 それは大量の血の跡だった。


「……ひっ」


 それに気が付いた弓月が、悲鳴をおし殺す。

 血溜りを踏まぬように避け、山南が先を歩き、弓月がそれに続く。


 みしり――と、弓月の足元で廊下が鳴った瞬間。

 ぺちゃり――と、再び湿った音が廊下に響いた。


 一歩足を踏み出すごとに、血臭と瘴気が濃くなっていく。

 ぶちゅり――と、熟れた果実を潰すような音が聞こえた。


 その音は、障子が開いたままの楼月の部屋から聞こえた。

 強烈な瘴気もそこから噴きだしているようだ。


 二人は無言のまま部屋の様子をうかがう。

 灯りのない薄暗い部屋に、蹲るように背を丸めた若い娘の姿があった。


「ゆ、結月――」


 その見覚えのある小花柄に、弓月が声をかけた。

 すると、返事の代わりに、ずずず――と、何かを啜る音が応えた。


「な、なぁ結月。あんた――いつ帰ったん。それに、おかあさん、どないしたん……」


 すると今度は返事の代わりに、結月の背が震え、くちゃり――と、泥を捏ねるような音が応えた。


 結月――と、もう一度名を呼んだ。


「あんた、どこ行ってたん?」


 それより――


「な、なにしてん……」


 声を震わせながら近づこうとする弓月を、山南が押さえる。


「なぁ、なぁ結月。なにしてん?なぁ、おかあさんどないしたん?」


 山南の手を押しのけ、弓月が前に出ようとする。


「なぁ、結月。あんた、なにしてん。こっち向き――」


 その声に、結月の動きが止まった。

 そしてゆっくりと――ゆっくりと、結月が振り向いた。


「ゆ、結月」


 髷がほつれ、乱れた髪が顔を覆い隠している。それは、べたり――と、黒く濡れそぼっていた。


「……あ、あんた――それ……」


 振り向いた結月の手には、顔の肉を喰い千切られた、楼月の頭部があった。

 乱れた髪の奥で、耳の下まで裂けた唇を吊り上げ、結月が嗤った。

 がくがくと膝が震え、弓月が膝から崩れる。

 山南はそれを支えた。

 結月は楼月の鼻を喰いちぎると、それを弓月に差しだした。


「見るな!」


 山南が弓月の眼を塞ぐ。

 だが、一瞬遅く、その光景は弓月の眼に焼きついた。


「嫌やぁ――」


 弓月が頭を抱えうずくる。


「……あヴぇ――」


 ゆらり――と、小柄な体躯が立ち上がる。


 あヴぇ  あヴぇ――あヴぇ……

 

 まりあ――と、結月が嗤う。


「…………っ」


 びくり――と、弓月が身を震わせた。

 その瞬間、結月が獣のように走った。


「ちぃ!」


 弓月に覆い被さるように、山南が跳んだ。

 刹那、山南の背に、鋭い痛みが走る。

 それを力任せに振り払うと、山南は身を起こす。


 山南の肘に打たれ、畳を転がった結月が幽鬼のように立ち上がる。

 だらりと下げた指先に爪がなかった。

 立ち上がった山南が背をはらうと、何かがぱらぱらと畳に落ちた。突き刺さった結月の爪だ。


「――ひっ」


 それに気が付いた弓月が、息を呑む。


「めでたしせいちょうみちみてまりあ しゅ おんみとともにましますおんみはおんなのうちににてしゅくせられおんたいないのおんこイエズスもしゅくせられたもう」


 朗々と詠うように結月がさえずる。


「ゆ、結月……あんた」


 血に塗れ、幼子のように無邪気に微笑む姿に、弓月の瞳から大粒の涙が零れる。

 まだ幼さを残す小鳥のようだった娘が、今はもう見る影もない。


「てんしゅのおんはは聖なるまりあ とがびとなるわれらのためにいまもりんじゅうのときもいのりたまえ――」 


 あぁぁめぇぇんんんん――と、結月が瘴気を吐き出す。

 白目をむくと、がくがくと身を震わせた。

 だが次の瞬間には、獣の如き燐光を眼に宿らせ、今にも跳びかからんと威嚇する。


「や、山南はん。結月は――結月は…………」


 山南にもたれるようにして、弓月は漸く立ち上がった。


「恐らく、強力な呪で縛られているのだろう」

「お頼みします。結月を、どうかあの娘をお助け下さい」


 弓月が縋るように懇願する。


 山南は静かに首を振った。すでに結月から生あるものの息吹は感じられない。

 その身の裡を呪と瘴気でおかされているのだ。

 そんな――と、唇を噛みしめ弓月が涙を堪える。


「既に助けることは叶わない。だが――」


 山南の言葉を遮るように、瘴気が膨れ上がった。

 じゃぁぁっ――と、黄色に眼を光らせ、結月が奔った。


「離れて!」


 弓月を突き放し、山南が腰から鞘ごと剣を抜く。

 襲い掛かる結月の攻撃を、山南は鞘で受けた。


 その勢いは、暴れ馬のようだった。とても小柄な娘のものとは思えない。

 死したその身であれば、無意識の制限を超えた力もだせよう。

 山南の身体は襖を破り、隣の部屋まで飛ばされた。

 なおも襲いくる結月の攻撃を、山南は鞘で受けつづける。

 だが、その力に抗えず後ろに下がらざるを得ない。


「結――。止めて!もう止めて!」


 弓月が叫ぶ。

 もはや結月を助ける術はない。

 だが或いは、その魂を救うことなら――先ほど口に仕掛けた言葉が、山南の脳裏に浮かぶ。

 命亡き屍鬼と化した魂を救ってやるすべは一つしかない。


 だが、一縷いちるの望みにすがるように、結月の名を叫ぶ弓月の前で、山南は剣を抜くことができなかった。

 騒ぎが長引けば、周囲の気がつく。この状況を晒すわけにはいかない。それも分かっている。


 だがそれでも――


「くっ!」


 結月の折れ曲った指が、山南の頬を抉った。

 反射的に鯉口を切った瞬間。結月の向こうに、弓月の顔が重なる。


 一瞬の躊躇いに、山南が弾き飛ばされた。

 自ら畳を転がり、次に備え膝立ちで構えた。

 だがそこに、結月は襲ってはこなかった。


「いかん!」


 弾かれたように山南が奔った。

 踵を返した結月は、山南でなく弓月を狙う。

 悔やむ間はない。

 颶風と化し、山南が奔る。


 それでも――


 動けぬ弓月に、屍鬼と化した結月が迫る。

 山南がさらに加速する。


 だがそれでも――


 山南の剣が神速で鞘走る。


 それでも一歩――


 結月の背に向けて、抜き放たれた剣先が空を斬る。

 ――間に合わない。


 その時だった。

 弓月の前に、黒い影が立ち塞がった。


「しゃ!」


 岩のような掌が、結月の横面を叩いた。

 破裂でもしたように結月の身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。

 結月ぃ――と、弓月の悲鳴にも似た叫びが上がる。


「許せよ」


 誰にともなく呟き、黒い影が奔る。

 顔を上げ牙を剥く結月に、鎚のような掌底が叩き込まれた。


「吩っ!」


 気合と共に、結月の顔面に蒼白い火花が弾けた。

 めきゃ――と、頭蓋のへしゃげる音とともに、結月は泥のように崩れた。

 ほんの一瞬、足元で動かぬ結月に視線を留め、黒い影が振り返る。


「どうにか間に合ったな」


 にやり――と、分厚い体躯の仁王像が嗤った。


「お前は――」


 安堵の溜息と共に、山南が剣を納めた。


「山南よ。手前ぇ存外に甘ぇな。こいつは――」


 考え直さんとかなぁ――と、葛城柔志狼が嗤った。

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