第56話 三位一神
天羽の攻撃を躱した瞬間、柔志狼の膝が抜けた。
体勢を崩し、自ら転がり距離を取る。
だがそこへ、剣を拾い上げた天羽が迫る。
頭上から振り降ろされる剣を、柔志狼は両の掌を合わせて挟み込んだ。
「まだそのような力が」
ぎひ――と、紅い唇を吊り上げ、天羽が嗤う。面相の半分を金色に染めたその顔は、金箔の剥がれた仏像が嗤っているかのようで、なんとも不気味である。
「鍛え方が違うよ」
柔志狼が口角を上げた。
「手前ぇこそ、これだけ大仰に騒いだくせに、神さまじゃなくて
くたびれ儲けだな――と、柔志狼が鼻で嗤う。
「確かに、割が合わないですね。ですが――」
天羽の身体から、どす黒い氣が噴き出した。
「そう悪くもない――」
柔志狼を襲う剣に、さらに力が加わる。
「くっ」
それに対抗するように、柔志狼の筋肉が瘤のように太さを増す。
しかし天羽がさらに力を加えると、剣が押し込まれていく。
それに対し、柔志狼も負けじと押し返す。
「がはぁ――」
周囲に漂う霊気を、天羽が呼吸するかのように吸い込む。
すると、天羽より噴き出す氣は密度を増し、その力は更に増していく。
「――むぅ」
耐え切れず、柔志狼の膝が揺らぐ。
それを見た天羽が剣に力を込めた。
その刹那――柔志狼の身体から力が
突如、力点を失い天羽の身体が泳いだ。
それに合わせるように、柔志狼が沈み込みながら、剣を挟んだ掌を捻り落とす。
まるで奈落に落ちるかのように、天羽が床に叩きつけられる――筈だった。
「――なにっ」
背に生えた歪な翼が羽ばたき床を強く打った。その反発により、天羽の身体が柔志狼より離れた。
「悪くはない――と、言った」
ぎきぃ――と、天羽が嗤った。
「そうかよ」
天羽の手より離れた剣を、柔志狼が投げつけた。
それを、天羽は難なく払い除ける。
だがその後ろから、柔志狼が迫る。
剣を投げると同時に走り込んだのだ。
左の貫手が、躊躇うことなく天羽の眼に突き出される。
しかし――柔志狼の貫手が空を切る。
灰色の羽が視界の中で舞う。
柔志狼の背を、恐怖が奔る。
裏拳を放ったのは本能だった。
だがその拳を、金色の腕が掴んだ。
みちみち――と、金色の邪爪が柔志狼の腕に喰いこんでいく。
柔志狼が身を返そうとした瞬間、信じられない事が起こった。
片手でそのような芸当など、あのルプスでも容易くない。それを天羽はいとも容易くやってのけた。
だが、柔志狼とて尋常ではない。咄嗟に宙で身を翻すと掴まれた右腕を引き抜き、床の上を転がる。
「
強がるが、その表情に余裕はない。
「あなたこそ本当に人間ですか。まだそれだけ動からとは」
今まで見せたことのない、下卑た顔で天羽が微笑んだ。
「俺も伏見丹を呑んでくりゃよかったかな」
柔志狼の右肘から手首に駆けて、肉のめくれ上がった傷が三つ。どろりとした血が指先まで赤く染めている。天羽の爪から腕を引き抜いた代償だ。
「私はね、考え違いをしていました」
「いまここで反省の言い訳か」
「この場に満ちたこの霊氣――これもまた、神の力の一部」
花の香気を芳しく感じるかのように、天羽は恍惚とした顔で周囲の霊氣を吸い込んだ。
その途端、天羽の肉体が一回り大きくなった。
「――秀吉は、神の叡智の一部を手に入れていた。だとすればこの先に神の叡智はある。ならばそれを喰らい、いま一度――」
神を求める――と、天羽が両腕を広げ、天を仰いだ。
すると突然、天羽の頭の上に、金色の光が現れた。それはゆっくりと渦を巻き、周囲に満ちた霊氣を吸い寄せていく。
渦は瞬く間に速度を増す。それは光り輝く輪となり、天羽の頭上に輝いた。
その中心部を通り、周囲の霊氣が猛烈な勢いで天羽に振り注いでいく。
「――ヤべぇだろ、それはよ」
山南の術により、外からの霊氣は断たれた。だがそれでもまだ、この地下聖堂には充分過ぎるほどの霊氣が満ちている。それが渦を巻き、天羽に向かって注ぎ込まれようとしている。
柔志狼の足が何かに引っ掛かった。
振り払おうとし視線を落とすと、動きが一瞬止まった。
何者かの指が、柔志狼の足を掴んでいたのだ。
「これは……」
それは伏見丹に侵され、この場所にて息絶えていた男だった。氣枯れ、息絶えた筈の男が、柔志狼の足を縋るように掴んでいた。
辺りを見れば、伏見丹により贄となった人々の屍が、一斉に蠢き始めていた。
「まさか屍返り――」
精気の抜け落ちた虚ろな表情で、遺体が一斉に蠢き始めた。
「いや、氣枯れ《ケガレ》か」
天羽の術式により精気を失った屍に、濁った瘴気が入り込んだのだ。
ふくらはぎに噛り付こうとしたそれを、柔志狼が蹴り飛ばす。
「こいつぁまるで、地獄絵図だな」
互いに肉を喰らいあい、あるものは只ひたすらに暴れ狂う。またあるものは屍人同士の姦淫に耽り、あるものは、只ひたすらに奪いあう。
その姿はまるで、生前に秘めた欲望を解き放っているかのようであった。
「――大罪か」
柔志狼がぽつりと呟いた。死して尚、その身を弄ばれる姿を見るのは、なんとも忍びなかった。
だがそんな中、屍人たちが次々と天羽の周囲に集まり、跪くように首を垂れていく。
「なんだそりゃ。亡者の親玉かよ」
背後から首筋に噛みつこうとした女の屍人を、柔志狼は振り向きもせず裏拳で叩く。蒼白い火花が弾け、屍人は崩れ落ちた。
「御覧なさい。死者を甦らせる力――これこそ神のみに与えられた力。この場には、矢張り神の力が宿っている」
かかか――と、天羽が高らかに笑いを響かせる。
その数は優に一〇〇は超えるだろう。
「手前ぇ……」
天羽との、僅か五間ほどの間にひしめく屍人たちを、氣を込めた掌で打ちすえながら柔志狼が進む。
怒りに身を震わせるその姿は、鬼神の如き。
次々と襲いかかる屍人を打ち据えていく姿は、憤怒の明王でもあり、表情は菩薩のようでもあった。
だが修羅の拳が天羽に届かんとしたとき――
背中に生えた翼を羽ばたかせ、天羽が飛んだ。頭
「虫けらが――」
天羽の翼が大きくたわみ、次の瞬間――無数の羽が柔志狼に振り注いだ。
柔志狼が覚悟を決める。
刃のように鋭いそれが、周囲に蠢く屍人を切裂き、柔志狼にも襲い掛かった。
だがその時、柔志狼を庇うように、白い影が立ち塞がった。
「お前……」
柔志狼の腕の中に、ここねが倒れ込んできた。
「――どうして」
白い指先が、柔志狼の顎をなぞり――落ちた。
「しっかりしろ! 」
その瞬間だった。
ここねから赤黒い靄のようなものが、湧き上がるように抜け出た。
その赤黒い靄は、天羽の頭上の輪に吸い込まれていく。
ここねの身体を石床に横たえると、瞼をそっと閉じてやった。その表情は、どこか微笑んでいるように見えた。
「葛餅、喰いに行けねぇじゃねぇかよ……」
そう呟いて、ここねの髪から簪を引き抜いた。
どろりとした赤黒い靄を吸い込んだ天羽から、膨大な量の霊氣が膨れ上がった。
あぁぁ――と、なんとも淫猥な吐息が天羽の口から洩れた。
ぐぶふ――と、下卑た
むぉぉ――と、苦悶の声が天羽の口から上がった。
それは愉悦であり、またそれは歓喜でもあった。そしてそれはまた、絶望でもあった。
三つの感情が一つの叫びとなり、天羽の口から溢れ出た。
そして金色は赤黒く侵され、天羽の白い肌を錆色に染めっていく。
天草四郎。
豊臣秀吉。
高台院。
三つの怨念が、天羽四郎衛門という虚ろな器の中で、ひとつにとけあ溶け合い、それは産まれた。
ぞくり――と、全身を襲う言いようのない怖気が、結界を張る山南の手を止めた。
高台院を
本能と妄執のまま生者に襲い掛かる屍人から弓月を護りつつ、山南は式鬼を放つ。
だが、次々と襲い掛かる屍人を前に弓月を残して、柔志狼の加勢にはいけない。
弓月を護るための結界を張る手が止まり、山南はそれを見た。
それは地下聖堂の中心――九つある要石のちょうど真ん中に当たる場所である。その上に、高密度な瘴気の渦が巻き起こっていた。
その真下に、天羽が立っている。
柔志狼は――ここねを抱きかかえ、周囲を屍人に囲まれていた。
「葛城っ」
思わず駆け出しそうになるのを、山南は堪えた。
ここが最後の好機か――と、山南が唇を噛みしめる。
眼を開かぬ弓月を見つめ、山南は己の懐にある一振りの枝を握りしめた。
それはあの時、弓月が天羽の眼を刺した楓の枝だった。
「弓月さん、力を貸してください」
その眼もとに、春風のような柔和さはなかった。
ただ、底知れぬ深さを秘めた静かな瞳が、凛と空を見つめた。
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