第51話 淫邪聖母


 金属音と共に広がった不可視の風圧に、山南は反射的に顔を背けた。


 それも一瞬の事。すぐに弓月の姿を探す。

 しかし砕けた祭壇があるばかりで、そこに弓月の姿はない。

 だが――

 祭壇の下。まるで何事も無かったかのように、弓月が立っていた。

 良かった――と、重い身体を引き摺るように山南が駆け寄る。


「大丈夫ですか」


 羽織を脱ぎ、裸のままの弓月に掛けようと差し出す。

 だが、そんな山南の手を、氷のような手が無言で払い除ける。


「――弓月さん」


 紅玉石のような冷たい光を放つ瞳が、山南を拒絶する。

 違う――眼前にいるのは弓月ではなかった。

 眼の前に立つのは、間違いなく弓月その人である。

 だが、その佇まいや雰囲気は全くの別人。

 姿かたちは弓月の若い肢体をさらしているが、まるで齢を重ねた老猫のような佇まい漂わせる。


「――何者です。弓月さんをどうしたのだ」


 鋭い視線を向ける山南に対し、毛ほどの関心も持たず、弓月の姿をしたは静かに周囲を見渡す。


「答えろ!」


 詰め寄らんとする山南に、弓月が腕を突き出した。


「ぐぶっ」 


 その瞬間、見えない空気の塊に殴られたように、山南の身体が吹き飛ばされた。


「貴方の知る弓月という女は、既に存在しない」


 折り重なる暴徒の死体に叩きつけられた山南の横を、天羽が悠々と通り過ぎる。


「この方はマリア。新たなる神の御子を宿す、聖母マリア」


 弓月の眼前に、天羽が跪く。そして愛でるように見つめながら、白く柔らかな下腹部に口づけをした。


 そんな天羽を見下ろし、弓月は愛おしそうに髪を撫でる。


「止めろ! 」


 そんな姿は見たくない。

 村を焼かれ両親を殺され、結月を、楼月を殺され、妹の蓮を無残に殺された弓月が、そのような顔で天羽を抱くはずがない。

 これは弓月に対する冒涜だ。


「その人を愚弄するな!」


 山南は力を振り絞り立ち上がる。

 脇差しを抜くと、天羽に斬りかかった。だがその刃は寸前、山南自身の手で止まった。


「どうしました。山南敬助」


 天羽の前に、弓月が立ちはだかったのだ。


「くっ……」


 山南の身体が小刻みに震えるのは怒りの為だけではない。


「山南さ――」


 一瞬。紅い光が揺らぎ、いつもの憂いある瞳が姿を覗かせた。


「弓月さん」


 それも刹那のこと。

 瞳が再び紅い光を帯びると、次の瞬間、山南の身体を強烈な衝撃が襲った。

 腸を吐き出しそうになるほどの衝撃に意識が揺らぐ。再び吹き飛ばされるのを山南は耐えた。


 自分に向かって突き出された弓月の掌を、山南は掴んだ。


「何者か知らぬが、その身体は貴様のものではない」


 出て行け――と、山南の瞳に鬼気が滲む。

 だが次の瞬間。先ほどよりも強烈な衝撃波が弓月から放たれる。

 山南の身体は木端のように弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。

 咽かえり、喀血しながら身を起こすも、身体に力が入らない。

 顔を上げたそこに、見覚えのある剣先があった。



の大願が成就される、大事なところです。暫しの間、静かに見ていていただけますか」


 山南の剣を拾い上げた草摩が、見下ろしていた。

 首筋にぴたりと当てられた切先から伝わる無情の殺意が、呼吸すら許さなかった。


「あのひとを犠牲に、天羽の野望を見過ごせというのか」


 絞り出す声に、切っ先が咽喉を掻く。ぬるり――と、流れる血が胸元を濡らし、床に広がっていく。


「四郎様の野望?」


 表情の窺えぬ草摩が目を丸くした。


「山南様。貴方は何か考え違いをしておられるようですね」

「考え違いだと。どういうことだ」

「まぁ良いでしょう。なれば尚更のこと、その場で見ていてもらいましょうか」


 ご覧ください――と、山南を促した。

 砕けた祭壇の前に弓月は立つと、両手を大きく差し出した。その後ろに天羽は跪き恭しく見守っている。


 おぉぉぉぉぉぉ―—

 んんぁんんん――


 それはまるで嗚咽のようであった。

 魂の底から湧き上がるような悲哀であり、また愉悦であった。


 おぁぁぁんんん―—

 ぬふぅぅぅぅ——


 恋慕。慈愛。憤怒。哀切――複雑に絡み合い、どうにも堪らぬ思慕の情を表す時、人はこのような叫びを上げるのだろうか。


 あぁぁあぁぁあ――

 ――――ぃいぃぁぁぁんんんん


 否。それは歓喜であった。


 弓月の咽喉から迸るそれは、歓喜の謡。

 白く透明なその声が、聖堂内に満ちた霊氣を紡ぎ、淡い色を成す面紗ベールを織り上げていく。

 聖堂を覆い尽くすように織りなされた面紗ベールが揺らめき、壁の聖母像を包み込んだ。


 その時だった。

 聖母像の胸あたりに光が灯った。

 まるで面紗ベールの霊氣を吸収したのだろうか。金色の光が強さを増していく。


「な、なんだあれは……」

「我らがあるじの復活です。括目してご覧ください」


 草摩が瞳を見開く。

 面紗ベールの向こうで金色に光を放つのは、聖母像に抱かれた赤子だった。

 その光が赤子の頭部に集まり、ますます強さを増していく。


「まさか。まさかあれが――」


 赤子の頭部はより一層と輝きを増していく、

 そして遂に、光に溢れた赤子の頭部が零れ落ちた。


「おぉ――」


 声を上げ、思わず天羽が立ち上がる。

 零れ落ちた赤子像の頭部――それは黄金に輝く髑髏。


 眩いばかりに光を放つ黄金の髑髏が、舞い落ちる羽のように、ゆっくりと降りてくる。

 頭上より降りてくる黄金の髑髏を、両手を広げた弓月が優しく包み込んだ。

 まるで愛おしい我が子のようにそれを抱き締めると、ゆっくりと振り返った。


「これこそ神の器! 賢者の《ラピス》サピエンス!」


 天羽が歓喜に声を上げる。


「あ、あれが聖月杯聖杯なのか」


 神の力を注ぎ込んだ器。天の叡智グノーシスと天羽の呼んだ神の力の結晶。それはまさに、神の御子の薄濃はくだみ


「つくづく、貴方は勘違いをされているようですね」


 草摩が嘲笑する。


「あれは。聖杯ではありません」

「どういう意味だ」

「言ったでしょう。あれは我らがあるじ。どこの馬の骨とも知れぬ神の御子とやらを、我らが敬ういわれはございません」


 草摩が冷たく言い放つ。

 この男は何を言っているのだ。山南が眉間に皺を寄せる。

 あれがゼスの頭骨ではないのならば——


「貴方も祝福してください。真の王の帰還です」


 感情を窺わせなかった草摩が興奮していた。

 弓月は手にした黄金の髑髏を、天羽に差しだした。


 おぉ――と、うやうやしく首を垂れると、再び天羽が跪く。

 そんな天羽の頭上に、弓月が髑髏をかざす。その光景はまるで、新たな王に対する戴冠の様を思わせる。


「マリアよ。謹んで神の叡智をこの我が身に受けましょう」


 アレルヤ――と、天羽の顔が喜悦に歪む。

 その時だった。

 弓月の手の中にある黄金の髑髏が、ぐにゃり――と、歪んだ。


 次の瞬間――砂が零れるように、髑髏の下顎がほどけだした。

 それは蜘蛛の糸よりも微細な錦糸となり、弓月の手から零れ落ちていく。

 絹糸のようにほどけた黄金がはらはらと、まるで繭玉が解けるように、黄金の髑髏が微細な糸と化して天羽の頭上に降り注ぐ。


「おおう。なんと、なんと――」


 それは天羽の白銀の髪を、たちまち黄金に染め上げていく。


「これが神の御力……霊力が漲る――」


 極微細の黄金の糸は、天羽に絡みつき、耳や鼻はおろか毛穴にまで潜り込んでいく。天羽の頭部が、たちまちのうちに金色に染まっていく。

 既に、弓月の手の中の髑髏は頬骨より下は姿を失い、残すは眼窩よりも上だけである。


 あまりに異様な光景に、山南は言葉を失い見入っていた。


 だが突如――

 ぐがぁ――と、天羽が咽喉を引きつらせた。


「――違う! 」


 残された左手で、黄金の錦糸を振り払おうと宙を薙ぐが、錦糸はその手にも纏わりついていく。


「なんなのだ、これは! 」


 掌で顔を庇うように覆うが、隙間から黄金は入り続けていく。


「――お、おのれぇ――謀ったか! 」


 再び、黄金の錦糸を振り払うように頭上で手を振るが、虚しく空を切る。すでに髑髏は頭頂の鉢を僅かに残すばかりだった。


「止めろ! このような薄汚い記憶などいらぬ! これは――」


 神の力ではない――と、仰け反り、金色の光を遮るようにかざした左腕を掴んだのは、右の肩から生えた、黄金に輝く腕だった。


 山南は見た。

 白虎将により断ち斬られた二の腕の辺りに、黄金の糸が寄り集まり、新たな腕を形成するのを。そして、黄金に輝く右腕は天羽の意志に反し動いたのだ。


「草摩! 貴様ぁ、謀ったなぁぁ! 」


 残りの黄金の錦糸が、叫びを上げる天羽の口に吸いこまれていく。


「謀る?」


 冗談ではない――と、草摩が哂った。


「四郎様。貴方が何を勘違いしていたのかは知りませんが、我らは何も謀ってなどおりませぬ。全ては今日この日の為。二六〇年以上も待ち続けた悲願が、漸く結実するのです」


 草摩が高らかに叫ぶ。


様。今こそ悲願の時にござります。今こそ、和子を! 」


 草摩の言葉が合図となったか。

 突如、甘い香気が周囲に湧き上がった。

 弓月の身体から分泌されるそれは、発情した女豹が放つ淫猥な色香。


 弓月から発せられたそれが、あたかも咲き誇る百合の芳香のように、山南の雄の部分を暴力的なまでに刺激する。

 弓月の艶香に当てられ、天羽が狂ったように猛りもがく。


「高台院……確かに、そう言ったか」


 それがなにか――と、草摩が薄い笑みを浮かべる。


「まさか弓月さんの中にいるのは――」

「そうです。高台院様です。聖母――即ち、臣下を含め全ての豊臣の御母堂にして、太閤殿下の嫡妻」


 ねい様であられる――と、草摩は言った。


「どういう事なのだ」

「太閤殿下亡き後も、豊臣に連なる者たちを支え続けたあの御方。その慙愧に堪えぬ思いを叶える事こそが、我らが二六〇年に及ぶ悲願」

「悲願だって」

「影となり日向となり、太閤殿下に常に寄り添い、豊臣の一族全ての母として臣下万民全てを慈しまれた高台院様。だが、そんな菩薩のような御方が、その身の裡に秘めていたたった一つの悔恨」

「それがなんの関係がるのだ」

「関係? 高台院様の悲願を叶えるために、太閤殿下の残した秘術と、切支丹の秘術の仕組みを合わせるのが最も適していた。只それだけにございますが」

「秀吉公の秘術――つまり、聖月杯聖杯の力を使ったというのか」


 さて――と、草摩が頭を振る。


「私が伝え聞くのは、信長公の元に伴天連からの献上品があったということ。それに太閤殿下が尋常ならざる興味を持っていたということ」

聖月杯聖杯にか」

「されど信長公は、若き日の太閤殿下をその一件には、決して近づけさせなかった」

「だから余計に興味を強くしたということか」

「人とは不思議なもので、駄目だと言われれば言われるほどに、欲してしまうもの。まして太閤殿下は、己が欲望に対し、誰よりも素直で貪欲な御方。地位、名声、天下――欲するものはいかなる手段を講じても、必ず手に入れてきた。その様な御方が、その上を欲するとしたら、何だと思いますか? 」

「神の力だとでもいうのか」


 馬鹿な――と、山南は顔をしかめる。


「聖杯にそのような力があると聞き及べば、それが戯言であっても手に入れたくなるは必然。たとえそれが故に主君を殺そうとも欲したのでしょう――」


 聖杯というものを――と、満足そうに草摩が頷いた。


「まさか――」


 草摩の口から、本能寺の変の真実――つまり織田信長の死の真相を聞かされたも同然ではないのか。


 さて――と、草摩は薄い笑みを浮かべる。

 弓月の話では光秀亡き後、信長の命を引き継ぐ形で、秀吉が聖月杯聖杯の封印を完成させたという。ならば秀吉は、少なくとも一度は、聖月杯聖杯をその手にしたのではないか。


「いかに欲しようと、絵に描いた餅は所詮、絵に描いた餅」

「つまり、聖月杯聖杯を手に入れることは出来なかったと? 」

「絵に描いた餅とて、見て写しとることは出来ましょうよ」


 是とも非とも取れぬようすで、草摩が遠くに視線を遊ばせる。


「なんであれ、太閤殿下の欲したものと、高台院様の悲願は共に合いいれるもの。なれば我ら臣下としては、一丸となって果たすのみ。例えそれが――」


 何百年かかろうとも——と、草摩は呟いた。


「我らが今日まで守り続けたものは。それは断じて、切支丹どもの秘宝などではない。あれこそは、高台院さまの悲願を成就させるために守り続けた太閤殿下の薄濃はくだみ

「い、今、何と言ったのだ」


 山南の声が震えた。


「な、ならばあれは――」


 まさか――


の御鉢にございます」


 草摩が言い放つ。


「なんと!」


 草摩の言葉に、山南の全身が粟立つ。余りにも荒唐無稽。なれど、それをこの一連の事件に関わった者として、それが絶対的真実であるということに、疑う余地もない。


「全ては、太閤殿下が聖杯聖月杯の存在を知ってより仕組まれた『黄金月の秘術』」

「黄金月――」

「伴天連どもより得し切支丹の秘術に本邦の術式を加え構築した一世一代の大秘術。稀代の策士でもあった太閤秀吉が組み上げし、輪廻転生を超えし復活の秘術」

「馬鹿な。一度死んだ人間が甦るなど――」


 あり得ん――と、山南が声を荒げる。

 だが、天羽四郎衛門の正体が益田四郎であり、二〇〇年を超えて生きていたと聞けば、草摩の話を否と断ずることは出来ない。


「命尽きし直後の太閤殿下の魂魄を、黄金にて覆った御鉢にて封印。一方、太閤殿下が死を迎える寸前――最後に放たれた精を縁ある者に託し、秘術にて複数の生娘に子を宿らせる。そうして生まれた子を器とする。それこそが――」


 黄金月の秘術――と、草摩が言った。


天羽四郎衛門天草四郎が、その器だというのか」


 まるで一種の蠱毒である。天草で地獄を見た天羽益田四郎は、その身の中にどれだけの呪を溜めこんだことだろう。だが、刻を越え甦った天草の亡霊天羽四郎衛門ですら、豊臣一門の怨念の上で踊らされた駒の一つであったのだ。

 天羽の二百年の孤独すら、何とも憐れに思えてならなかった。


「高台院の悲願とはなんなのだ」

「それ即ち、太閤殿下の子を我が身に宿す事」

「なんだって」

「いかに、かつての主君である信長公の姪であろうとも、側室に太閤殿下の嫡子を譲るしかなかったその悔しさ――」


 想像できますか――と、足元の山南を見下ろす。


「太閤殿下の呪に乗じて、高台院様が己の悲願を成し遂げようと仕組まれたのが、封印の巫女を用いる『聖母観音の術』」

「聖母観音の術だと――」


 女の遺体の中から出てきた黒いまりあ観音。


「左様。復活を遂げし太閤殿下と高台院様が、豊臣の血を継ぎし嫡子を成すこと――」


 それこそ我らの悲願――と、草摩が声を張り上げる。


「たとえ天羽が秀吉の血を継いでいようと、弓月さんは何の関係も――」

「戸浦村の封印の巫女は、

「なにぃ」


 愛おしげに天羽を見つめる弓月。その姿に、山南は唇を噛みしめた。


 狂ってる。

 三〇〇年近くも前に死んだ夫婦が甦るというだけでも悍ましい。再び子を成そうなどと狂気の沙汰以外の何ものでもない


「そんな事の為に、どれだけ多くの人々を犠牲にしたのだ。過去の亡霊が今を生きる者を踏みにじるなど、絶対に許さぬ」


 身を震わせ、山南が力を振り絞る。


「所詮は、匹夫の凡俗になど分からぬ高貴なる宿願。貴方の許しを請ういわれなどありません」


 草摩の持つ切っ先が、山南の首筋に浅く潜る。


「二つの大呪をもって、今ここに我ら豊臣の一門が復活するのです」

「黙れ!」


 突きつけられた己の剣を、山南が握りしめた。


「海の向こうより押し寄せる荒波西洋諸国に抗することも出来ず、獅子身中の虫を払うことも出来ず、今やこの日ノ本という船は沈む寸前」

「黙れ……」

「腐った徳川の屋台骨を打ち壊し、この日ノ本を強き国として生まれ変わらせることが可能なのは、我ら豊臣一門のみ」

「黙れと言っているのだ! 」


 山南が掴んだ刀身に力を込めると、血が飛沫く。


「くっ」


 草摩が剣を引こうとするも、びくともしない。


「それ以上、喋るな」


 山南が立ち上がると刀身が中程から折れた。その折れた切先を逆手に持ち代えると、草摩に向かに振り降ろす。


「愚か也――」


 慌てることなく、それを草摩が折れた剣で受けようとしたときだった。


「――ごぁ……」


 金色に染まる腕が、草摩の胸を突き破った。





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