第39話 悲哀蓮慕


 

 まだ他に仲間がいましたか——


 周囲の樹々を見渡し、天羽が呟く。


「さてどうでしょう」


 山南は含んだように微笑む。

 だがそんな憶えはない。

 柔志狼からも知らされていない。敵か味方か分からぬが、天羽に誤解をさせておいた方が有利であろうと、山南は咄嗟に判断した。


「いいかげん観念してもらいましょう」


 山南が剣を構える。


「それはどうでしょうか」


 天羽が口の端を持ちあがる。

 その時だった。


「……がぁっ」


 柔志狼の口から洩れた苦悶の声に、山南が振りかえる。

 眼を凝らせば、柔志狼にしな垂れかかる蓮の手に何かが握られている。


「そ、それは!」


 蓮の握り締めたそれは、ルプスのナイフだった。

 微睡から覚めた蓮の瞳が、炯と黄色い燐光を発する。それは先程までとは違う妖の光である。


 柔志狼の腰から血があふれ、黒い皮袴を濡らしていく。

 蓮は獣が威嚇するような声を上げると、柔志狼から逃げようと全身でもがいた。


「よせ……」


 だが、柔志狼は、蓮の腕を掴まえて離さなかった。

 その光景を眼にした弓月が嗚咽を漏らした。


「貴様、何をした!」


 山南が天羽を睨みつける。


「贄は活の良い方が、興がそそられるものですよ。それより――」


 良いのですか――と、天羽が顎で示す。

 その先に、跳ねるように立ち上がるルプスがいた。


「葛城、逃げろ!」


 山南が叫ぶ。

 分かってるよ――柔志狼も、ルプスの姿は捉えている。

 だがそうしようにも、柔志狼こそが仇とばかりに、激しく暴れる蓮が邪魔をする。


「呪か」


 先程、額に触れたとき、天羽がなにか仕込んだのであろう。いや、もしかすればそれ以前に、蓮を捨て駒にするべく仕込んであったのかもしれない。

 そんな山南の思考をよそに、殺気の塊が柔志狼たちに迫る。

 ちぃ――と、強引に連絡を抱え、柔志狼は己の身を被せるようにして地面に転がった。


 間一髪――二人のいた空間を、ルプスの凶爪が空気を焦がし切裂く。

 直ぐに柔志狼が身を起こすと、その胸の下で《蓮が狂ったように爪をたてる。

 そんな蓮の脚が、腰に刺さるナイフに当たると一瞬、柔志狼の顔が苦悶に歪んだ。


「許せ」


 れんの上に跨り、額を左掌で押さえつけると、柔志狼は呼吸を整える。


「吟っ!」


 気合と同時に、柔志狼の掌から淡い光がほとばしる。

 その瞬間、蓮の身体がびくりと、仰け反った。


「はぁ――」


 水に溺れた後のように呼気を洩らすと、蓮の瞳に正常な光が戻った。


「よし――」


 安堵の溜息と共に、どろりとした嫌な汗が柔志狼の頬を流れる。

 その時だった。


「――葛城!」


 柔志狼の背が大きく弾けた。


 巨大な力が叩きつけられ、柔志狼の分厚い体躯が、まりのように吹き飛んだ。

 柔志狼の身体は石段を越え、朽ちかけた賽銭箱を粉々にすると、扉をぶち破り拝殿の中に消えた。


 ぐるるるぁ!

 

 ルプスが咽喉を突き立て咆哮を上げる。

 その腕には、蓮が再び囚われている。


「嫌ぁ!」


 正気の戻った蓮が、悲鳴を上げた。


「せっかく呪を解いても無駄でしたね」

「天羽ぉぉ!」


 山南が剣を振りかぶる。

 だが、その剣が宙で止まった。


「くっ!」


 動けぬ弓月の身体を前に突きだし、天羽が微笑を浮かべる。


「卑怯な――」


 山南が歯を軋ませる。

 こんなところで弓月の命を無駄に使う気がないことは、山南にも充分わかっている。


 だがそれでも――


「どこまでも甘い方ですね」


 弓月を盾にしたまま、天羽が魔法円の中心に下がっていく。


「何故この場所を選んだか知っていますか」


 天羽の足元――石畳の中で、二寸ばかりの丸い石から黒い靄のようなものが立ち昇っていた。


「それはまさか……」


 山南が言葉に詰まる。


「稀代の大陰陽師の遺産――といえば大袈裟ですかね。一条戻橋から流れる霊気をろ過するの一つと言えば分かりますか――」


 天羽が手にした杖を振り上げる。


「まさか――貴様が術を仕掛けた場所は全て……」


 要石――或いは、龍丹炉りゅうたんろともよばれるそれは、土地の氣の流れである龍脈を整えるために置かれた、いわば『氣』の濾過装置である。自然じねんのものを流用したものも存在するが、その姿や大きさは様々である。


 石と名がついているが、それに限らず樹や像など、また或いは生き物である場合もある。

 特にこの京では、遥か昔より様々な霊脈を整えるために、所々に大小さまざまな要石が配されていると聞く。


「気が付くのが遅いですね、山南敬助」


 天羽が杖を振り降ろした。

 刹那――要石が割れ、濁った瘴気が噴き出した。


 瘴気は、魔法円をなぞるように渦を巻き、その中心に向かい吸い込まれていく。


「作られし獣の王よ。土と火と水と風より生み出された、罪深き混沌の落とし児よ。時は満ちた!存分に喰らうがよい」


 GULA!


 天羽が声に呼応するかのように、魔法円が光を発した。


 Guriiiiiiiiiea――


 それに触発されルプスが雄叫びを上げる。


「――っ!」


 弓月が声にならぬ声で、蓮の名を叫ぶ。


「止めろ!」


 山南が奔った。


 魔法円の中心――砕かれた要石の上にルプスは立ち、背後から蓮を抱きしめた。

 まるで愛おしく慈しむかのように。


「……いや――い、いや……嫌――――」


 蓮は、幼い子供のように怯え身を震わせる。

 咽喉を鳴らしながら、ルプスの顎がゆっくりと降りてくる。


「――急々如律令!」


 山南が呪符を放つ。

 黒い鳥の姿となった呪符は飛燕のように飛ぶが、見えない壁に阻まれ魔法円の寸前で弾けた。


「無駄です」


 塞がる天羽が、胸の前で印を組む。


「結界か」


 ならば――山南が腰溜めに剣を構える。

 ――間に合うか!


「無駄と言っている」


 天羽から放たれた見えないウリエルの吐息が、山南をさえぎる。


「くっ!」


 剣を眼前に突き立て天羽の術を受けるも、肩を裂かれ山南が膝をつく。

 その瞬間、まだ青さの残る蓮の乳房に、ルプスの牙が突き立てられた。


 ぞぶり――と、濡れた雑巾を叩きつけるような音。

 くちゃり――と、泥を捏ねるような音が続き、蓮の白い肌の上に、大輪の血の花が咲いた。

 

 きひぃやぁぁぁぁぁ――蓮の絶叫が空気を震わせる。


 肉をかじり血をすする――耳を覆いたくなるような咀嚼音が、蓮の悲鳴をかき消していく。


「嫌ぁぁぁぁぁぁ――」


 あまりの絶望に術が解けたのか。その光景を目の当たりにした弓月の口から悲鳴が上がった。


 天羽の手から抜け、その場に力なく崩れ落ちる弓月。

 その姿に心を残しつつも、山南は魔法円に走った。


 その時だった。


 突如、地鳴りと共に足元が激しく揺れた。

 それに共鳴するかのように、魔法円が妖しく明滅する。

 同時に、なにか見えぬ力が三方向に迸るのを山南は観た。


「こ、これは――」

「要石から放たれた地龍が、術式に走り始めたのですよ」

「なんだと」

「この地に荼毘手の六芒星が刻まれたのです」


 両手を広げ、天羽が嗤った。


「残念でしたね山南敬助。これで私の計画を止めることは出来なくなりました」


 もしもこの瞬間、山南が鳥のように俯瞰することが出来れば、京の都に浮かび上がる巨大な六芒星を見ることができたであろう。


 だが不思議なことに地龍は三つ奔った。

 この地を起点として六芒星を描くのであれば、二つで済む。


 では残る一つは――


 泣き崩れる弓月を、天羽が抱え上げるのを見ると、山南は思考を中断した。


「待て!」

「遊びの時間は終わりました。いざ復活の地へ参りましょう」


 穢れし純白のマリアよ――と天羽がほくそ笑む。


 だがその時、


「なにっ!」


 突如、暴風のような殺気が、その場にいた全員を叩いた。

 ルプスが動きを止め、山南と天羽の視線が壊れた拝殿で止まる。

 そこから地場のように強烈な殺気が噴き出していた。


「ちょっと、寝ちまったぜ」


 ゆらり――と、額を流れる血を拭い、拝殿の奥から柔志狼が姿を現した。

 

 かはぁ――と息を吐き、柔志狼がゆっくりと石畳を降りてくる。

 まるで柔志狼の周囲だけ、殺気で空間が歪んでいるようである。

 天羽ですら固唾を飲んで動けずにいた。


「なにしてんだよ」


 ルプスの眼前に、柔志狼が立つ。


「この――」


 犬畜生が――柔志狼の殺気が爆発した。

 ルプスの顔面に、柔志狼の岩のような拳が炸裂した。

 同時に、もう一方の手で、蓮の身体を奪い返す。

 

七尺を超えるルプスの巨体が吹き飛んだ。


「こんなになっちまって……」


 柔志狼はその場に膝を着くと、左胸から首筋までを喰われた蓮の身体を抱き締めた。


「すまなかったな……偉そうなこと言ったのに、助けてやれなかった――」

 蓮は微かに瞳を震わせ、柔志狼を見上げた。

 咽喉をほとんど失い、ひゅーひゅーとした擦過音で、唇を震わせた。


「もう休んでいいんだぜ」


 柔志狼がそっと瞼を閉じさせると、そこから一滴の涙が滲んだ。

 急速に冷たくなっていく蓮の身体を、柔志狼が優しく抱きしめる。


「はぁっ、はっ、はっ――」


 呼吸を荒く、弓月は狂ったように首を振る。

 よろよろと、弓月が駆け寄ろうとするが、天羽がそれを許さない。


「マグダラのマリアよ、どこへ行くのです。神の復活の時間ですよ」


 弓月の手首を引き寄せた。

 その時だった。


「お前がぁ――」


 振り返った弓月の手に、先ほど手折った楓の枝が握られていた。逆手に握ったそれを天羽の右眼に突き立てた。

 

「ふむ」


 だが天羽は、弓月の手を離さず、平然とした様子でその枝を掴むと、なにごとも無かったように引き抜き投げ捨てる。


「本当に困ったマリアだ」


 天羽が額を撫でると、弓月が再び力なく崩れた。

 同時に、潰れていない天羽の瞳が、元に戻った。


「さて――私は行きますが」


 山南敬助、私を止められますか――そう言い放つと、天羽は弓月を抱え走りだした。


「待て!」


 追う山南に向け、天羽がウリエルの吐息を放つ。

 駆け出した山南は、刀身を剣印で叩いた。

 刀身が白く輝くと、振るう刃が天羽の術を切裂く。

 だがすでに天羽と弓月の姿は闇に吸い込まれていく。


「――ルプス。後は任せます」

「天羽ぉ!」


 後を追う山南の前に、ルプスが立ち塞がる。

「邪魔をするな!」


 下段に剣を構え、山南が正面から突っ込む。


 だが――


「――柄じゃねぇだろ」


 熱くなり過ぎだぜ――と、山南の横を音もなく、柔志狼が通り過ぎる。


「葛城――」


 山南とルプスの間に、柔志狼が立ち塞がった。


「行けよ」


 二人の消えた闇を指し示す。


「しかし――」


 蓮に刺された傷は浅くはない。常人であれば立っていることすら困難であろう。


 二人を挑発するように、ルプスが吼える。先程のお返しとばかりに、殺気を叩きつける。


「弱い犬ほど良く吼える――」


 柔志狼の背が嗤う。


「こいつは俺の獲物だ」


 行け山南――と、柔志狼が声を荒げる。

 次の瞬間、柔志狼とルプス――二匹の獰猛な獣が同時に動いた。


 山南は、急速に冷たくなる蓮を悼み天を仰ぐ。


「葛城!死ぬなよ」


 足元に転がる楓の枝を掴み、山南は闇に駆けだした。

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