第35話 刀犬蠢動
ぐつぐつと煮えたぎる油釜のようであった。
三十畳ほどの部屋に二十人以上の
身の裡にたぎるものが漏れるのを惜しむかのように、誰もが皆、一様に押し黙っている。
行燈が一つあるだけの薄暗い部屋で、黄色く濁った無数の眼だけが、ぎらぎらとした光を放っている。
――と、その時。
音もなく障子に人影が映った。
気配を察したのか、獣たちの視線が一斉に集まる。
「おまんら、待たせたの。いざ出陣じゃ」
大柄な蓬髪の男が障子を開け放ち、良く響く声で告げた。
無言で男たちが一斉に立ち上がった。
乱れた髷に、無精ひげ。汗と垢の浸み込んだ着物は、なめし皮のような光沢を放ち、異臭すら漂わせている。とてもではないが死に装束と呼ぶには、あまりにもみすぼらしい。だが、獣と化した男たちに気にした様子はない。
「我らこれより尽忠報国の志士として、天子様を惑わす大奸物たる松平容保を討つべく立ち上がる。そん首をもって、勤王の狼煙をいま一度立ち上げん。そいを持って今一度、天子様を頂点とし尊皇攘夷の刃を掲げるんじゃ」
蓬髪を振り乱し、男が声高に叫と、男らの内圧がはち切れんばかりに昂まる。
「然るのち。それを持って、土佐にて幽閉されちょる我らが盟主。武市瑞山をこの京へ返り咲かせようぞ」
るぁぁ――と、男堰を切ったように雄叫びが迸った。
男の弁説が、獣の鎖を解き放ったのだ。
「行くぞ」
蓬髪の男を先頭に、獣たちが部屋を後にする。
その時。
サカモト様――と、横から声がした。
「豊壺屋か」
廊下の角に、色の白い若い男が控えていた。
「那須平たちは戻りましたかの」
「いえ。どうやら失敗したようで」
残念にございます――と、形ばかりの口上で、草摩が頭を下げた。
「致し方あるまいよ」
サカモトと呼ばれた蓬髪の男が、天井を仰いだ。
「いよいよ、御出陣にございますな」
草摩の能面のような整った顔立ちからは、感情が伺えない。
「これも全て、お前んら豊壺屋と天羽殿の力添えが有ればこそ。礼を言わせてもらう」
サカモトが礼を言った。
「長州や武市様がこの京へ戻られました方が、私どもとしては商売がやり易うございます。いわば、利害が一致しただけのこと」
礼には及びません――と、形ばかりの薄い笑みを貼りつかせた。
「伏見丹でございます」
草摩が懐から、紙包みを取り出した。
「既に昨夜から服用されております皆様と違い、サカモト様は飲んでおられません故、その分、強めに仕上げてございます」
「大丈夫なのか」
サカモトが怪訝そうに眉をしかめる。
「即効性を高めてあります故、陽が昇るころには効果も抜けましょうが」
手渡された紙包みを暫し見つめ、サカモトはそれを懐に納めた。
「よもやこれが今生の別れとなるやも知れん。天羽殿にも、くれぐれも宜しゅう、御伝えくだされ」
そう言って、サカモトは出て行った。
「御武運を」
深々と、慇懃に頭を垂れる草摩の口角が、三日月のように吊り上っていた。
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