第36話 傀儡芝居


 しんしんと、凍てつくような夜気だった。


 辻を覆い隠すように繁る樹の間から、白い刃のような月明りが、しらしらと零れている。


 雪にでもならなきゃいいが――と、男が呟いた。


 満月である。

 背中に月明りを受け、みっしりと肉の詰まった太い男が悠然と歩いていた。


 五尺七寸ばかりだろうか。

 まるで山門に立つ仁王像を錯覚させるような、密度の濃い体躯をしていた。

 葛城柔志狼である。


 どこか飄々とした常とは違い、狩猟に向かう狼のような空気を漂わせている。

 傍らには、表情のない弓月が、地に足のつかぬ様子で付き従っている。


「ここか……」


 色の剥げた朱塗りの鳥居の前に立つと、柔志狼は独り呟いた。

 油小路通より東に入った辻――ここより今しばらく東へ進めば、御所である。更に、これよりも北へ行けば一条戻橋である。


 かつて、ここより北は異界とされ、橋の西側には、稀代の陰陽師である安倍晴明の屋敷があり、東側には土蜘蛛退治などで高名な、源頼光の屋敷があった。時代が下って、豊臣の治世には、秀吉が己に逆らった千利休の首を晒した場所でもあるという。


 人々の思惟と魔が入り混じる混沌の魔界――その境界線であったのが一条戻橋であった。それ故か、辻を違えているとはいえど、この一帯には強い霊気が漂っているようである。


 そんな中、既に名も失った古びた社は、樹々の梢に埋もれる様にひっそりと佇んでいた。


「結界か」


 鳥居を踏み越えた瞬間。柔志狼の眼が、すっと細められた。

 本来、清浄なる神域であるはずの境内が、すえたような穢れた空気を漂わせていた。

 後ろに付き従う弓月を気遣うそぶりも見せず、柔志狼は無造作に鳥居を潜った。


 人の手が入らず、うっそうと繁った樹々により、月明りもほとんど届かない。

 だが意外な事に、境内は明るかった。

 見たこともない鉄灯篭がおかれ、炎が妖しく揺らめいている。

 良く見れば、地面に油のようなもので四間ほどの円を描き、外周に等間隔で鉄灯篭を配しているのである。


「——方陣か」


 各々の燈籠を直線で繋ぎ、円の中に六芒星が描き出されている。更に、円の縁は二重になっており、その中に先程の式鬼返しに書かれていたものと同種の文字が刻まれている。

 それは西洋の魔術でつかわれる、魔法円と呼ばれるものであることを、柔志狼が知る由もない。

 だがそれが、ひどく禍々しい氣を発している事だけは充分に理解できた。

 

 その魔法円の内側で、燈籠の炎に彩られながら、肉の塊が蠢いていた。

 まるでそれは、巨大な二匹の朽縄くちなわが身を絡ませ、悶えている様を思わせた。


 或いはそれは互いに相身を喰らい合う、二匹の獣のようだった。

 まだ青さを残す若い娘と、七尺はあるであろう隆々たる肉体。それが互いの肉体を貪るように一心不乱にまぐわっている。

 そのなんとも異様で淫靡な光景に、柔志狼が露骨に表情を歪めた。


「生命の原初にして最も尊き行為は、いつ見ても美しいとは思いませんか」


 朽ち果てた拝殿を背にし、白い闇があった。

 魔法円全体を見下ろすよう、石段の上に独りの男が立っていた。


 銀糸のごとき灰白色の髪。

 白磁人形ビスクドールを思わせるような、透明感のある白い肌。笑みを絶やさぬ唇だけが血塗られたように紅い。

 白い絹のシャツに光沢のある襟飾ネクタイ。金の装飾の付いた杖を持ち、フロックコートを纏った、天羽四郎衛門がそこにいた。


「よう。また会ったな」


 不快感を隠しもせず、柔志狼が獰猛な笑みを浮かべた。


「今宵は蕎麦の代わりに、巫女を届けてくださいましたか」


 紅い唇が嘲るように綻ぶ。


「ですが、残念ながら貴方を呼んだ憶えはないのですがね。殿」

「知ってるかい。世の中には『押し売り』って言ってな、押しかけて無理やり買わせる商売もあるんだよ。手前ぇの理屈なんざ、俺には関係ねぇな」

「そのようですね」


ふわり——と、軽くて跳んだだけの天羽が、軽々と魔法円を飛び越え、音も無く柔志狼の前に降り立った。


「なんであれ、貴方は『マグダラのマリア』を連れてきてくれた。感謝しますよ。巫女を置いてそのまま帰るのであれば、貴方の事は無事に帰してあげましょう」


 無事にねぇ――と、柔志狼が鼻で嗤う。


「ありがたくて涙がでるぜ」


 天羽と柔志狼の距離は二間に満たない。背後に弓月を庇っていることを考えると、なんとも難しい距離である。

 

「冗談じゃねぇな。女置いて『はいそうですか』と、手ぶらで帰るようじゃ男が廃るってもんだぜ、おい」

「御駄賃くらい差し上げますよ」

「ふふん。俺ぁは安くねぇぜ」


 天羽が、指を一本立てた。


「なんだそりゃ」

「これで如何です?」

「おい、餓鬼の使いじゃねぇんだ。女一人連れてこさせ、一両たぁ――」

「御冗談でしょ」

「なに?」

「一箱です」

「おい、そりゃ――」

「千両箱の一つくらい差し上げても良いと言っているのです」

「へぇぇ――そいつは何とも豪気なこったな」


 柔志狼が目を丸くする。


「ならば商談は成立ですね」

「駄目だな」

「足りませんか」

「足りねぇな」

「では、もう二つほど上乗せ致しましょう」


 天羽が指を三本立てた。


「そいつは凄ぇ。もしかして、渋ればまだまだ出てくるんじゃないのか」

「あまり欲をかくのはお勧めしませんが。まぁ良いでしょう」


 天羽が眼を伏せる。


「交渉事で、最初はなっからでかい事をほざくのは、まだまだその上を出せる余裕があるってことだろ。或いは――」

「或いは?」

「そんな気なんざ全く無いってことだ」


 柔志狼と天羽の視線が交錯すると、どちらからともなく笑い声が上がった。


「本当に豪胆な人だ。ですが、私は本気でお支払しても良いと思っているのですよ」


 但し――と、柔志狼を見つめ、

「あなたが全て忘れて、この京から直ぐに立ち去ると言うのであればね」


 どうです――と、天羽は言った。


「成程、成程。俺にそれだけの価値を見出すか。悪くねぇな」


 柔志狼はご満悦の様子で頷く。


「ただ――」

「なにか?」

「俺にも商売上の面子ってもんがあってな、それをほったらかしてケツまくる訳にはいかねぇんだ」

「商売?」

「手前ぇの邪魔をしろって仕事なんだよ」


 困ったように頭を掻く。


「私の邪魔ですか」

錬金術師あるけみすとってんだろ。大陸でいうところの錬丹師ってところか」

「良くご存知ですね」


 天羽が感心する。


「あちらでは、石ころを黄金に変える術などというらしいが、その究極に行き着くところは永遠の命。要するに神になるってことか。そりゃつまりは、お隣の国でいうところの、仙人になるってのと、同じようなもんだ」


 柔志狼が試すように言った。


「難破船から助け出された糞ガキが、言葉も通じぬ異国でなんの後ろ盾もなく一代で成り上がって凱旋帰国だと? 良くできた話だが、向こう《西洋》の連中はそこまでお人好しか?」

「何を仰りたいのですか」

「石っころを黄金に変えることが出来りゃ、千両箱をぽんぽんとくれるなんて話も出来るよな」


 小馬鹿にした笑みを浮かべ、柔志狼が親指と人差し指で輪を作る。


「因果律を変えるというのは、そんなに楽なものではないのですがね」


 天羽の言葉には、柔志狼に対する嘲りが込もっていた。


「石は石。金は金。獣は獣。そして人は人――その元々の本性たる因果を越えて別のものに変じるなど、森羅万象の理に反すること。もし仮にそのような事が出来るのだとすれば、それこそまさに、神の力だと思いませんか」

「成程。それで神の真似をしようと作ったのが、葉沼屋の獣人と伏見丹か」

「そんなところですかね」

「猿真似をして、いっぱしの神さま気取りか」


 その言葉に、天羽の笑みが強張った。


「で、次は聖月杯とかいう切支丹のお宝を手に入れ、ペテンに磨きをかけるつもりかい」


 馬鹿馬鹿しい――と、柔志狼は両手を上げた。


「馬鹿馬鹿しいですか」

「どこまで行っても、人は人。獣は獣だ。それ以上にも以下にもなれんぜ。ましてカミサマになんぞ――」


 なれるわけないだろ――と、柔志狼が吐き捨てる。


「ですが、それを成した人間が、一人だけいるのです」

「それがゼスって野郎か」

「はい」

「成程。そんな事を言ってるから『なざれの道化』と言われてんだな」


 その言葉に、天羽の頬がぴくりと震える。


「どこでそれを……」

「さてね」


 ふふん――と、柔志狼が嗤う。


「それを聞いては、金を払って御退場願うというわけにはいきませんね」

「ならどうするよ」


 柔志狼が嗤った。それは獲物を前にした野獣の笑みだ。


「あなたにも神の奇跡と言うものを見せて差し上げます」

「奇跡だぁ? そんな腹の足しにもならんもの、いらねぇよ」


 柔志狼が鼻で笑い飛ばした。


「おい。そんなものより、手前ぇの目的を聞かせろよ」

「我らが神の御子を再誕させ、この日本をパライソと致すこと」

「はぁ?」


 柔志狼の眉間に皺が寄る。


「聞こえませんでしたか?この地に、真なる神の国『千年王国ミレニアムキングダム』を築くのですよ」

「髪のノミ子の復活?みれにあむきんぐだ……?なんだそりゃ?」


 唖然とした柔志狼が溜息を吐く。


「手前ぇ、商人なんかより三文戯作者の方が向いてるぜ」

「関ヶ原に勝ち、徳川幕府が全国の大名を統治して二百六十年――――」


 天を見上げ、天羽が呟いた。


「だがそれは、罪なき無辜の民であるところ――即ち、善良で汚れ無き魂を抱いた憐れな子羊が、平穏な日々に生きることすら許さぬということ」

「なんだ。ついに頭がいかれたか」


 柔志狼が頭の横で、くるくると指先を回す。

 だがそんな挑発など天羽の耳には届かぬようだった。


「ただひたすらに安寧を願い、神に祈りを捧げる人々を、かくも無残に蹂躙し犯し殺した。それでもなお飽き足らず、神に対する信仰すら愚弄し奪い去った……」


 空を覆う梢の向こうに何かを見つめ、天羽が言った。


「だがそれは、なにもこの日本だけの話ではない。この二百数十年、刻の流れの外に身を置き、エウロパを巡りアジアを放浪し、アメリカにも渡った。だがこの世界のどこにも、パライソなど存在しなかった。そう、約束の地であるところの神の王国は、この地上の何処にも在りなどしなかった――」

「何の話だ」


 柔志狼が眼を細める。

 ですから――と、天羽が、柔志狼を見つめた。


「ですから私は決めたのです。無いのならば作れば良いと」

「だから何を作るんだよ」

「神の御名の下、全ての争いや飢えや悲しみ災厄など存在せず、罪や汚れの一切無い約束の地を築くのですよ」


 己の言葉に陶酔したのか、天羽は眼を閉じ、再び天を仰いだ。


「争いや悲しみの無い神の国だと?おいおい天羽よ。手前ぇの頭、完全にいかれてんじゃねえか?」


 けっ――と、柔志狼が吐き捨てる。

「手前ぇの身勝手な理想は結構だがな、御高説とやってることが真逆だろ」

「逆?」

「あぁ、そうだ。争いや苦しみの無い国を作るだなんて綺麗ごとほざきやがるが、手前ぇは無関係な人間を巻き込み、罪のない人間を犠牲にしてるじゃねぇか。どんなに綺麗ごと並べ立てたところで、手前ぇのやっていることは盗人の理も同様」


 聞いて呆れるぜ――と、柔志狼が吼えた。


「罪のない? それは誰の事を言っているのです」

「なら訊くが、葉沼屋の糞爺は因果応報と言えど、女房や娘に罪はあるまいよ。それを犠牲にしておいて、綺麗ごとが過ぎると言ってるんだよ」


 柔志狼が語気を強める。


「葉沼屋藤兵衛と繋がりがある――それだけで充分罪深き存在」

「そいつは随分と業腹な物言いだな」

「『荼毘手ダビデの結界』を張るための贄は例外なく全てが罪深き盲目の羊たち――その愚かな罪をあがなわせて差し上げたのです。彼らの贖罪こそが、主を復活させるための呼び水。彼らの穢れし魂も天へと上り救われるのです。感謝されこそすれ、責められるなど心外。あなたの言っていることこそ――」


 お門違いというものです――と、天羽は言った。


「黒船が蒸気ふかして海越えてくるこのご時世に、人身御供捧げて神さまの復活だと? そりゃどこの淫祀邪教だ。そんなことが通用するとでも思っているのか」

「はい」


 天羽が真顔で答える。


「そのために、この姐ちゃんと聖月杯が必要だというのか」


 ぎり――と、柔志狼が歯を軋らせる。


「ご理解頂けてなによりです。さぁ、封印の巫女『マグダラのマリア』をこちらに渡してもらいましょうか」


 白い幽鬼のような指先が、弓月を指さし――誘う。


「渡さないと言ったら」


 柔志狼の身の裡で気の圧が増す。


「あなた如きが蟷螂の鎌をもって吠えてみたところで、滑稽なだけですよ」

「蟷螂の鎌ね……なら――」


 試してみるか――と、柔志狼の氣が爆発的に膨れ上がる。

 柔志狼から噴き出した殺気が、爆風となって天羽の顔面を叩いた。


「しぃぃぃぃっ――――」


 だが天羽は、それを微風とも感じず、子供を諭すように指を口元に立てる。

 普通これだけの殺気を叩きつけられれば、感受力の強い者ならそれだけで吹き飛ぶこともある。逆にそのような力が無ければ、腰を抜かしてへたり込むだろう。どちらにしても無反応では済まない。だが天羽は、それを何事もなく受け流した。


「面白ぇ……」


 底の知れぬ天羽という存在に、柔志狼が不敵な笑みを浮かべる。


「どうかお静かに。そして御覧なさい。そろそろ儀式の最高潮クライマックスです。見逃さないようにしてください」


 天羽の顔からは、一切の感情が読み取れない。だが何故か、子供のようにはしゃいでいるように見えた。


「さぁ、括目なさい」


 すぅ――っと、天羽が身を引いた。

 すると、魔法円の中で黒い巨大な影が立ちあがった。


「gula――作られし獣の王よ。偽りの巫女の全てを喰らうがよい」


 柔志狼を遥かに凌駕するその肉体は、天羽の従者である武蔵たけぞうだった。

 仁王立ちになったその身体に、白く華奢な影を抱えていた。


「おい――それは……」


 ひくり――と、柔志狼の頬が引きつる。

 武蔵が己の半分にも満たぬ白い裸体を激しく揺すり、下腹部を突き上げる。

 小さな身体を千切れんばかりに仰け反らせ、一心不乱に髪を振り乱すその姿は――


「手前ぇ……まさか――」


 魔法円の中でもつれあっている時は気がつかなかった。

 否――予感はしていた。だが柔志狼はそれを認めたくなかったのだ。

 仄かに紅光を放つ瞳で身悶えるその娘――沖田と共に、伏見丹に侵された浪人たちから救った娘――れんであった。


「感謝しますよ」


 と、天羽が言った。


 あひぃぃ――と、艶のある嬌声を上げて蓮が愉悦に仰け反った。

 

「あの時、あなたがくれなければ、ここまで最高の儀式にはならなかったでしょうから。心より――」


 感謝いたしますよ――天羽が紅い唇の端を吊り上げた。


「この糞野郎がっ!」


 柔志狼の中で怒気が爆ぜた。

 背後に弓月が居ることすら失念し、弾かれたように跳び掛かった。


 だが――


「遅い」


 魔眼――天羽の瞳が闇に染まり、中心の一点から白き虹彩が広がると、仄かに光を放つ。

 大きく広げた両手で胸の前に十字を切ると、見えない刃が柔志狼を襲った。


「ちぃぃぃ――」


 見えない刃に向け、柔志狼は両掌を叩きつける。

 その瞬間、不可視の力が弾け、柔志狼の身体が大きく弾き飛ばされた。


「ほう――『ウリエルの吐息』を受けますか」


 感心したように天羽が声を上げる。


 だがしかし――


「さぁ、真のマグダラのマリアよ、我がもとへ」


 それ以上の興味も示さず、天羽が、弓月の前に手を差し伸べた。


「ヤべぇ」


 跳ねるように立ち上がると、柔志狼は奔った。


「これは――」


 弓月に触れる寸前。天羽の差し伸べた手が止まった。

 白い弓月の身体が、風にそよぐように揺れたのだ。


たばかりましたね」


 燃え盛る篝火に平然と手を突っ込むと、天羽は真っ赤に焼けた炭を掴みだした。


「煉獄の炎にて、その罪を焼きなさい」


 天羽の掌の上で炎が鎌首をもたげた。

 まるで意志を持つ炎――燃え盛る蛇と化した炎が、揺らめく弓月に飛び掛かった。

 声を上げる間もなく、弓月の身体が炎に包まれた。


「あちゃ――ばれちまった」


 柔志狼が馬鹿にしたように舌を出す。


「矢張り『式鬼の符』か」


 たちまちに灰塵と化し、宙に消えていく弓月を、天羽が冷たい眼で見つめる。


「神さまだのなんだのと、偉そうにほざくくせに存外に鈍いんだな手前ぇも。こんな陳腐な手は早々にバレると思ってたのによ」


 ぽんぽん――と、柔志狼が手を叩く。


「勝手に自己陶酔して、偉そうにぺらぺら喋りやがって。三文芝居の舞台じゃあるまいし。こちとら笑いを堪えるのに必死だったぜ」


 柔志狼が声を上げて嗤った。

 天羽の表情は変わらない。先ほどと変わらず、微かに唇の端を上げたままである。

 だが、感情を露わにしない天羽の中で何かが揺らいだように見えた。 


「そういうの何だっけか……そうそう、確かエゲレスでは『なるしすと』って言うんだってな」

「……黙れ――」

「なざれの道化じゃなく、情けねぇ道化だな。おい――」


 しれっ――と、挑発しておいて柔志狼は魔法円へ奔る。


「黙れ!」


 声を荒げた天羽が、両の掌で篝火から炎を掴みだす。じりじりと、肉を焼くにおいが周囲に立ち込めた。


「――――ミカエルの炎よ!神敵に灼熱の天罰を!」


 天羽の掌より膨れ上がった炎が、紅蓮の矢となって柔志狼を襲った。


 こぉぉ――と息を吐き、柔志狼は全身に氣を満たす。


 炎の一矢を紙一重で躱し、続けて顔面を襲う炎矢を拳で薙ぎ払った。


「はんっ、図星を突かれて頭にきたか」

「行かせませんよ」


 魔法円へ飛び込もうとする柔志狼へ向け、天羽が炎矢を立て続けに放つ。

 さすがの柔志狼も、躱し捌くのが精一杯で、脚が止まる。


「本物のマリアはどこです」

「さあね」


 柔志狼が舌を出す。


「何処です?」


 炎を纏った天羽の指先が、魔法円の中の蓮を指し示す。


「おいおい。殺したら拙いだろ。大事な巫女様だろうがよ」

「どうでしょうか?試してみますか」


 天羽が無機質に言い放つ。


「そうさな――」


 柔志狼の頬を汗が流れる。天羽の真意が分からない。

 今までの流れでいけば、おそらく蓮の命も奪うつもりなのであろう。だが、儀式が途中であるのならば、それは今ではない。


 ならば――


「見くびらない方が良いですよ」


 柔志狼が僅かに重心を傾けた瞬間だった。

 天羽の指先から、炎矢が放たれた。

 結界を破り、炎矢が蓮の太腿を焼いた。

 苦痛と快楽の同時攻めに悲鳴を上げ、身悶える蓮を背後から武蔵が押さえつける。


「止めろ!」


 再び構えられた炎矢に、柔志狼は完全に動きを封じられた。


「あなたも甘いようですね」


 冷たい硝子のような眼で天羽が見つめる。


「マリアはどこです?」


 再び振り出しに戻った。だが状況は悪化した。

 柔志狼に対して、蓮の存在が充分な枷になることが露見してしまったのだ。

 天羽にしてみれば、蓮を殺す必要はない。命を奪わぬ程度に嬲るだけで十分なのである。

 それは柔志狼にも分かっている。


 だが――


 知らねぇな――と、絞り出すように応えた。


「仕方ありませんね」


 天羽の指先で、炎が揺らめく。


「どうする気だ!」

「先ずは一つ、光を奪いましょうか」

「よせ!」


 射軸を遮ろうと、柔志狼が奔った。


「武蔵!」


 蓮の白いうなじに、武蔵が噛りつく。

 その瞬間。天羽から放たれた炎矢が、柔志狼の脇腹を焦がした。


「マリアは山南敬助と一緒なのですね」

「山南だと? 誰だそいつは?」


 傷を押さえもせず、柔志狼が嗤う。


「武蔵」


 ぞぶり――と牙のような歯が、蓮の肉を削ぐ。

 ひぃ――と、蓮が甲高い悲鳴を上げた。

 くちゅり――くちゅり――と、武蔵が肉を咀嚼した。


 それに呼応するように、魔法円が、仄かに光を放ち始めた。


「やめろ!」


 柔志狼が叫んだ。


「もう一度訊きます。マリアと山南敬助はどこです」


 天羽の声がひどく優しく響く。


「怖くて声が出ないんだ。耳元でそっと囁くから、近くに来てくれ」


 ふざけた様に手招きする。


「これ以上あなたとの茶番に付き合う気はありません」


 構うことなく、天羽の指先に氣の圧力が増していく。


「残念です――」

「止めろ!」


 柔志狼が飛び出す。

 それよりも一瞬早く、天羽の指先から炎矢が放たれた。


 だが次の瞬間――


「なにぃ」


 突如現れた半透明な龍が、天羽より放たれた炎矢に喰らいついた。

 白い蒸気を上げ、龍は炎を掻き消し対消滅した。


「私ならば先ほどからここに居ますが、なにかご用でしょうか?」


 境内を囲う木々の間から、紅い葉を残す楓を揺らし山南啓助が姿を現した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る