第11話 月下影
ぼんやりと、
空気が冷たい。
沖田が身を震わせた、
人目を避けるように、祇園花街の裏路地を山南が早足に進んでいく。
「待ってくださいよ。山南さんてば――」
その後を沖田が続く。
蔵美屋を出た山南は、石畳の上を北にむかっていた。
「どこに行くんですか」
だが山南は、沖田の声に応えなかった。いや、耳に届いてすらいないようだった。
壬生の屯所に戻るならば、いずれにせよ鴨川を越えねばならない。これではまるで方向がちがう。
時折、山南は立ち止まり宙に視線を走らせると、まるで見えないなにかを辿っているかのように、再び歩みを進める。
仕方なく沖田は後をついていくしかない。
「まったくもう」
ふて腐れたように、沖田が脚をとめた。
「あれ?」
だが、沖田の脳裏にふと思い当る節があった。
この先に有るのは確か――
「山南さん!山南さん!」
沖田が慌てて駆けよる。
「なんです?」
振り返りもせず山南が答えた。
「この先にある破れ寺、栄吉の話の中にあったんですよ」
「栄吉の話?」
「そうですよ。件の鬼姫と獣の出没した場所ですよ」
沖田が興奮を抑えきれぬようにいった。
この路地を抜ければ、釣具屋・永原屋がある。その裏にある破れ寺に鬼姫が現れたいうのだ。
「成程。どうやら
ようやく山南が足をとめた。
「呪?」
呪いの事だろうか。
「じゃぁ、もしかして蔵美屋に出た、あの黒い蟲は鬼姫の呪いですか?」
沖田の声が弾む。
「それを確かめに行くんです」
一瞬――振り返った山南の口の端が、微かに吊り上った気がした。
だが、直ぐに前を向くと、山南は闇を押しのけるようにして路地をぬけた。
足を速め、沖田もそれにつづいた。
路地を抜けると正面に、固く雨戸を閉じた釣具屋があった。
看板には「永原」の文字が見える。
山南と沖田は永福屋を回り込み、裏手にむかう。
団子屋の角を回り路地を抜けると草木に埋もれるように、崩れかけた山門があった。
瓦は崩れ、門柱は虫に喰われ朽ちている。
どのくらいの年月が放置されているのか見当もつかぬほど、荒れていた。
雑木の枝の奥に「普賢寺」と書かれているのがみえ、それで沖田はここが寺であったと信じられた。
山門の前で、山南が脚をとめた。
沖田にもその理由がわかった。
山門の真ん中に生える草が倒れていた。
自然に倒れたものではない。
何者かが踏みつけた跡である。それも、まだ新しい。
この一日か二日。
いや、つい数刻前の事であるかもしれない。
山南と沖田は無言で顔を見合わせると、荒れた境内に脚を踏みいれた。
荒れた境内に脚を踏み入れると、空気が一変した。
特に気温が下がったわけではない。
だが、妙に寒く感じる。
無意識のうちに、沖田が手をさする。
水気を帯びたように冷たい空気が、濡れた懐紙のように纏わりつく。
山南さん――と、声を掛けそうになり、沖田はそれをやめた。
鬼姫たちがいるかもしれないのだ。
それに何より、前を歩く山南の背が、沖田に声を掛けるのを
平素、穏やかな山南の背が、はしゃいでいるように見えたのだ。
まさかね――と、沖田が首をひねったところへ、山南が無言で振り返った。
半分崩れた本堂の跡を、山南が指さす。
気を引き締め直し、沖田が頷く。
二人は気配を殺し、壊れた唐戸を開いた。
すっ――と、二人の影法師と共に、朧な月明りが射しこむ。
埃を被った板間に、まだ新しい足跡があった。
人の気配はない。
だが奥の方で、仄かに灯りが揺れていた。
間違いない――と、無言で視線を交わし、山南と沖田は堂に足を踏みいれた。
一歩踏み込んだその途端。更に空気の澱みが増した。
濁り汚れたどぶ川に顔を突っ込んだような、何とも言えぬ嫌悪感。
「瘴気が――」
濃いのですよ――と、囁くように山南が言った。
瘴気……先ほど蔵美屋に出現した蟲のようなものを、山南は瘴気の凝りとよんだ。
ならばここにも――脳裏にあの黒い蠢きがよみがえり、沖田が唾を飲みこんだ。
朽ち果てた本堂は梁も崩れ、抜けた屋根のむこうには、朧にかすむ月が見える。
そのおかげで、明かりがなくとも、うっすらとだが夜目が効く。
足跡は、本尊の無くなった須弥壇の前まで続いていた。
須弥壇の前には、榊と注連縄で祭壇のようなものがつくられていた。
そこで今にも消えそうに、蝋燭の炎が揺らめいていた。
周囲を警戒しながら、山南が近づいていく。
床の埃が掃われているところを見ると、先客はつい先ほどまで、そこに腰でも降ろしていたのだろう。
見れば注連縄で括られた結界の中に、
山南が摘みあげると、そこには朱墨で見慣れぬ文字が書かれていた。
更に裏を返すと、
「高崎佐太郎か」
そこには、薩摩藩・京都留守居役の名が書かれていた。先ほど蔵美屋で蟲に襲われていたあの男である。
長州が都落ちした八月の政変において、立役者の一人であった人物である。
「どうしたんです」
隣に立った沖田は、声を潜め覗きこむ。
「
ぽつりと、山南が呟く。
「
戸隠系の修験者の呪符に似ている――と、山南が言った。
「それはなんですか?」
沖田が問うが、山南は答えない。
「それより――」
どこに消えた――と、周囲を探る。
気配を消し、隠れているにしても、この場所より他に足跡が残っていない。
まさか寸分と違わずに、足跡を重ね出て行ったのか。
或いは宙にでも舞ったか――
崩れた屋根から山南が、夜空を仰ぎ見たその時だった。
「うわっ!」
首っ――と、沖田は叫んだ。
足元に転がる丸いものに、爪先が当たった。
その瞬間――
沖田の足元から、高圧の黒い何かが膨れ上がった。
弾かれたように大きく後ろに跳びながら、沖田は咄嗟に剣を抜き放った。
眼に見えない禍々しい圧力が、暴風のように沖田を襲う。
「ちぇぇぇぃい――」
正体は分からない。
ただ通常の殺気とは明らかに異なる。
尋常ではない妖気が、沖田に
気合い一閃――見えない圧力に向かって白刃を
だがそれも一瞬。
確かに霧散したはずの妖気は再び凝り、沖田を押し包む。
「――ぬぅぅんむ」
どぷん――と、水に溺れたかのような窒息感と、激しい虚脱感が沖田を襲う。
まるで、全身から精力が吸い取られていくようだった。
強烈な喪失感に、沖田が膝をつく。
「沖田くん!」
剣印――剣に見立てた形に、山南が指を組む。
顔の前で剣印を構え、口中で呟くと、懐から白い紙片をとり出す。
山南が紙片を宙に放つと、それは鳥の如く羽ばたいた。
「破邪!」
山南の気合に反応し、紙片が沖田を包む黒い瘴気に襲いかかった。
瘴気の周囲を隼の如く高速で飛びまわると、鳥形をした紙片は黒い靄を削り取っていく。
二度、三度と交錯すると、黒い瘴気の下に沖田の顔が見えた。
喘ぐ沖田は、水から上がった時のように大きく息を吸った。
「沖田くん今です!」
山南の言葉に、沖田の瞳に力が戻る。剣を握り直すと、真一文字に刃を振るった。
重く粘りのある手応えが沖田の剣に伝わる。指先に伝わるその感触は、高濃度の樹液を思わせた。
だが確かに妖気は分断され、ほんの一瞬だが沖田の身体から剥がれる。
そこに間髪いれず、紙鳥が天空より
「封・霊・静!」
素早く指先を絡ませ、山南が新たな印を組む。
瞬間――紙鳥が白い光を発したかと思うと、薄黒い瘴気が吸いこまれていった。
まるで墨を吸ったかのように、白かった紙片が見る見るうちに漆黒に染まっていく。
やがてそれは、湿った音をたて床の上に落ちた。
「沖田くん大丈夫ですか」
山南は、溺れた様に大きく喘いでいる沖田の肩に手を掛けると、同時に漆黒に染まった紙片を懐にしまった。
「……そ、それを、いったいどうするんですか?」
沖田は声を絞りだす。
「先ほどのものと一緒に、後で私が火にくべて浄化します」
山南は微笑むと、肩を貸して沖田を立たせる。
「あれはいったい何なのですか?」
ふらつきながらも山南から離れ、沖田は剣を鞘に収めた。
「蔵美屋に出た奴と同じですよ」
「で、でも、蔵美屋の奴はこんなに凶暴では無かったじゃありませんか?」
大きく息を吸うと、沖田は落ち着きを取り戻した。
「これが凶暴化したのは、君が反射的に殺気で反応してしまったからです」
「私の殺気?」
「沖田君が咄嗟に放った殺気に対して、瘴気が過剰に反応した。本来『氣』なるモノは色の無い無色透明なモノ。存在に気がつく者は気がつくが、そうでない者にとっては微風にも満たない淡い霞みの如きもの。だがそれに対し色を付け、形を与えてしまうのは感応する人の心や感情――特に、恐れ憎しみ恨み嫉み妬み怒り等、人の持つ負の感情欲望に、これは過敏に反応しやすい――」
「……そ、それじゃ――」
「――加え、土地、刻、因果に因縁無念、山野河川、花鳥風月に至るまで天地森羅万象の千変万化なる営み流転の中で、微細ではあるが感化され色を染め、形成りし性質を帯びるもまた必定。それ故に、物の怪、妖しの類いと変ずることもこれまた自然の理」
何か言いたそうな沖田に言葉を許さず、畳み込むように山南が語る。
「ちょ、ちょっと待ってください。難しくて何が何だか。でもここは神仏を祀ったお社ですよ。そんなところでなんであんな瘴気が湧き出るんですか?そもそも、この薄気味の悪い嫌な空気は何なんですか」
「そう、まさにそこが問題なんですよ沖田君」
山南が口角を上げた。
「私が観るにこの場所には、強力な『呪(しゅ)』が掛けられている」
「しゅ――ですか?」
沖田が怪訝そうに眉をしかめる。
「元々この場に、なにかしらの呪が掛けられていたのでしょう。まさに君の言った、澱み穢れたこの場の空気がそれを証明している。その上で、何者かがここで呪法を行った」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
沖田が掌をふる。
「いったい何の話をしているんですか?山南さんの言っている事は、ホント難しすぎて私にはさっぱりわかりませんよ。お願いですからもう少し分かりやすく説明してくださいよ。大体、どうしてこの場所が分かったんですか」
困惑したように、沖田が首をひねる。
「私はね、蔵美屋の瘴気はあの場に原因が有るわけではないと思った。何かで刺激された瘴気が、偶々あの蔵美屋で絞り出されるように噴き出してしまったのではないかと。だが高崎を襲ったそれは、明らかに彼を狙ったものだった」
「高崎って誰です?」
「薩摩藩、京都留守居役の高崎佐太郎です」
「えぇ!」
沖田が眼を丸くする。
「何者かが、この場に凝った『氣』を利用して、高崎に呪を仕掛けたのでしょう。私はその、なんと言いますかね――解りやすく喩えるのならば残り香とでも言うか、臭腺と言うか。それを手繰って来た」
それだけです――と、山南は言った。
「それにしても――」
術者はどこへ消えたのだろうか。とうに逃げ出したのだとしても、痕跡がまるで見受けられない。
それになにより、この場に掛けられた呪の正体は一体――
山南が腕を組み、思案に首を傾げる。
「山南さん!」
須弥壇の奥を覗き込んでいた沖田が声を掛けた。
「どうしました」
膝を着く沖田の背中から覗き込むと、
「また面白いことになってますよ」
嬉々とした沖田が指さす先。血溜りの中に裸の女が倒れていた。
年の頃で言えば、沖田とさして変わらぬであろう。
まだ若いその娘は、鳩尾の下あたりから股までを大きく切り裂かれていた。
腹圧ではみ出した腸やら糞尿やらが血膿と共に広がり、なんとも痛ましい姿を晒している。
「酷いことを」
だが不思議な事に、娘の顔はなんとも穏やかな死に顔を浮かべていた。
「山南さん。ほら――」
沖田が袖を引く。
娘の腹の内に、何か黒光りするものが見える。
「昨夜のと同じですよ」
裂かれた子袋と思わしき中に、黒い像が押し込まれていた。
「不気味ですよね、黒塗りの観音さまなんて」
先ほどまでとは一転。どこかはしゃいだような沖田を無視し、山南は娘に近づく。
まだ温もりの残る腹へ指をいれると、娘の身体を傷つけぬよう観音像をとり出した。
「山南さん、呪われますよ」
「大丈夫だ」
懐紙を取り出すと像を拭う。
それは七寸ばかりの、黒く塗られた木製の観音像である。その胸に、稚児を抱いている。
これは――と、山南の眼が像の胸元で止まった。
「――まりあ観音ですね」
山南が眉間に皺をよせる。
「まりあ?」
なんですそれは――と、沖田が首を傾げる。
「マリアとは、ゼス・キリヒトの母君です。切支丹が信仰を隠すために観音像をマリアにみたてた観音像を、まりあ観音と呼ぶのです」
「隠れ切支丹ってやつですか」
ここを――と、まりあ観音の胸元を、山南が示す。
「あっ!」
沖田が思わず声を上がる。
ちょうど稚児の頭の上、まりあ像の胸元が十字に彫られていた。
「これこれ」
正面を向く稚児の額には『invidia』と刻まれていた。
「異国の――西洋の文字のようですね」
山南が指でなぞる。
「昨夜のものにも有りましたか?」
「さぁ、傷まではちょっと……」
さすがの沖田とはいえ、わざわざ像を取り出してまじまじと見たわけではない。まして胸元の十字など、汚れを拭わねば気が付く代物ではない。
「でも、形は同じだったと思いますよ」
「昨夜の像はどこに?」
「土方さんが奉行所の方に回すって言ってましたけど――」
知りませんよ――と、沖田が肩を竦める。
「でも、そもそも切支丹の拝む観音さまなんでしょ。それがなんで、こんなに黒く不気味なんですか」
沖田が言うのも無理はない。
本来であれば、まりあ観音は清国などで作られた青磁や白磁の慈母観音を使用することが多い。だが眼前にあるそれはあえて、黒く塗られているようだ。
そのせいか、なんとも禍々しく異様な雰囲気を漂わせている。
「どうします?」
沖田の声は、すでに好奇心に弾んでいた。
「そうですね――」
この像自体が、特別に強力な邪気を放っているわけではない。だがこの廃寺に満ちている瘴気の原因は、間違いなくこの像であろう。
現状では、どのような呪が掛けられているかも分からない。だがこの場の、尋常でない氣の澱み具合からみて、相当に強力なものであろう。
なんとも厄介な代物である。
このようなものを、
「――違う意味で、澱んでますからね」
山南が自嘲する。
「なにか言いました?」
「そうですね……いっそ真っ二つに切ってしまいましょうか」
山南が苦笑した。
「えっ?そんな事をして……祟られたりしませんか?」
「おそらくは何かしらの呪法なのでしょう。だが私の拙い知識の中に該当するようなものが無い。そもそも切支丹の――というよりも、西洋の文字や呪に関しては門外漢だ」
山南が肩を落とす。
「本音を言えば興味は有る。時間を掛けて調べたい気持ちはある。だからと言って屯所に持ち帰るのは、些か危険だろう」
「少なくとも土方さんは、こういうの大っ嫌いですもんね」
沖田が苦笑する。
「ならばどうするんです?」
「そうですね――」
腕を組み、山南は思案気に腕を組む。
「斬りますか」
さらりと、沖田が言った。
「訳の分からない物は、ばっさりといきましょう」
「待て!」
正体の分からない呪物に対して、あまりにも危険すぎる。
「祟られそうになったら先程みたいに、ちゃちゃっと助けてくださいね」
沖田の手が柄に伸び、鯉口を切ろうとした瞬間――
「ちょっと待った」
突如、闇が震えた。
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