第12話 仁王笑
人の気配など、どこにも無かった。それ故に山南も沖田も油断していた。
「誰だ!」
沖田が殺気を放つ。
その瞬間、頭上に広がる闇の中から、空気を切り裂くように鈍い光が
「ちぃ!」
沖田が剣を抜く。
瞬間、火花と共に金属の弾ける音が鳴り響いた。
楔形をした刃物が、飛来した軌跡をなぞるように、天井の梁の間に吸いこまれていく。
「剣呑、剣呑。若いのに良い腕前だな」
どこか楽しそうな響きと共に、重く密度の濃い気配が頭上の闇に出現した。
咄嗟に、沖田が腰を落とし、山南は距離を取る。
まるで梁の上に、野生の虎が潜んでいるのではないか――二人に緊張が走る。
「そう殺気立つなよ」
だが闇の中に浮かんだのは、思いのほか人懐っこい顔だった。
よっ――と、男が梁から飛び降りた。
まるで山ような量感を持つ男が、音も立てず床の上に降り立った。
「一本しか無いんでな。返してもらって良かったぜ」
沖田が弾き返した刃を、空中で掴んだのだ。手の中で、楔形の刃を
「どなたです?」
山南は腕を組んだまま眼尻に深い皺を刻み、静かに問いかけた。
男から殺気は感じられない。だが山南と沖田に気配を感じさせずにいたのだ。並みの力量ではない。
「俺かい?んん……そうだなぁ、団子売りとでも言ってみるか」
どこか含んだように男が嗤った。
腰に
黒い小袖に黒い皮袴。
肩まで捲り上げた袖からは、樹の幹のような腕が覗く。五尺四寸ばかりだろうか。仁王像のような肉厚の体躯。
殺気立つ沖田を前に、妙に落ち着いた佇まいは、裏に怖いものを含んでいるように感じる。
「こんなところで団子屋風情が何をしている?」
沖田の声に苛立ちが混じる。
「おいおい……」
沖田のまじめな様子に、男は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。
「で、どのような御用件ですか団子屋さん?」
何者だ――山南は油断なく探りを入れる。
「実は饅頭屋なんだ」
なんとも愛嬌のある笑みで男が応じた。
「ふざけるなよ団子屋が!」
沖田が油断なく間合いを測る。
「冗談はさておき。その手に持っているモノを、こちらに頂戴するって訳にはいかないか?」
ごつごつした分厚い掌を差しだし男が微笑む。
「これをですか?」
そうだ――と、男が観音像を指さす。
「隙を見て失敬しようと思ったんだが、そこの若いのが斬ろうとするから」
思わず声をかけちまった――と、男が嗤った。
「そんな事は聞いてない」
沖田が割って入る。
「お前は誰だと聞いているんだよ!」
つい先ほどまで、童のような表情を浮かべていた沖田が一変していた。その顔に浮かんでいるのは、紛れもなく一流の剣士の気魄。
「答えろ」
正体不明の男に対し、沖田の中に殺気が満ちていく。
「答えぬのならば――」
斬る――と、沖田の殺気が弾けた瞬間だった。
沖田の足元。床の隙間から黒い瘴気の塊が湧きあがった。
先ほどのモノよりも数段大きい。
それが沖田の殺気に呼応するかのように、爆発的に膨れ上がった。
「おぉあおぁ――」
慌てた沖田が、弾けるように飛び退る。
そんな沖田を、黒い顎を広げた瘴気が追う。
「沖田ぁ!」
山南が懐に手をいれ、先ほどと同じ白い紙片を掴む。剣印を作り、再び呪を唱える。
だが、ゆるりと動いた男の方が速かった。
「吩ッ!」
気合いと共に、男の分厚い掌が瘴気を叩く。
瞬間、淡い光が弾けた。
沖田にとり憑く寸前だった瘴気は、その光と反応するように霧散して消えた。
「こんなモノにまで付きまとわれるなんざ、色男は辛いな」
男は笑いながら、埃でも掃うように手をはたいた。
「お、お前――」
沖田が肩で息をする。
「今の技は……」
山南が眼を見開く。
「あなたは一体何者なのです?」
「そう言うあんたは――坊主ってほど抹香臭くはねぇし」
ふふん――と、男が鼻を鳴らす。
「その呪符から察するに陰陽さんの類いか。だとすればそんな輩を相手に、商売のネタを明かすのは得じゃねぇな」
と、大仰にかぶりを振った。
「おんみょうさん?」
聞きなれぬ言葉に、沖田は傍らに立つ山南を横目で見る。
よくよく考えてみれば、なぜ山南がこのような妖異に平然と対処できるのか説明を受けていない。
山南が新撰組の中でも図抜けて博識なのは周知の事実である。だが今宵の事は、とてもそれだけで説明が付く話ではない。
この胡散臭い男にしても、山南にしてみても、何故こうも平然と妖異に対して向き合っているのか。
沖田の胸中に、なんとも説明のつかぬ、苛立ちと不安が湧き上がった。
「どこから見ていたのですか?」
山南の眼が細められる。
「一部始終。そもそも俺の方が先客だぜ」
と、天井の梁を指さした。
「おっかない顔して入ってくるから、思わず跳び上がっちまったよ」
「なるほど。それはこちらが申し訳ない」
山南と男は視線を交わすと、互いに笑みを浮かべた。
「あの祭壇は、あなたのものですか?」
「さて――どうだったかな?」
惚けたように男が嗤った。
「山南さん、こいつの仕業に違いない。高崎に呪いをかけたのはこの男ですよ。きっとそうだ。腕の一本も叩き切って屯所に連行しましょう」
沖田がずいと前に出る。
「ほぅ。お前さんに出来るかのい?」
男の小馬鹿にしたような口調が、沖田の神経を逆撫でする。
「山南――ってのかい、あんたは?」
沖田を無視して、男が山南に声を掛ける。
はい――と、山南が頷く。
「その、手にしている観音像――こちらにもらえないか?」
「矢張り、あなたの物なのですか」
「そういう訳ではないんだが、少々ワケありなんでな」
何故か照れ臭そうに、男が苦笑する。
「もちろん只とは言わん。代りに良いもんをやるよ」
「良いものですか――興味はありますね」
だろう――と、男が嗤った。
「山南さんともあろう方が、こんな不逞な輩の口車に乗せられるんんて」
駄目です――と、沖田が腰を落とす。
「この手の輩には力ずくが一番」
沖田の背に殺気が漲る。
「よしっ!」
ぽん――と、男が手を打った。
「いいぜ。本当は力ずくなんて野蛮な事は大っ嫌いなんだが、お前さんがそこまで言うなら仕方がない――」
男が大仰に首を振る。
「お前ぇが勝てば、俺を屯所でも便所でも、どこでも連れて行けばいい。だがその代わり、俺が勝ったら――」
と、まりあ観音を睨み、
「そいつを頂くってことで」
してやったりと――男の口角が上がる。
「それとこれとは、話が違う――」
「いいだろう」
山南を押しのけ、沖田が前に出た。
「お前が勝ったら観音像でも、わたしの首でも持っていくがいい。ただし――」
沖田の中で氷のような殺気が結晶を成していく。
「できればの話だがな――」
ゆらりと、沖田の剣先が上がっていく。
こうなっては止めようがない。
山南は溜息をつくと、諦めたように身を引いた。
「さっきの手裏剣いつ投げてもいいぞ」
沖田が鼻で笑う。
正眼の構えから剣先を右に流し、刃を内側に寝かせて構える。
天然理心流の
こうなってしまった沖田に、手加減の文字はない。
普段は童らと共に神社の境内を駆け回り、どちらが子供だか分からぬような沖田だが、剣を握れば別人と化す。
攘夷派不逞志士らを切り捨てる時しかり、道場で稽古を付ける時もしかり。剣を握れば、沖田は自らを一本の抜き身の剣と化してそこに立つ。
まさに今の沖田の姿がそれである。
「これが怖いのかい?」
先ほど沖田に投げた
にやり――と、嗤うと、山南に向かって無造作に放り投げた。
「――おい」
まるで毬でも投げる様に放られたそれを、山南は片手に納めた。
「餓鬼相手に、あまり怖がらせるといけないからな。預けとくぜ」
これには山南も返答に困り、呆気にとられる。
「……侮辱」
抑えきれぬ怒りが、沖田の殺気に油をそそぐ。
「後悔するなよ」
じり――と、沖田が指先一つ分、前に出る。
「ふふん」
それに対し、男の重心が、ほんの僅かに下がっただろうか。
特別なにか構えるでもなければ、代りの武器を手にするでもない。
武闘派の不逞浪士たちですら恐れた新撰組の斬りこみ隊長の殺気をまともに受け、尚も男は不敵な笑みを浮かべている。
――と、本堂の中を風が抜けた。
かさりと、床の上の枯葉が舞った。
その瞬間、沖田が動いた。
縮地――電光石火の踏み込みが、一瞬で間合いを詰める。
平晴眼の構えから刃を返すと、足元の埃を巻き上げ、男の右下から逆袈裟に斬りあげた。
宙を舞う蜻蛉ですら、斬られた事に気づくまい。
疾風の一閃ともいうべき沖田の剣が男を斬った――筈だった。
だが、剣先は巻きあげた塵芥の舞う闇を虚しく斬り裂いただけだった。
馬鹿な――沖田が愕然と眼を見開く。
その刹那、まだ宙を流れる沖田の剣に、ふわり――と、下から力が加わった。
まるでそれは淡雪が頬に触れたような、微かで柔らかな力――
だがその力に乗せられるように、床から足が離れた。
いけない――そう思った時には、すでに遅かった。
気が付かぬ間に足場を失い、沖田は己の上下を見失った。
その瞬間、脇腹にまるで鉄球を撃ちこまれた……気がした。強烈な衝撃に臓腑が口から飛び出しそうになる。
訳が分からぬまま天地不覚に陥り、床に叩きつけられ、沖田は意識を失った。
「こ……これは――」
山南は言葉を失った。
疾風の如き沖田の斬撃は下から跳ね上がり、男の身体を両断したかに見えた。
しかし、その剣を、男は霞のようにすり抜けた。
と、剣を跳ね上げる沖田の手首に、男は掌を添えた――ように見えた。
同時に、沖田の脇腹に向かい、男が掌底を突き上げる。
その一連の動きは、木の葉が宙を漂うような、ゆるりとした動き。
だが、その緩やかな攻撃で、沖田の身体は弧を描き、宙を舞ったのだ。
受け身を取ることも出来ずに、沖田は背から地に叩きつけられた。
もし男がその気ならば、頭を地に叩きつけられ、沖田は
沖田に慢心がなかったとはいえない。
だが本気で剣を振るう沖田を、無手でいとも容易くあしらった男に対し、山南は素直に感心するしかなかった。
「じゃ、約束通り、そいつをもらおうか」
にやり――と、男が嗤い分厚い掌を差し出す。
山南は、苦笑交じりに溜息をついた。
「沖田君が勝手にした約束とはいえ、いまさら嫌とは言えないでしょう」
「物わかりが良くて助かるぜ」
「正直に言えば、この観音像に非常に興味が有ります。ですが、扱いに困っていたのも事実――」
眼尻の皺を深くし、山南が黒い観音像を差し出す。しかし寸前で山南の手が止まった。
「おい?」
「ひとつお伺いしたい。貴方はこれが、どのようななモノであるか、知っているのですか?」
「何に使いたいかは想像つくが、何が目的なのかは分からん」
「これがあなたの仕掛けたもの《呪》とは思わない。だが、全て納得ずくではない事をお忘れなく。もしもあなたが、悪意をもってこれを使用するのであれば……」
「――で、あれば?」
「あなたを斬ります」
山南の表情に変化はない。まるで菩薩のような笑みである。しかしその内面には、修羅の如き殺気を潜んでいた。
「あんた怖いな。そこで寝ている沖田くん――だったかな?そいつなんぞより、よっぽど怖いぜ」
そんな言葉とは裏腹に、男が愉しそうに嗤った。
「唯の優男じゃなさそうだ」
「あなたも只者ではないと思っているのですが」
「よせやい。そんな事言われると、照れちまう」
ふふっ――と、男が嗤った。
「心配するな。あんたの危惧するような事には使わねぇよ」
「そうあって欲しいものですね。そうでないと、私があなたを見誤ったことなる。それでは痛い思いをした沖田くんに申し訳ない」
微笑む山南からは、嘘のように殺気が消えていた。
「あんた面白い男だな。気にいったよ」
「それはそれは。礼を言うべきかな」
微笑みを崩さず、山南は腕を組んで男を見つめた。
「ジュウシロウ」
「んっ?」
「柔志狼――
「私に名乗っても良いのですか?」
一瞬、山南の瞳に妖しい光が灯る。
「構わんさ」
柔志狼と名乗る男の口元に、なんとも太い笑みが浮かぶ。
「山南啓助です」
それに釣られるように、山南の眼尻に皺が刻まれた。
「約束だ。代わりといっちゃなんだがな、土産をくれてやるよ」
「みやげ?」
「あぁ、こんな観音像よりも手柄になるだろうよ」
と、足元に転がる木片を拾い上げると、天井の梁に向かって放り投げた。
ごとん――と、音をたて、先ほど柔志狼が降りてきた梁から、重い何かが落ちた。
床に落ちる寸前で、柔志狼がそれを片手で掴んだ。
「あんたらが踏み込んでくる直前、ここにいた野郎だ」
山伏風の男の首根っこを掴み、柔志狼が突き出すした。
「煩ぇから黙らせただけだ。生きてるよ」
預けるぜ――と、人形のように動かぬ男を床に放り投げた。
一瞬。倒れている沖田に視線を向けたが、柔志狼が背を向けた。
「もう一つ土産を頂戴したい」
「あまり欲張ると嫌われるぜ」
柔志狼の背が嗤った。
「そこに彫られている呪――文字の意味を、知っていたら教えていただけませんか」
像に彫られた異国の文字。それが山南には気になっていた。
「いんヴぃでいあ」
「いんヴぃでいあ?」
聞きなれぬ言葉に、山南が首を傾げる。
「妬み――嫉妬ってことらしいぜ」
「嫉妬ですか……」
顎に手をあて、山南が頷く。
「じゃあな」
手を上げ、立ち去ろうとする柔志狼の背に向かい、
「忘れ物ですよ――」
先程、預かった刃を山南が差し出した。
「家に帰ればまだあるからな、そいつは贈呈する」
ちらりと振り返り、柔志狼がいたずらっ子のように嗤う。
「ついでにもう一つ教えてください」
眼尻に皺を深め、山南が言った。
「欲張りだな」
柔志狼が肩を竦める。
「その観音像、どうしようというのですか」
「持ち主を探す」
「持ち主を?」
「つっ返してやろうと思ってな」
と、言って、柔志狼がなんとも太い笑みを浮かべた。
「分かりました」
それを見た山南の口元も、綻んいた。
「縁があれば、またな」
平然と背を向け柔志狼は立ち去った。
ふと気が付けば、堂内の澱んだ空気は消えていた。いつの間にか、破れた天井から蒼い月明りが射しこんでいる。
「あのような男がいるとは、なんとも野は広い」
飄々としたその背を、山南は眼を細めて見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます