幕末陰陽傳 天主の杯

猛士

第1話 紅蓮謡

 それはまるで、緋色の羽衣が天に昇るような光景だった。

 ゆらゆらと、立ち昇る熱気に煽られ、視界いっぱいに広がった紅や茜の羽衣が踊る。あるいは橙色の薄絹が狂ったように身をよじり、朱や赤い舌が天を舐めんと伸びていく。

 そうではない。

 それは薄絹などではなく、羽衣などでもない。

 この世の一切を焼き尽くさんとする、紅蓮の炎だった。

 地獄の火焔のごとき熱気を上げ、灼熱の炎が周囲に渦巻く。

 それはまるで、獣の舌のように柱に絡みつき燃やし、天井を嬲り焦がし、たちまちのうちに業火へと飲み込んでいく。

 紅蓮に染まる世界の中心に、孤独ひとりの男がいた。

 その足元には、黒い毬のようなものが転がっていた。



 思えばこの世は常の住み家にあらず

 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし――



 炎の中に、朗々とした声が響く。



 金谷に花を詠じ、栄花は先立つて無上の風に誘はるる

 南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立つて有為の雲にかくれけり



『敦盛』――平清盛の甥である平敦盛を詠った幸若舞である。

 炎にその身を赤く染めた男は、右手に扇を携え、敦盛を舞っていた。

 男は左手で、胸の前に何か石のようなものを抱えていた。

 炎が躍るたびに、輝いているように見えるが、男と同化し良く判別がつかない。

 その時だった。

 一際高く燃え上がった炎が、白刃によって斬り裂かれた。


「くっ――!」


 紅蓮の壁を押し分け、刀を手にした甲冑武者が姿を現した。


「殿……」


 くるり――と背を向けた男に向かい、武者が絞り出すような声を発した。

 声が届かぬのか。

 再度、声を掛けようとしたとき、武者の視線が男の足元に転がる黒い鞠に止まった。


「ら、蘭丸――」


 それは鞠ではなく、顎の下から無残に引きちぎられた若者の首であった。


「と、殿――――信長様!」


 端正な武者の顔が、悲痛と苦悶に歪む。



 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 一度生を亨け、滅せぬもののあるべきか

 


「み、ちゅ――ひれぇ――」


 振り返った男が、武者を見つめ嗤った。

 その瞳はまるで紅蓮の炎を宿したかのごとく、朱に染まる。

 口元は大きく歪み、獣の如き牙がぞろり――と、覗く。発音が不明瞭なのはその為だろう。


「の、信長様……貴方様ほどでも――このような……」


 武者が肩を震わせ、唇を噛みしめる。

 その瞳から滲む涙は、炎を映し、まるで血涙のようである。


「み、みつひで――光秀ぇぇ!」


 男がその手に抱えていたものを高く掲げた。

 それは黄金に輝く髑髏だった。

 炎に彩られ、黄金の髑髏が血のように染まる。


「人は……人は、神になどなれは致しませぬ。何故それが――何故――」

 解りませぬか――と、武者が哭いた。


 その時――

 ぞろり、と額を突き破り、血肉を絡みつかせた歪な角が這い出る。

 その姿は鬼神の如く――


「だ、第六天魔王――」


 武者が歯を軋らせる。


「神にはなれぬとも、魔に堕するは容易く――」


 その間にも、男の額からは角が生え、耳は尖り、身体がごつごつと歪んでいく。

 

 がぁは――


 愉悦の吐息を洩らし、男が嗤う。


「この明智光秀。信長様の最後の御下知、今果たしまする」


 光秀が太刀を抜き放った。


「御免!」


 すっ――と踏み込むと、光秀が太刀を振り降ろす。

 その瞬間だった。

 魔へと堕した男の瞳に光が戻り――


「――是非も無し」


 男が瞼を閉じ――――笑った。

 


 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ――



 天正十年――本能寺にて織田信長没す。


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