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頭より先に体が動いた。床を蹴って玄関先へと転がり込むと、美和子から借りてきた傘を傘立てから抜き出す。無論、斧と傘とでは斧が勝つに決まっている。しかし、それは斧と傘を直接戦わせた場合の話だ。
芒尾は傘の先端が丸みを帯びていることを目視すると、斧を振り下ろそうとしている父の鳩尾をめがけて突き出した。
高校の部活で剣道をやっていたこともあって、思っていた以上に正確な狙いを定めることができた。もはや竹刀を握らなくなって数年になるが、叩き込まれた感覚は体が覚えていたようだ。父の鳩尾に向かって真っ直ぐに伸びた傘の先端は、確かな手応えと共に、父の呻き声を引きずり出した。
芒尾の一撃で父の手から斧がこぼれ落ちて床に突き刺さる。急所へと狙った通りに決まったのか、そのまま片膝をついてうずくまる父。中ほどから折れてしまった傘が、その衝撃の強さを物語っている。
「ごめん、美和子……」
まず、美和子から借りた傘を折ってしまったことに罪悪感を抱いたのは、父に手を上げてしまった罪悪感から目を逸らすための目隠しだったのかもしれない。
今度は母が居間から飛び出してきた。歯ぎしりをしながら芒尾のほうへと向かってくる母の手には果物ナイフが握られていた。深く一歩を踏み込むと、芒尾は折れた傘で、そのナイフを叩き落とした。バランスを崩したのか、母が――あの優しかった母が、床へと突っ伏した。
うずくまったまま、それでも斧を探すかのように手をさまよわせている父。興奮しているかのごとく、そのいびきは大きくなるばかりだ。母は歯ぎしりをしながら、芒尾に向かって手を伸ばす。
「……なんの冗談なんだよ、これっ!」
その光景に芒尾は声を荒げ、そして寝込んでいる弟のことを思い出す。弟は――秋紀は無事だろうか。明らかに様子がおかしい父と母。こんなところに弟を置いておくわけにはいかない。
弟が寝ているのは芒尾の部屋の隣だ。そんなことを考えつつ階段の上へと視線を移した芒尾は、完全に言葉を失ってしまった。
「特売日に赤点取ったらまずいよね……」
居間から漏れた明かりに照らされ、左右に揺れる影が、ぎしり――ぎしりと階段を軋ませながら降りてくる。そう、伸びてしまったカセットテープを再生させたような、低くゆっくりとした言葉を発しながら。父のいびきと、その影のいびきが、合唱であるかのように芒尾の耳の中へと侵入してきた。
限界だった。混乱が生じている中でも、なんとか平静さを保とうとしていた部分が遂に決壊し、芒尾は声にならない叫び声と共に、慌ててサンダルを履いて外へと飛び出した。藤宮商店の外灯の下まで向かうと、実家のほうへと振り返る。
父と母だけではなく弟の様子までもがおかしかった。まるで寝ているかのような――寝ぼけながら深夜の徘徊をしているかのような奇妙な様子だった。しかも、父と母にいたっては芒尾に襲いかかってきたのだ。いくら寝ぼけているからといっても、家族に危害を加えたなどということは、聞いたことがない。
開け放たれた玄関から、家族が芒尾を追いかけてくる気配はなかった。玄関の電気が点いて身構えたが、引き戸越しのシルエットが寄り添うようにくっ付いて、ひとつの大きな化け物のような影を見せただけだった。
とにかく、ここを離れなければ。
ふと、公衆電話が目に入り、あの電話の内容を思い出す。
もしかして、あれが寝訃成と呼ばれるものなのだろうか。寝ている時のように歯ぎしりをし、いびきをかき、眼球は上下左右へと動いている。そして、どういうわけか自分に危害を加えようとしてきた。
――寝訃成が出た。もしかしたら村の人間の中に寝訃成になっている人間がいるかもしれない。そして、寝訃成は殺さねばならない。
焦燥感の混じった男の声が、今にも公衆電話から聞こえてきそうだった。
何か良くないことが起こっている。そう感じた芒尾は、ふと藤宮商店の後ろのほうが明るいことに気付いた。
それを待っていたかのように、またしても甲高い動物の鳴き声のようなものが聞こえた。小降りになった雨音に混じって聞こえたそれは、どうやら動物の鳴き声ではなかったようだ。――悲鳴。女性の悲鳴だ。それは藤宮商店の後ろに位置し、煌々と明かりが灯っている佐武家のほうから聞こえたような気がする。
「美和子、貴徳っ!」
芒尾は佐武家に向かって駆け出した。もし、自分の家と同じようなことが、佐武家でも起こっていたとしたら――。
情報の処理が間に合わず、頭の中はごっちゃごちゃ。何がなんだか分からないし、どうしてこんなことになってしまったのかも分からない。足元はふらふらするし、何度も転びそうになる。
ただ、こんな時間に明かりが灯っている佐武家が、不気味で仕方がなかった。不穏で仕方がなかった。直感的に嫌な予感がして、それが芒尾の中で肥大する。
ふいにどこかから、乾いた音が響いた。音がした方角へと視線をやった瞬間に、もう一発同じような音がした――。徒競走のスタートを告げるような乾いた音だった。音がした方角の山肌がぼんやりと赤く染まっているのはなぜなのか。
この村で何が起こっているのか――。着の身着のままの芒尾は、佐武家へと急いだ。何をするべきなのか。何をやらねばならないのか。そんなことは分からない。
雨が降り続いたせいか、佐武家へと向かう脇道は泥水でぬかるんでいた。地面を蹴る度にばしゃりと
何度振り返ったであろうか。芒尾が振り返った先にあるのは、藤宮商店を照らす外灯だけなのであるが、それでも佐武家へと到着するまで、何度も振り返り、無人の外灯下を確認した。
公衆電話に出た際の相手は、手当たり次第に電話をかけているようだった。つまり、村のいたるところまで、寝訃成とやらが出たという連絡が回っている可能性は高い。あれだけ切羽詰まった電話から察するに、事態はかなり不吉で急を要するものなのだろう。ならば、この時間帯に佐武家の明かりが灯っていても、なんら不思議ではない。佐武家から発せられる不穏な空気を、都合の良い解釈でごまかした。もしかすると佐武家も――美和子や貴徳も、あんな風におかしくなっているのかもしれないのにだ。きっと、そこにいたるための思考回路が芒尾の希望的観測によってシャットアウトされていたのだろう。
二人は無事のはずだ。きっと、駆け込んだ芒尾を、何も聞かずに受け入れてくれるに違いない。そして、佐武の両親も出てきて、一緒に芒尾の自宅へと様子を見に向かってくれるのだ。それができなくとも、佐武の両親は寝訃成のことを知っているだろうから、芒尾の身に起きたことを説明することくらいはしてくれるだろう。
都合の良い解釈を積み重ねて、無理矢理に自分を落ち着かせようとする。しかし、佐武家の玄関へと近付くにつれて、悪いほうの解釈も頭をよぎる。あの悲鳴は誰のものだったのか。何事もなければ、悲鳴など上げるわけがないではないか、と――。
自分の思考が定まっていないことは、誰よりも芒尾が知っていた。何のために佐武家に向かうのかさえ、いまいち理解できていなかった。火事になった家から、なぜだか枕を抱えて飛び出した――そんな、普段なら全く理解できない笑い話でも、今ならば妙な説得力があった。
助けに向かっているのか、助けを求めているのか。佐武家の玄関が近付く度に、不安は増すばかり。
玄関の前へと到着する。肩で息をしながら引き戸へと手をかけた。実に不用心な行動であるが、そこまで頭が回らなかった。しかし、いつもとは違う手応えがあり、引き戸はびくともしない。この田舎では実に珍しく、施錠されているようだった。
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