3

 玄関脇にある植木鉢に視線を移す。昔と変わっていなければ、この下に家の鍵があるはず。だが、中の様子が分からない状態で、真正面から飛び込むのは怖い。


 美和子や貴徳が、自分の家族と同じようになっていたらどうする。こちらの話すら聞かずに襲いかかってきた時、果たして自分は冷静でいることができるのか。


 芒尾は植木鉢のそばへとしゃがみ込んだ。植木鉢をどかして、鍵を拾い上げる。その際、何の気なしに見上げた先に、芒尾は奇妙なものを見た。玄関の明かりに照らされたそれは、死んだ魚のような目で芒尾を見下ろしていた。


 玄関の上には大きな窓がある。そこは佐武の両親の寝室だ。小さい頃から嫌というほど通った家だから知っている。


 その窓が大きく開け放たれ、何かが窓からぶら下がっていた。最初はレールから外れたカーテンか、干したままうっかり仕舞い損ねた布団かと思った。だが、それならばさっき訪れた際に気づいていたはずだ。


 芒尾は必死に否定する。何かしら他の理由を見つけて、それを否定しようとする。けれども、玄関の明かりに照らされたそれは、まぎれもなく半身を外へと投げ出した人間だった。


「お、おばさん……。どうして」


 それが佐武の母親であることに気付いた芒尾は、その生々しさと込み上げる恐怖に尻餅をついた。ズボンが濡れた地面の水分をゆっくりと吸い上げる。腰が抜けるとは、このような状態を指すのかもしれない。


 誰かに助けを求めるかのように、だらりと垂らされた腕。蝋人形であるかのように動きを失った表情は、両目を見開いたまま固まってしまっている。


 ――死んでいる。玄関の明かりにほのかに照らされているだけで、それがすでに生命活動を終えていることがひしひしと伝わってきた。


 佐武の母親は、芒尾の母と違い、豪快な肝っ玉母ちゃんだった。芒尾のことを自分の息子のように――むしろ、息子以上に可愛がってくれていたような気がする。芒尾も実の母であるかのように慕っていた。また、家族ぐるみでの付き合いもあり、両親同士も仲が良かった。


 とにかく世話好きで、佐武の家に集まって遊んでいる時などは、家がすぐ近くであるにもかかわらず、よく夕飯をご馳走してくれたものだ。少しばかり大味であるが、ふとした時に無性に食べたくなる特製カレーは――もう食べられない。


 息子とその幼馴染達の成長を見守り続けてきた、佐武のおばさん。美和子にとっておばさんは義母となり、おばさんにとって美和子は娘となった。幼馴染から夫婦になった二人を微笑ましく見守っているおばさんの姿が目に浮かぶ。


 芒尾が村を離れる時も、わざわざお手製の横断幕を作ってまで見送りに来てくれたおばさん。風邪を引かないようにとか、しっかりと食事をしろとか、涙ながらに芒尾の母の台詞を全部奪ってしまったおばさん。母が苦笑いしていたのを今でも覚えている。


 ふと、おばさんの額にべったりと髪の毛が張り付いていることに気づいた。玄関の明かりが淡い暖色系だから分かりにくかったが、額の色が赤いように見える。どうして、こんなことに気づいてしまったのか。こんな薄暗い明かりの中で、それが見えてしまったのか。唇がわなわなと震えているのが自分でも分かった。


 ――血だ。おばさんの額を赤く染めているのは血なのだ。それが何を意味しているのかは、考えなくとも分かった。


 おばさんは殺された――。物騒な話とは無縁で、たまに飛び交う話題といえば、どこそこの家の息子が嫁をもらったとか、どこぞの家に子どもが生まれたとか、微笑ましいニュースばかりの田舎で。


 寝訃成は殺さなければならない。電話の声が頭の中で自動再生される。ならば、おばさんは寝訃成になってしまったから殺されたのか。いや、逆のパターンも考えられるのではないだろうか。


 様子が豹変してしまった芒尾の家族は、明らかに芒尾に殺意を持って襲いかかってきた。佐武家にも、芒尾の家族のように豹変した人間がいたとすれば――。それにおばさんが殺されてしまった可能性もあるだろう。


 どちらなのかは分からない。分からないが、昔から知っている人がむくろとなって、芒尾に何かを訴えかけていることだけは間違いなかった。


「そうだ。け、警察……」


 どうして今まで気づかなかったのだろう。きっと、一度に様々な――しかも非現実的なことばかりが起きてしまったがゆえに、すっかり失念してしまっていたのだ。


 思い立ったと同時に立ち上がろうとするが、上手く力が入らない。全身の力が抜けてしまったような感覚だ。


 警察にさえ通報できれば、現状を覆すことができる。その想いが、芒尾の体を動かした。もっとも、立ち上がることはできず、辛うじて這うような体勢になっただけなのであるが。


「電話。電話を……」


 警察に通報するためには電話が必要だ。ならば、どこから電話をかければいい。もっとも近いのは佐武家であるが、中で何が起こっているのか分からない以上、下手に飛び込むわけにはいかない。自分の家に戻ったところで、家族が待ち構えているかもしれないことを考えると、電話を使うことは難しい。


 携帯電話なる便利なものが存在することは知っているが、あんなものは都会の物好き――しかも金持ちくらいしか持っていないだろう。そもそも、この村には電波など届いていないに違いない。


 電話が無いことには、警察に通報することもできない。村にある唯一の駐在所も、ここからは大分距離があった。


 奇妙な電話がかかってきたこともあって、無意識に避けていたのであろう。そこで芒尾はようやく、藤宮商店前の公衆電話のことを思い出す。


 着の身着のままで飛び出してきたから小銭は持っていないが、確か緊急時の110番や119番は、ダイヤルするだけで繋がるはずだ。


 藤宮商店まで行けば、警察に通報することができる。通報してしまえば、芒尾が動かずとも警察が動いてくれる。国民の権利のようなものなのだから、頼れる時は国家権力に頼るべきだ。


 そう考えると気が楽になったのか、いまだに膝は震えるものの、なんとか立ち上がることができた。尻餅をついた部分はもちろんのこと、全身ほぼ泥まみれである。


 できる限り上を見ないようにして、芒尾は藤宮商店のほうへと向き直った。佐武家の鍵は、とりあえずポケットへと突っ込む。返すべきなのであろうが、その際にどうしても二階を見上げてしまいそうで怖かった。


 藤宮商店へと向かって、ほんの一歩目を踏み出した時のことだった。芒尾は今一度佐武家のほうへと振り返らざるを得ない事象に遭遇してしまう。がしゃり――と、何かが割れる音。それに続いて聞きなれた声がヒステリックに叫ぶ。それらのくぐもった音は、全て佐武家のほうから聞こえてきたものだった。


「やめてお義父さん。お願いだからやめてっ!」


 美和子の声だ。長年の付き合いがある幼馴染の声を聞き間違えることなどない。その声は、こもっていながら明らかに鬼気迫ったものであり、普段の美和子からは想像できないようなものだった。


 続いて、ドタバタと家の中を走り回るような音。立て続けに何かが割れて、逃げ出そうとしていた芒尾を引き止めようとする。


 全てを警察に任せればいい。それが一番安全で利口なのは分かっている。頭は混乱しているままだし、正直を言ってしまえば怖い。でも、幼馴染を簡単に見捨てることができるような薄情さは持ち合わせていなかった。無視をして藤宮商店へと向かえば、警察も呼べるし少なくとも自身の安全は確保できたであろう。けれども、気がつくとポケットにねじ込んだ鍵を握りしめ、佐武家の玄関に向かって地面を蹴った自分がいた。

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