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 怖い。怖い。怖い。でも――。膝は相変わらず笑ったままだったが、芒尾は鍵を引き戸の鍵穴に差し込み、折れんばかりの勢いで回す。下手に飛び込むのは危険であると判断したばかりだったのに。ここから離れて警察に助けを求めようと、逃げ出すはずだったのに。


「美和子っ! 貴徳!」


 玄関を勢い良く開け放つと、芒尾は力の限り叫んだ。熊の置物が飾ってある整頓された玄関先。左手の障子戸の向こうでいくつかの影が踊っていた。そこは確か仏壇が飾ってある仏間だったはず。


 土足のまま上がり込み、熊の置き物を手に取る。おばさんが殺されていたという事実から察するに、自衛は必然のことだった。


 無我夢中で障子戸に飛びつき、それが壊れんばかりの勢いで開け放つ。その先にあった光景に、芒尾は息を切らせながらも驚嘆した。


 美和子に馬乗りとなり、プラスティックハンマーを振り上げるは、佐武家の大黒柱――美和子の義父だった。禿げ上がった頭部が特徴的で、いつかは貴徳も禿げるのではと、酒の席で話題になったばかりだった。それがほんの数時間前の話だ。


 そして、その当の本人――貴徳は部屋の隅っこに突っ立っていた。突然の乱入者に、その顔をゆっくり芒尾のほうへと向ける。


 正気の抜けた死人のような顔色。口の端からはよだれを垂らし、そして歯を強く噛み合わせて、それを左右に動かしている。歯ぎしりだった。


 プラスティックハンマーを振り上げたまま芒尾のほうへと振り返った美和子の義父もまた、芒尾の両親と同じようにいびきをかき、眼球をキョロキョロと動かしていた。


 ある程度の予想はできていたものの、その光景を芒尾は受け入れることができなかった。自身の家族だけではなく、やはり佐武家でも同じことが起こっていた。しかも佐武本人にまで、その不吉な兆候が見えていた。挙げ句、この瞬間、美和子がそれらの餌食となろうとしている。


「ダイちゃん! 助けてっ!」


 押さえ付けられた顔を上げて美和子が叫んだ。その額には血がべっとりと付着している。美和子の様子が、外で見たおばさんの姿と重なる。間違いない――。おばさんを殺したのは、おじさんだ。


 プラスティック製とはいえ、プラスティックハンマーはかなりの強度を誇る。一度ばかりなら問題ないだろうが、何度も殴打されれば簡単に死へといたる。


 もはや、何かに操られるように芒尾は飛びかかっていた。美和子の義父めがけ、熊の置き物を力任せに振り下ろす。嫌な感触があった。ぐしゃりという音がして、禿げ上がった頭部が血で染まる。


 寝訃成は殺せ――。殺さにゃいかん。頭の中で呪文のように、どこの誰なのかも分からない男の声がこだまする。とりあえず美和子の義父を彼女から引き離すなど、そんなことは頭になかった。


 おばさんは殺された。そして、美和子にまでその毒牙がかけられた。殺らなければ殺られる――。必死に熊の置き物を振り下ろす。もう一度、そしてもう一度と。


 嫌な感触が伝わってくる度に鮮血がほとばしった。紅く、紅く――そして紅い鮮血が、障子戸に、畳に、美和子に、そして芒尾の顔に飛び散った。


 気がつくと、美和子の義父は義理の娘に覆いかぶさるようにして動かなくなっていた。肩で息をしながら顔を拭うと、いくつもの赤い筋が袖に走った。


 殺した――殺してしまった。熊の置き物を持った手が小刻みに震え、芒尾の全身から血の気が引いていく。頭のてっぺんから足の指先まで、じんわりと柔らかな痺れが巡った。


 急に胃の中にあったものが込み上げてきた。それを慌てて飲み込むと、芒尾は貴徳のほうへと視線を移した。


 立ったままいびきをかき、歯ぎしりをしているせいか、口の端からはよだれが際限なく垂れ落ちる。どこを見ているのか分からない瞳を見て、芒尾は後退った。


「貴徳……。なぁ、嘘だろ? 嘘だよな?」


 異常事態に次ぐ異常事態で、すでに芒尾のキャパシティーは限界を迎えていた。メンタルが強いわけでもない芒尾に、この状況を全て受け入れろというほうが無理な話だった。自然と涙がこぼれ、体の震えが止まらない。それでも、芒尾は問うた。幼馴染の大親友に、何かの間違いではないかと問うた。


 彼のいびきがぴたりと止まった。相変わらず忙しなく眼球は動いているが、それが一瞬だけ、芒尾を直視したように見えた。


「明日も朝から打ちっ放しとか、わけ分かんねぇよ!」


 理解のできない言葉を、動かなくなった実の父親に向かってこぼす貴徳。一度は止まったいびきが発作のごとくぶり返す。しかも、先ほどとは比べ物にならない短い間隔のいびきだった。


 貴徳が座敷を飛び出した。体を左右に振りながらも、恐ろしいほどの速さで。続いて玄関が開け放たれる音が響き、すぐにぴしゃりと閉まる音がこだました。そこに残留したのは、身も凍るほどの静けさだけだった。


 貴徳の豹変ぶりに放心していた芒尾は、美和子のうめき声で我に返り、玄関へと駆け出した。玄関の鍵を閉め、さらに立て掛けてあった竹箒たけぼうきをつっかい棒にすると、急いで美和子の元へと戻る。


「美和子、大丈夫か!」


 身体的にも精神的にも、ボロボロだった。一緒に生活を共にしてきた家族に襲われ、昔から知っているおばさんの死を目の当たりにして、おじさんを殺してしまった。そして、大親友は狂ったかのように豹変した。これだけの事実を一度に押し付けられて、平気でいられるほうがおかしい。


 両手足の先は冷たいし、酔いとは別の浮遊感――いいや、非現実感が思考に膜を張っている。リアルな夢を見ているような感覚。しかし、これが夢であったら、どれだけ良かったことか。


 よほど強く握りしめていたのであろう。美和子に駆け寄りつつ熊の置き物を放り出そうとしたが、芒尾の右手はしっかりと熊の置き物を握ったまま離そうとしなかった。強引に左手で右手の指を開き、ようやく熊の置き物を手放すことができた。重たい木彫りの熊は、その大きな四肢を真っ赤に染めていた。


 今にも脱力してしまいそうな体に鞭を打って、美和子に覆いかぶさったまま動かなくなった義父を抱え上げる。死んだ人間とは、こんなにも重いものなのか――。今の芒尾には、引きずるようにして、美和子から義父を引き剥がすのが精一杯だった。


「美和子! おい、美和子!」


 気を失ってしまったのか、瞳を閉じて――しかし歯ぎしりをしたり、いびきをかいたりはしていない美和子の頬を叩いた。それに呼応するかのように、美和子がうっすらと目を開ける。


 どうやら美和子の意識は先ほどの延長線上にあったようだ。芒尾の顔を見るや否や、激しく抵抗してくる。


「美和子、落ち着け! 俺だ、大輔だよ!」


 美和子に頬を引っかかれつつ言うと、ようやく分かってくれたのか、美和子は瞳に涙を溜めつつ芒尾に抱きついてきた。よこしまなことなど頭に一切なく、素直に抱き締めてやる。


「ダイちゃん……。何、これ。何なの?」


 美和子の体は、痙攣を起こしているのかと思えるほど、激しく震えていた。そんな美和子は、すぐ横に転がっている義父の慣れ果てを見て声までもを震わせる。過呼吸気味に声を上擦らせる。


「お義父さん……。どうして? どうしてっ!」


「美和子、落ち着けっ! とにかく、落ち着くんだ!」


 そうは言ってみるが、美和子からすれば家族である義父が死んでいるのだ。しかも、美和子はその義父に殺されかけたのである。加えて、彼女の義母も死んでしまったのだから、パニックを起こして当然であろう。


 とうとう処理が追いつかずにオーバーヒートを起こしたのか、美和子は体を芒尾に預けるようにして沈黙した。どうやら失神してしまったらしい。

 

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