【エピローグ】1
煙草を吸って編集部に戻ると、彩香さんが茶封筒の中に原稿をしまうところだった。
「では――しかと拝読させていただきました。ただ、わたくし一人の力で本が作られるわけではないですし、あくまでもビジネスですので、当然ながらこの場でお返事することはできません」
私の顔を見るなりそう言った彩香さんは、立ち上がると大きく背伸びをする。
「うーん、これでわたくしの一日の業務終了です。――あれですから。わたくし定時に帰りたい派ですから。決められた時間以上に働きたくない人ですから」
時刻は五時少し前。確か都会のほうは始業時間が田舎よりも遅いと聞いたことがある。ゆえに、きっと六時とかが定時ということになるのだろう。出版業界といえば、時間なんて関係なしに働いているというイメージが強いのであるが。
「ただ、まだ多少のお時間があります。芒尾さん、今日はもうお帰りで?」
もう少し長引くようであれば宿泊も視野に入れなければならなかったのだが、時間的にまだ新幹線に間に合う。帰れるのであれば今日中に返っておきたかった。
「えぇ、特に急いで帰らねばならないということではないんですけど、やっぱり私には田舎のほうが性に合ってます。こっちはどうにも慌ただしくて」
結局のところ即日で返事がもらえるわけではないし、こうしておおよそ丸一日付き合ってもらえただけでも御の字である。何よりも福光彩香という編集者のおかげで、私の胸のつかえが取れたような気がする。明日から気持ちを切り替えて生きていける――というわけではないが、これまでの後ろ向きな生き方よりかは、多少はマシな生き方ができるようになるだろう。
「そうですか、ならば駅までお見送りしますよ」
「いえいえ、結構ですよ。私なんかのために――」
アポは取っていたものの、持ち込みという強引な手段で押しかけたのは私であるし、お客さん扱いをしてもらう必要はない。逆にこちらのほうが気を遣ってしまう。
「勘違いしないでください。もう少し業務時間が残っているのです。駅まで往復すればちょうどいいくらいの時間がです」
あぁ、なるほど。そういうことか。どうやら私の見送りは彼女の中で時間調整として扱われるらしい。てっきり、作品が彼女に大いに気に入られ、作家として認めてもらえたのかもしれないと思ったのであるが、私の勘違いだったようだ。
「そういうことなら、ぜひとも」
理由はなんであれ、都会の道を一人で歩くのは不安だ。ある意味、彼女に救われたようなものだから、恩を返す意味でも、喜んでお見送りを受け入れよう。
「では、準備をしてきますので」
彩香さんはそう言うと編集部のデスクのほうに姿を消し、コートを羽織って戻ってきた。肩からはショルダーポーチも下げている。なんというか、完全に帰宅するスタイルである。
「芒尾さんを送ったら、そのまま直帰することにしました。ちょろいもんです」
そう言って、もの凄く悪い顔をした彩香さん。深く突っ込まないことにしておこう。
「では、参りましょう。こっちの春は夜になるとまだ冷えますから――」
彩香さんに先導される形で編集部を後にする私。朝からこの時間まで編集部にいたわけであるが、短い時間でありながら凝縮した時間を過ごせたような気がする。今度訪れる時があるとすれば、ぜひとも一端の作家として顔を出したいものだ。私は編集部に向かって「お邪魔しました」と小声で漏らす。返事はなかったが、編集部を後にする私の心は清々しかった。
来る時は地図アプリとにらめっこをしながらであったが、帰りは彩香さんの後をついていく形で、すんなりと駅まで到着する。
「それでは、色々とお世話になりました」
人が行き交う改札口の前で挨拶をすると、彩香さんも頭を下げる。
「いえいえ、有意義な時間潰――作品を拝読させていただいてありがとうございました。またこちらからご連絡させていただくかもしれません。連絡は、あらかじめ聞いているお電話番号かメールアドレスで構いませんか?」
アポを取る際にその辺りのことは伝えてある。あまり期待はしていないが連絡をいただけたら幸いだと思う。
「えぇ、構いませんよ」
多くの人が改札口から駅の外に出て行って、多くの人が改札口に吸い込まれて行く。電車は基本的に一時間に一本であることを都会の人に話すと驚かれるが、私からすれば数分に一本というペースで電車が走っているほうが異常である。
「えっと――その、聞きにくいことなんですけど、芒尾さんのペンネームってなんでしたっけ? 電話口でも聞いたはずなんですけど、随分と中二病な――その、珍しいペンネームだったと思うのですが」
私のペンネームは、そのように受け取られてしまうのか。確かに、私のペンネームにはある思い入れがあり、またある仕掛けを施してある。それゆえに、自由に名をつけたというわけではない。
「えぇ、ペンネームは――」
私がペンネームを伝えると、少し宙に視線を投げる彩香さん。ぽんと手のひらを叩くと、スマートフォンを取り出した。
「あぁ、わたくしが気づかなかっただけで、最初からあなたは名乗っていたのですね。自分が芒尾秋紀であると」
さすがはミステリ畑出身。私がペンネームに施してある仕掛けを一瞬で見抜いてしまったらしい。
「まぁ、ベタベタな仕掛けではありますけどね。これはあえて表に出すつもりはなかったので、あくまでもオマケ的な要素ってことにしておいてください」
私が言っている間もスマートフォンの操作を続けた彩香さん。ふと顔を上げると、仕掛けを知っている人間には当然のことを――知らない人間にとっては意味深なことを口にした。
「なるほど、一度ローマ字に変換するわけですか――。こんな簡単なことに気づかなかったなんて、一本取られましたよ」
「ミステリ畑出身の編集者さんに一矢報いることができたみたいですね」
人の出会いというのは不思議なものである。その関係が一度限りで終わってしまう人もいれば、死ぬまで続く人もいる。私と彩香さんは果たしてどちらなのだろうか。
「――それではそろそろ。切符も買わねばならないので」
私がそう切り出すと、彩香さんが手を差し出す。左利きの私に合わせて、わざわざ左の手をだ。私と彩香さんは改札口の前で握手を交わした。
「では、サイボーグ化した山さんが日本滅亡を目論む秘密結社とやり合う続編のほう――よろしくお願いします。期待してます」
彼女の口から出た言葉に、私の口から「はぁ?」との声が自然と漏れ出た。良くも悪くも脱力してしまったと思う。
「では道中もお気をつけて。あの、家に帰るまでが原稿持ち込みですので。決してお気を抜かれないように」
遠足じゃあるまいし――私は脱力しながらも「は、はぁ……」とだけ漏らし、もう一度だけ彼女へと会釈をする。彩香さんも小さく頭を下げ、そして人混みの中へとまぎれて消えた。
明日からまた変わらない毎日が始まる。ごくごくありきたりで平凡な毎日が待っている。それはきっと、高校生の時に刺激的すぎる経験をした反動なのであろう。きっとあの事件のことは誰にも信じてもらえないだろうが。
私は切符を買うと、いまだに慣れぬ人混みの中へと勇気を出して飛び込んだ。私にとって――これまで後ろ向きに生きてきた私にとって、それは大きな大きな第一歩だったのかもしれない。
―完―
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