【《過去》平成12年4月16日 夜 ―芒尾大輔―】1

【1】


 ふと意識を取り戻すと、自分がどこにいるのか一瞬分からなくなった。暗闇に目が慣れていなかったというのもあるのだろうが、明らかに平衡感覚が狂い、見えている世界を認識できない。しばらくして目が暗闇に慣れてくると、狂っているのは自分の平衡感覚ではなく、見ている景色であることに気づいた。本来ならば天井であるべきものが右手側に、そして床であるべきものが左手側にあり、床からはいくつもの座席が真横に向かって伸びている。足元は割れたガラスが散乱しており、見上げた先にも窓がずらりと並んでいた。横転したバスの中なのだ――それを理解した途端、こうなる直前の記憶がよみがえった。


「――直斗。直斗っ!」


 運転席のほうへと向かって駆け出そうとするが、足元は窓であり、しかも割れてしまっているため、妙に歩きにくい。それに、体を動かすと、これまで経験したことのないような痛みが全身を駆け巡った。ふと、何気なしに頭を触ると、ぐっしょりと濡れている。しかも、生暖かい液体に髪の毛が絡みついているような感覚があった。あぁ、もしかすると自分はもう長くないのかもしれない。山村も言っていたことであるが、自分の体のことは誰よりも自分が分かるというのは本当らしい。


 改めて芒尾は足を前に踏み出した。その度に体には痛みが走る。骨折などはしていないようだが、歩く度に内臓が痛む。詳しいことは分からないが、内臓が破裂してしまったのかもしれない。何よりも大怪我をしているはずなのに、全く痛みのない頭が、もう命に猶予がないことを物語っていた。


 そこまで時間はかかっていないのだろうが、体感的に随分と長く感じた。運転席のところまでやってくると、窓ガラスに打ちつけられたまま、ピクリとも動かない加賀屋の姿を発見する。やはり、記憶が途切れる直前に見た記憶は、残念ながら記憶違いではなかったらしい。


 岬が加賀屋にボウガンを向け、そして容赦なく撃った。加賀屋の頭から生えているボウガンの矢を眺めつつ、芒尾は岬の姿を探す。彼女は何を考えてあんなことをしたのであろうか。窓から放り出される直前の物悲しげな表情を思い出す。


 フロントガラスはバスが横転したことで無数のヒビが入っていた。バスの中に岬の姿は確認できない。外に放り出されたのだから当然といえば当然だ。


 ヒビの入ったフロントガラスを破れば、なんとか外に出ることができそうだ。山村のトラックのフロントガラスを蹴破ったことを思い出した。そこで芒尾は、事故の直前まで持っていたはずの猟銃の存在を思い出して探して始める。事故の弾みで暴発しなかったのが幸いであるが、あれがないと話にならない。目が慣れているとはいえ暗闇のバスの中、猟銃を探すのは骨が折れた。


 猟銃はバスの最後部座席にあった。弾の入った麻袋は芒尾が腰に結わえつけてある。残りの弾数を確認して、芒尾は小さく溜め息を漏らした。弾も残りわずか――人間、不思議なものであり、山村に習っていないというのに、弾の込め方は自己流で編み出していた。筋がいいと言われていたが、それもあながち間違いではなかったのかもしれない。猟銃に手探りで弾を込めるなんて、もはや素人は卒業できたようなものだ。


 猟銃の準備を終えると、芒尾は改めてフロントガラスのほうへと向かう。銃底でフロントガラスを叩くと、できた隙間から外に出た。


 外は嫌な空気が漂っていた。肌寒いような、生温いような――実に気味の悪い空気だ。マイクロバスはもう使えないから、赤沢トンネルの突破は難しいだろう。しかし、今さらになって引き返すわけにもいかない。いいや、こうなってしまった今、どこに引き返せというのか。


 岬の姿を探してマイクロバスの周りを見て回ったが、彼女の姿はどこにも見えなかった。どうしてあんなことをしたのか問いただしてやりたかったが、きっと彼女も生きてはいないだろう。岬を探すことを諦めると、芒尾は赤沢トンネルへと向かう道の先を見据える。


 もう、自分にできることは限られている。今さら助かろうとも思わない。なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのか、誰か教えて欲しい。


 自分はもう長くない。たった一人で赤沢トンネルを突破できるとも思えない。ならば、せめて――せめて、これまで死んでいった仲間達のために一矢を報いたい。これまでは自分達を守るために寝訃成とやり合ってきたつもりであるが、ここからはそうではない。猟銃の弾が尽きるまで、これまでのお返しをしてやる。


 歩く度に体が軋み、意識が飛んでしまいそうになる。それでも自分をなんとか奮い立たせて、芒尾は赤沢トンネルを目指す。少し先にトンネルの明かりが見えてきた。それと同時に、想像していた以上の数の寝訃成の姿を確認する。工事用のフェンスでバリケードが作られ、トンネルの中には自動車が行く手を遮るようにして停められている。確かに、あれではマイクロバスでもなければ突破できないであろう。


 さぁ、最期の戦いだ。どうせなら、一人でも多くの寝訃成を道連れにして死んでやりたい。芒尾は近づくトンネルの明かりに呼吸を荒げ、人生最期の晴れ舞台へとのぼる。もう少し近づいたら、一気に駆け寄って引き金を引くつもりだ。


 思っていた以上に赤沢トンネルから離れたところでマイクロバスは事故を起こしていた。だからこそ事故現場に寝訃成がやって来なかったのであろうが、普段は車で下るだけの道のせいか、赤沢トンネルにたどり着くまで、思いのほか距離があったように思えた。


 歩みを進めるごとに痛みが体を襲う。それなのに、もっとも重症であろう頭は全く痛くない。それが逆に怖かった。痛みは体が不具合を発するシグナルだ。すなわち、もはや体が――脳が諦めてしまったのかもしれない。シグナルを発したところで手遅れであると。


 あと一歩近づいたら、もう一歩近づいたら、一気に攻め込んでやろう。もう自分が長くないことは分かっているし、数で敵わないのも知っている。どうにもできないことだって理解しているはずだ。それなのに、いざ決心をつけようとすると、心のどこかで迷いが生じるから不思議だ。結局、芒尾が腹を決めたのは、あちらに気づかれたタイミングだった。


 芒尾のほうを指差して、相変わらずわけの分からないことを叫ぶ寝訃成ども。芒尾は猟銃を構えて雄叫びを上げた。


 引き金を引くと、想像以上の痛みと衝撃が突き抜けた。一斉にこちらへと駆け寄ってくる寝訃成達を散弾の嵐が襲う。もう一発。闇夜を切り裂く炸裂音。寝訃成が一度に吹き飛び、しかしまだまだ数は減らない。


 みんな死んだんだ。こいつらのせいで。こいつらが殺したんだ。怒りと恨み――そして悲しみを銃弾に乗せ、引き金を引く。そろそろ弾がなくなるだろうと麻袋に手を伸ばすと、いつの間にか空になっていた。それでも引き金を引いた。銃弾は飛び出ないし、銃声も聞こえない。でも、芒尾の目には見えていた。最期の最期まで、自分達を苦しめ続けた魔物が断末魔をあげる姿が。


 ――まさか、後にこれが悲惨な事件として村ぐるみで隠蔽されることも知らずに。その隠蔽の際に、自分が悪者として仕立て上げられてしまうことも知らずに。


 芒尾はただただ最期の時まで引き金を引き続けた。


 七色になって飛び散る散弾と、色とりどりの血を流して倒れる化け物の姿。まるで夏の打ち上げ花火のようで、芒尾はその美しさに思わずぽつりと漏らしたのであった。


「あぁ、綺麗だなぁ――」

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