5

 あの山菜が明治時代に起きた集団発狂事件の原因であるかもしれないと知りながらも、私は裏口に現れた女将さんに山菜を手渡した。珍しいものだけど、普通に湯がいてもらえば食べられる――そんな適当なことをつけ加えてまで。女将さんは不審がりもせずに、喜んで受け取ってくれた。


 具合が悪くなったのはその直後のことだった。目眩のようなものに襲われながら、なんとか帰宅した私は、そのまま自室にて寝込んでしまった。まさか、翌日の夜には惨劇が始まってしまうとも知らずに。


「私は女将に山菜を手渡した辺りで具合が悪くなって、その翌日も寝込んだままだった。そして惨劇は起きてしまった――」


 彩香さんは口を挟もうともせず、私の話を真剣に聞いてくれているようだった。


「全て――全て、私のせいだったんだ。私があんなことさえしなければ、あの惨劇は起きなかった。この歳になった今となっては、なんであんなことをしてしまったのか分からない。でも、この歳になっても、いまだに後悔し続けているんだ。はっきり言って、私だけで背負うには十字架が重すぎるんだ」


 下を向いた私の目から涙がこぼれた。涙を流したところで過去は変わらない。大切な人を一度に失ってしまったことはまぎれもない事実だし、私のせいで多くの人が死んだことも、決して無かったことにはならない。


「だから――これを出版することで、暗に罪を告白しようと考えたのですね?」


 彩香さんは私の思惑までお見通しだったらしい。きっと、この人には全くもって敵わないのだろう。


「えぇ、その通りです。どれだけリアリティーを追求しようが、こんな話は誰からも信じてもらえないことでしょう。どれだけ実話であると訴えても、読んでくれる人にはフィクションにしか映らないに違いない。寝訃成は実在したし、その原因となる【夢見乃草】も存在する。でも、こんな突飛な物語、本当にあった話だなんて信じてもらえるわけがない。だから、ここなら私の罪を大いに告白できると思ったんです。何を言っても、読者はこれをフィクションであると思うでしょう。せいぜい、まるで現実で起きたかのように作られている作品――と思ってもらえるのが関の山でしょうから」


 万が一にもこれが本となっても、現実に起きた実話だと信じる読者がどれだけいるだろうか。たかだか経口摂取したくらいで強烈な幻覚症状を引き起こす山菜。その幻覚作用のせいか、怯えるようにしながら村人を殺して回った兄達。まるでゾンビ映画をツギハギして作られたような作品、誰も実際に起きた事件のことが書かれているなんて思いもしないだろう。


「わたくしがこんなことを言ったところで、何かが変わるとは思いません。ただ、率直に思ったことを言わせて下さい。あなたは確かに山菜を女将さんに渡したのかもしれません。でも、具合が悪くなったのはたまたまであって、本当ならばあなたも惨劇が起きる当日、あの山菜を口にしていたのかもしれないんです。そもそも、近々自分が来店する予定のあるお店に、そんな山菜をお裾分けとして提供するでしょうか?」


 彩香さんの言葉に私は黙り込んでしまった。正直なところ、あの辺りの記憶がひどく薄いのだ。どうして、あのような行動に出てしまったのか。言われてみれば、あの店に提供するということは、私自身が山菜を食べてしまう恐れがあった。それなのに、なぜ私は――。


「これはわたくしの推測。根拠もなければ証拠もない希望的観測でもありますが、もしかして例の山菜は経口摂取以外でも幻覚作用のようなものを引き起こすのではないでしょうか?例えば、その匂いをかいでしまったら――とか、山菜自体から幻覚を引き起こす成分が水分と一緒に外へと蒸発していて、それを吸ってしまった人間は、多少なりとも幻覚作用のようなものを経験してしまうとか」


 彩香さんが何を言いたいのかは、なんとなく分かっていた。こんな見ず知らずの罪人のために気を遣わせて、なんだか申しわけない気がする。


「つまり、あなたの取った行動。実際に【夢見乃草】が幻覚を引き起こすのか衝動的に知りたくなったのも、そのために自分ではなく他人を犠牲にしようとしたのも、そして【なか屋】にお裾分けとして持って行ったのも――【夢見乃草】があなたに幻覚作用のようなものをもたらしたからなのではないでしょうか? 経口摂取したわけではないから、そこまで強烈な幻覚作用は起きなかった。でも、ほんの少しの興味心をくすぐり、判断力を鈍らせ、また衝動的な行動を引き起こす程度の弊害は起きていたのではないでしょうか?」


 私の行動そのものも、あの【夢見乃草】が取らせたものだったと言いたいのであろうか。彼女の言う通り、私の行動そのものに不審な点はあるものの、だからと言って私の罪は絶対に消えないのだとは思う。でも、でも――。


「そうであるのだとすれば、少しだけ救われたような気がします……」


 ようやく顔を上げる。中年の泣きべそなど、誰が好んで見たいと思うだろうか。むしろ、見ていて気分の良いものではないだろう。しかし、彩香さんは顔色ひとつ変えずに、こう一言だけ漏らした。


「わたくしも、そうあって欲しいと思います。どんなに絶望的なラストであっても、やっぱり物語のどこかには救いがあって欲しいと思いますから」


 もう、残りの原稿枚数も少ない。実のところ私の独白のような形で最後に謎を明かして終わる予定で物語を書いてあったのだが、もうそれは不要であろう。なんせ美味しいところは全て彩香さんが持って行ったのだから。こうなったらいっそのこと、私がK社に原稿を持ち込み、相手をしてくれた編集者が謎を解き明かしてしまうという設定に変更してしまおうか。そのほうが、より現実に起きた話として成り立つだろうし。


「さて、ここまで付き合わせてもらったんです。物語のラストを拝読させていただきます」


 彩香さんはそう言うと、残りの原稿を手に取った。今日が初対面であり、たかだか原稿の持ち込みをした時代遅れの売れない作家と、たまたま持ち込みの原稿に付き合うことになった出版社の編集者という間柄なのに、中年の泣きべそを見せたのが、今さらになって恥ずかしくなってきた。


「私はちょっと煙草を吸ってきます。すぐに戻りますので」


 体がニコチンを欲したというよりも、なんとなくその場に居づらくなってしまった私は、彩香さんにそう告げて編集部を後にする。


 彩香さんが――いいや、K社がどのような判断を下すのかは分からない。しかし、たまたまであっても彼女が私の原稿に目を通してくれて良かったと思う。もちろん、出版なんて話になってくれたら最高であるが、彼女のおかげで私がこれまで抱えてきた罪悪感が、ほんのちょっとだけ薄れてくれたような気がした。


 これまで誰にも言えなかった。誰かに言いたくて仕方がなかった。でも、私が惨劇を引き起こした本人ですと警察に出頭したところで、きっと笑われるだけに違いない。誰かに真実を話しても、作り話だとか、現実味がないとか言われるだけなのだ。その度に私の罪はフィクションに塗り替えられ、それが決して消え去らないかせとなって、私のことを苦しめ続けてきた。


 喫煙室に入ると、長年吸っている煙草を取り出して火を点ける。罪悪感からのストレスから逃げるためだけに吸っていた煙草が、この瞬間だけ――この一本だけは、実に美味く感じたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る