6
「美和子、話したくないなら話さなくても構わないんだけどさ……」
消毒液と余った包帯を救急箱に仕舞いつつ、芒尾はほんの少しだけ本質に触れた。
「この家で何があった?」
日常を覆い隠すかのようにして、何の前触れもなく始まってしまった非日常。この村で何が起きて、そして自分達は何をやるべきなのか。それを知るためにも、美和子が遭遇した惨事を知っておくべきだった。美和子は大きな溜め息を漏らすと顔を上げ、震える声でぽつりぽつりと話し始めた。
「お義母さんの金切り声で目が覚めたの……。慌てて旦那を起こそうとしたんだけど、もう隣にはいなくて。私――どうしていいのか分からなかったけど、音はお義母さん達の寝室から聞こえたみたいだったから、見に行ってみたの。そうしたら――」
美和子はそこまで言うと、頭を抱え込んで小さく悲鳴のようなものを上げた。よほどおぞましい光景を見てしまったのであろう。フラッシュバックなるものが美和子を襲っているのかもしれない。
「お義父さんが、お義母さんをハンマーで……。ハンマーで思い切りっ! 旦那も一緒にそこにいてっ!」
美和子の呼吸が早く、そして荒くなる。芒尾はそっと美和子の肩に手を置いてやった。
「分かった。もう話さなくてもいい」
そう言ってやるものの、美和子は何かしらの発作が起きたかのように、途切れ途切れの言葉で喋り続ける。
「お義母さんが動かなくなって、そうしたらお義父さんと貴徳が私のことに気づいて……。こっちが何を言っても通じなくて、そこで私も殴られた。痛かった。怖くて、怖くて――何がなんだか分からなくて、とにかく逃げよう。逃げようって」
美和子はしゃくりあげながら、怯えるように体を縮こまらせた。この家で起きたことを追体験しているのか、芒尾の言葉は一切耳に入っていないようだ。
「美和子、もういい。もういいから……」
そんな美和子を見ているのが辛くて、そう諭そうとする芒尾であったが、心ここにあらずといった様子で、美和子は目にしたであろう光景を口から紡ぎ続ける。
「お義父さんを振りほどいて一階に降りて――。外に出ようとしたら襟首を掴まれて。でも、襟首を掴んだのはお義父さんじゃなくて貴徳で……。そのまま羽交い締めにされて仏間まで連れて行かれて」
たどたどしい言葉を、必死の様子で絞り出す美和子。彼女が見ている光景は、芒尾といる居間ではなく、今は無人でひっそりとしている玄関口と仏間なのだろう。そこに自らの記憶を投影しているに違いない。
「仏間に入った途端、貴徳が私の体を離したから私――手近にあったものを手当たり次第に投げて、でもお義父さんが降りてきて私を押し倒して……」
その時に頭を切ってしまい、そして芒尾が仏間へと飛び込んだ。いくら状況を整理するためとはいえ、美和子の思い出したくないことを無理に引っ張り出してしまったことを後悔した。
「ダイちゃんがきてくれなかったら、死んでた。ダイちゃんがきてくれなかったら」
美和子は両腕を強く抱き締め、放心した瞳を畳へと向けたまま声を震わせていた。ここまで弱々しい美和子を見たのは、これが初めてだった。
「ごめんね……。私自身も良く分からないんだけど、頭の中がごちゃごちゃしてる」
そこで我に返ったのか、美和子が消え入りそうなか細い声を振り絞る。状況が掴めずに混乱しているのは芒尾とて同じ。目の前で家族が殺され、また家族に殺されそうになった美和子の苦しみは想像に耐えないほどのものだろう。家族に襲われはしたものの、まだ誰一人として家族を失っていない芒尾とは、比べ物にならない。
「いや、話したくないことを話させてしまって悪かったよ。美和子、少し横になって休んでいろ。ちょっと、電話借りるぞ」
とにかく、この村では奇っ怪なことが起きている。美和子と芒尾の家に共通しているのは、それぞれの家族がおかしくなり、他の家人を襲い始めたということ。そして、あの切羽詰まった電話の声から察するに、この現象は村のいたる場所で発生していると思われる。
一刻も早く助けを求めるべきだ。この村の単位で異変が起きているのであれば、芒尾と美和子の二人だけで対処できる問題ではないだろう。幸い、ここの玄関は施錠することができたし、助けさえ呼んでしまえば、後は
すすり泣く美和子を居間に残して廊下に出ると、障子戸が開いたままの仏間から目を逸らしつつ、階段下にある黒電話へと向かう。
理由はどうであれ人を殺してしまったのだから、もしかして警察に捕まってしまうかも――そんなことが頭をよぎったが、芒尾は意を決して受話器へと手を伸ばす。こんな馬鹿みたいな話を信じてもらえるとは思えないが、村で異常な事態が起きていることだけは間違いない。後々面倒なことになるとしても、助けを呼ばなければ。
受話器を上げると、ダイヤルを回す。番号をひとつ入力する度に、いちいちダイヤルが元の位置に戻るのを待たねばならないのがもどかしい。そして、110と番号のダイヤルを終えると、芒尾は受話器を耳に当てた。だが、受話器はうんともすんともいわない。もう一度やってみるが、結果は同じだった。黒電話が外との繋がりを拒む。
嫌な予感を抱きつつも、芒尾は電話帳を引っ張り出し、仏間から漏れる明かりを頼りに加賀屋の家の電話番号を調べる。そして、ダイヤルしてみるが、やはり黒電話は沈黙を守ったままだった。
――電話が通じない。電話線をたぐってみたが、どこかが断線しているような様子はない。室内ではなく、外のどこかで断線しているか、それとも村の電話回線が集約されている交換機自体がおかしくなったのか。なんにせよ、ここから警察に連絡を入れることはできないようだ。
受話器を置くと、美和子の元へと戻る。これからどうするべきなのか――とりあえず、現時点でやっておかねばならないことはいくつかあった。
「美和子、何があるか分からないから着替えてくれ。あと、俺にも服を貸して欲しい。こいつじゃ満足に動けないだろうしな」
芒尾の寝間着は泥と返り血にまみれており、また美和子も当然のごとく寝間着姿である。ここに籠城するにしても、動きやすい格好に着替えておきたかった。いいや、籠城などと甘ったれたことを言っている場合ではないのかもしれない。
美和子の頭の怪我を加賀屋に診てもらう必要があるし、ここから警察を呼べないのであれば、別の電話での通報を試みたい。家にこもっているのが最も安全なのは分かっているが、確実に助かるという保証はなかった。なんせ、外部との連絡がとれていないのだから。
外部との連絡がとれないのならば、美和子の怪我の状態を診にきてもらうこともできない。結局、こちらから出向く必要性が出てくる。
美和子は泥と血にまみれた芒尾の姿に、自分もまた義父の返り血にまみれたままであったことに気づいたのか、それに怯えるようにして小さく頷き、風呂場のほうへと向かったようだった。いくら小さい頃から通い慣れている家でも、着替えがどこにあるのかまでは分からない。この辺りは家の人間に動いてもらわねばならないだろう。
すぐに戻ってきた美和子は、芒尾に男物のトランクスを差し出した。美和子の手には女性用の下着が握られている。
「ダイちゃん。着替えは私達の寝室にあるから、ついてきて欲しい……」
トランクスを受け取ると芒尾は頷く。まだ安定はしていないが、美和子も大分落ち着いてくれたようだ。涙がいまだに乾かぬ状態ではあるようだが、このままでは何も進展しないことを、美和子も理解しているのだろう。
芒尾を先頭にして、やはり仏間のほうからは目をそらしつつ、二階へと上がる。そして、おばさんの遺体がある両親の寝室を通り過ぎて、美和子達の寝室へ――。
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