【《現在》平成27年4月某日 朝 ―私―】

 厳しい冬が終わり、ようやく春らしい陽気の日が多くなってきた。花粉症の人にはたまったものではないだろうが、少なくともこれまで花粉症とは無縁の私からすれば、春の訪れは喜ばしいことだ。


 新幹線に乗って東京駅までやってくると、そのまま乗り換えをして九段下駅にて降りる。私の地元にはまだ雪がとけきらずに残っているのというのに、東京はすっかり春である。


 人混みに圧倒されながらも、なんとか目的の駅までやって来れた自分を褒めてやりたかった。普段は電車なんて滅多に乗らないし、何よりも電車は人でごった返していた。何もない平日なのにだ。東京の人達は何食わぬ顔で電車に乗っていたが、毎日のように赤の他人とおしくらまんじゅうをしなければならないと思うと、やはり田舎のほうがいいのかも――なんて思えてくる。


 田舎では見ることのない背の高いビルに圧倒されながらも、スマートフォンの地図アプリを頼りに千代田セントラルタワーを目指す。ビルの隙間風というのだろうか、東京というものは、随分と冷たい風が吹きおろすものだと思った。


 必要最低限の着替えと、仕事用の道具一式に分厚い茶封筒、後はせいぜいトラベル用の歯ブラシとスマートフォンの充電器くらいしか入っていない荷物を抱えた私が、どうして千代田セントラルタワーを目指しているのか。それは、千代田セントラルタワーの中にある出版社――K社に用事があったからである。


 決して自慢できるようなものではないが、私は小説家の端くれだったりする。もちろん、本名である芒尾とは名乗らず、ペンネームでの活動になる。以前、他の出版社から出版させていただいたが、どうにもデビュー作は鳴かず飛ばずであり、俗にいう売れない作家という惨めな立場にいた。


 仕事は作家になった際に辞めてしまった。今やプロ作家の9割以上が兼業――本業をやりながら執筆を続けている世の中だ。物書きだけで飯が食えるのはほんの一握りだけ。その一握りになれると思っていた私は、どこまでおこがましく、どこまで愚かだったのであろう。辞めた職場に戻るわけにもいかず、今は年下の奴に指図されながら、惨めなアルバイトで食いつないでいる。もちろん嫁さんもいなければ子どもだっていない。まぁ、だからこそ単独で東京にまで足を運ぶことができるわけだが。


 千代田セントラルタワーは、周囲のビルと比べ物にならないほど大きく、そして高かった。ここの五階にK社が入っているはずだ。田舎者らしく、必要以上に広いエントランスにいちいち驚きつつ、総合案内の受付嬢らしき人にK社のことを聞いてみる。すると、親切にK社まで案内してくれるとのこと。都会の人は冷たいというが、世の中まだまだ捨てたものではない。


 田舎者からすれば、ひとつのビルにいくつもの会社が入っているということだけでも驚きである。階層が違うだけで会社まで違うなんて、複雑な気分にならないのだろうか。ひとつ屋根の下にいながら――なんて言葉も、今では死語なのかもしれない。


 K社まで案内してもらった礼を言い、そこで受付嬢とはお別れ。東京のビルには、どこにでも容姿端麗な受付嬢がいるのだろうか。やはり都会は恐ろしい――そんなことを改めて思いつつ、私はK社の扉を叩いた。これまた、先ほどの受付嬢というほどではないが、若くて小綺麗な女性が出迎えてくれる。


「あの、お電話させていただいておりました芒尾と申します」


 ペンネームはペンネームで存在するし、電話口でも伝えてあったのだが、意外と業界の人間と会うときは本名を使うことがほとんどだ。以前の担当も、私のことをペンネームではなく本名で呼んでいたものだ。


「あ、担当の者にお繋ぎしますので、どうぞこちらへ――」


 小綺麗でありながら、いくつものデスクが並び、そしてデスクひとつひとつがブースで区切られているオフィスは、なんだか煩雑な印象があった。また別の部屋に総務やら営業やらの部署があるのだろうが、私が案内してもらった部署は編集だった。


 実は数日前に一本の作品を書き終えたばかりだった。私はそれをK社に持ち込みに来たのである。以前世話になった担当のいる出版社に連絡しても良かったのだが、もはや担当でさえ数年間連絡を取っておらず、忘れ去られているようで怖かった。それにK社のネットコンテンツには普段から小説を投稿させてもらったりと世話になっている。数年間音信不通の出版社よりも、だからK社のほうになんだか親近感がわいたのであろう。


 ブースで区切られたデスクで働く方々の姿を横目に、これまた仕切板で区切られただけの応接スペースらしき場所に通された。ソファーがふたつに、テーブルがひとつ。仕切板には、この会社から出版された書籍のポスターが貼ってあり、整頓はされているが、なんだか落ち着かなかった。


 ソファーに座って待つことしばらく。仕切板の向こうから女性が姿を現した。上下ともにグレーのスーツ。タイトスカートから伸びる白い足に目がいってしまうのは、悲しき男の性なのであろうか。


「どうも」


 そう言って頭を下げた女性。長い髪を後ろでひとつに束ね、整った顔立ちにナチュラルな化粧が映える。歳は20代後半くらいか。お茶を用意するにも、急須に茶葉を入れ、湯を沸かし、わざわざ私の前で湯飲みに注ぐ――なんて非効率的なことはせずに、自動販売機で買って来たであろうペットボトルのお茶を出してくるあたり、いかにも出版業界らしい。私は差し出されたペットボトルを受け取りつつ「お構いなく」と漏らした。


「わたくし、編集担当をしている福光彩香ふくみつあやかです」


 私の対面に座った彼女は、挨拶がてらに名刺を差し出してきた。本当ならば名刺交換をしたいのであるが、社会から落ちぶれた人間は名刺など持たない。彼女――彩香さんから名刺を受け取るだけに留まった。


「これはご丁寧にどうも――。私は芒尾と申します」


 かたわらに彼女の名刺を置き、私はあえて名乗った。彼女は私の顔を見て「芒尾って珍しい苗字ですね」と一言。私は頷いた。自分でも珍しい苗字だと思う。もっとも、地元では屋号で呼び合うことのほうが多い。私の家の場合はスガヤドンと呼ばれていたから、むしろ芒尾と呼ばれることのほうがくすぐったく感じる。


「えっと、今回は原稿の持ち込みということで――。ちなみに、芒尾さんは他の出版社からすでに出版したことがあるとか」


 恐らくであるが、出版経験がなければ門前払いされるのが関の山だったのであろう。曲がりなりにもプロとして出版をしたという経験があるからこそ、こうして持ち込みに応じてもらえたのだと思いたい。普通、出版関係の人間は非常に忙しく、持ち込みの作品に目を通す時間がないのだとか――。なんでも持ち込み作品のおよそ9割が編集者の元まで届かないそうだ。


「えぇ、まぁ売れない作家ってやつですがね」


 私は自嘲気味に言うが、しかし彩香さんは表情ひとつ変えなかった。つかず離れずのスタンスというか、近いようで一歩退いて作家に接するのは、できる編集者の証だ。編集とて商売であり、売れない作家はいつでも切れるようにしておかねばならない。だから、ある程度付かず離れずのスタンスを保ち、そこに感情論を入れないようにする。冷たいようだが、できる編集者はドライな一面が必要となるのだ。前の編集がまさしくそうだった。


「それで、持ち込みの作品はデータですか? わたくし、原稿用紙派なのですが」


 残念ながら基本的に私はデータ派である。いいや、こんなご時世に好んで原稿用紙を使う作家のほうが珍しい。しかし備えあればなんとやらだ。念のために用意しておいて良かった。


「もちろん、データ化はしてあります。それをプリントアウトしたものもここに――」


 私は荷物から分厚い茶封筒を取り出した。その中にはプリントアウトした原稿が入っている。データはUSBメモリに入っているというのに、わざわざ私がプリントアウトした原稿を持ってきたのには、それなりの理由があった。データを渡すだけだと、後日連絡をするだとか適当にあしらわれて帰されてしまう恐れがある。つまり、原稿そのものが読まれない可能性があるのだ。一方、プリントアウトした原稿は、膨大な枚数をプリントアウトするという手間がかかっている。ゆえに、それを目の前に差し出されれば、無下にはできない。少なくとも冒頭部分くらいには目を通してくれるはずだ。しかも、彼女は原稿用紙派らしい。今時にしては彼女もまた珍しい人種かもしれない。


 原稿の入った茶封筒を受け取ると、彩香さんは「それでは失礼して――」と原稿を取り出し、早速それに目を通し始めた。


「私は新潟県の人間でして。ご存知かは分かりませんけど、特に豪雪地帯の十日町とおかまちというところに住んでいるんです。そして、田舎というのは得てして――奇妙な伝承や因習があったりするものなんです」


 私が今回書き上げた原稿は、私がまだ若い頃――正確には今から15年間ほど前の平成12年に起きた、奇妙で恐ろしく、そしてどこか切ない実体験を書いたものである。


「大雪が降ると良くテレビに出ますよね――。行ったことないけど」


 彩香さんは私の地元のことを知っているようだった。確かに、大雪などが降ると真っ先にテレビ局がやってくるような場所である。今こそ町の中心地に住んでいるが、私の出身地は山間部の村である。小さな村であり、今現在は廃村となっている。


「えぇ、良くご存知で。それでは、その十日町のある村で、ある事件が起きたのは知っておられますか? かつては連日のようにニュースで報じられました。今から15年前の話になります」


 私の言葉を聞いた彩香さんは、原稿から目を離して首をやや傾げた。


「15年前というと小学校中学年くらいですから――ごめんなさい。記憶にないです」


 もしかすると事前情報を持たない人間のほうが作品を読む分には新鮮でいいのかもしれない。一瞬迷ったが、しかし私は事件のことを話すことにした。そのほうが、私の想いが伝わるかもしれないと考えたからだ。


「赤沢村大量虐殺事件――発狂した一人の若者が村人を殺して回り、わずか数日にして、村人ほとんどが死に絶えてしまったセンセーショナルな事件。あの時、村では何が起きたのか? 本当に発狂した若者の仕業だったのか? だとすれば、どうして若者は狂ってしまったのか。表向きでは解決したことになっている事件の真実は、今あなたが手にしています」


 私はそっと原稿を指差した。彩香さんは私の指先につられるようにして原稿に視線を落とす。そのまま「実際にあった事件をモチーフにした作品ですか」と呟く彼女に対して、私は大きく首を横に振ったのであった。


「モチーフではなくて、実際にあった事件の真相をありのままに書いたんです。まだ世に出回っていない真相をね」


 ――全ての始まりは15年前。ようやく桜が咲き始めた春のことである。

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