5

「……ここから出よう」


 山村が言うと、全てを察したであろう真美が懇願するかのように目を向けてくる。


「山さんだけでも逃げて……。きっともう、私も助からないだろうから」


「馬鹿を言っちゃいかん! ここから出るんだ。助からんなんて言うんじゃない!」


 弱音を吐きたい気持ちは分かる。一刻も早く医者に診せなければ、命に関わるであろうことも分かっている。しかし、こうして真美の息がある以上、ここに置いて逃げることはできない。山村が真美を抱き上げると、皮だけで繋がっている両足が、ぶらりと宙に踊った。それに合わせて鮮血がしたたる。


「ほら、血も止まらないし、私はきっと助からない。それにね、寒いの……。おかしいでしょ? ここにいるのに寒いなんて。きっと、死ぬのよ」


 炎に包まれた店は、当然ながら温度が随分と上がっているようで、山村は額から流れる汗を幾度となく拭っていた。この状況で寒いと言い出すのは、体が危険な状態に陥っているからだ。


「大丈夫だ! そんな弱気にならんでくれ――。そうだ、俺はまだ店に何万もツケがあるんだ。それを払うまで死なれちゃ困る! すぐに加賀屋医院に連れて行く。あそこの若先生の腕は若女将も知っとるだろ? きっと助けてくれる!」


 全部嘘だった。ツケは先月全て払って綺麗になってしまっていた。それに、加賀屋医院のせがれの腕が良くとも、あそこの設備では限界がある。普通ならば街の病院に回されるのであろうが、村がこんな状態だから、それも難しいだろう。そもそも若先生が寝訃成になっていないという保証もない。けれども、山村は必死になって真美を励ました。嘘をついたとしても、真美を助けたかった。それが、大将へのせめてもの手向けだった。


「……山さんって、相変わらず嘘が下手」


 ぽつりと漏らした真美に、山村は返す言葉が見つからなかった。真美は全てを悟っているのだ。旦那がこの世にいないことも、自分が手の施しようの無い状態であることも。


「ねぇ、山さん。お願いがあるの。私を旦那のところに連れてって。どうせ死ぬなら、あの人のそばで死にたい……」


 真美を抱えた手が震えた。自らの意思とは関係なく、唇がわなわなと震える。そして、山村の目から汗ではないものが流れ落ちた。


「大将っ! お前、本当に良い嫁もらったな! このちくしょうめ!」


 どうして自分より若い連中が先に逝かねばならないのか。何もない自分が生きていて、どうして守るべきものがある連中が死なねばならないのか。不条理すぎる。これが中町夫婦の寿命だというのであれば、あまりにも不条理だ。山村は虚空に向かって思い切り怒鳴った後、真美に向かって渋々と頷いた。


 真美の言う事を聞き入れずに、無理矢理外に連れ出すことは簡単だった。しかし、真美を救うことも困難だった。まず彼女が加賀屋医院までもつとは思えない。それに、加賀屋医院に駆け込んだからといって、真美が助かる保証はなかった。ならば、せめて――せめて最期くらい、彼女の望む死に場所を与えてやりたい。


 本心では救いたかった、助けたかった。しかし、それが不可能に近いことは明らかだった。


 山村は真美を小上がり席へと連れて行くと、大将の隣へと横たわらせた。真美は大将の慣れ果てを見て、何かを言いたげに瞳を潤ませていたが、山村に向かって「ありがとう」とだけ呟くと、恐らく精一杯だったであろう笑顔を浮かべた。


「礼なんていらん……。礼なんていらん」


 とめどなくあふれる涙をぬぐい、山村はそっと真美の手を取って、大将の手に重ねてやる。人間というものは、どれだけ無力な生き物なのであろうか。目の前にいる人間すら救えないなんて。


 きっと、これまで気力だけで持ち堪えていたのであろう。真美は安心したかのように瞳を閉じると動かなくなった。返事がなかったらと思うと、怖くて声すらかけられなかった。


 山村は二人を見届けると、猟銃を拾い上げ、もう一度だけ中町夫妻のほうへと目をやる。そんなはずはないだろうに、二人が微笑んでいるかのように見えたのは山村の気のせいだったのか。いいや、気のせいではないと思いたい。


 どこかお伽話とぎばなしのように思っていた。明治時代に寝訃成という化け物が現れ、それを退治した話など、誰かの作り話だとさえ思っていた。けれども、遠い昔のお伽話は、こうして現実として現代へと降りかかった。


 猟銃をかついで店を後にした山村は、燃え盛る炎に心を決めると、自宅に向かって駆け出した。


 寝訃成は殺さねばならん。そうしなければ、中町夫妻と同じような目に遭う者が出てくるやもしれぬ。いや、すでに同じような惨劇が、村のいたるところで起きているかもしれない。


 地面を蹴る度に、この村を襲っている惨状を想像しては身震いをする。安っぽい正義感など持ち合わせていないし、使命感などという崇高なものも持っていない。ただ、自分の居場所と死に場所が、そして当たり前だった日常が崩れて行くのが許せなかった。


 山村は反撃に打って出ることを、若くして命を落とした夫婦に誓った――。それに呼応するかのように【なか屋】を包む炎が大きく爆ぜた。

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