【《過去》平成12年4月16日 明け方 ―加賀屋直斗―】1

【1】


 村の空気がおかしい――。花巻の言葉の意味が分かったのは、西部の集落へ出た時のことだった。普段ならば、まだ眠っているはずの家屋には、ところどころ明かりが点いている。そして、それを確信する光景を目の当たりにしたのは、集落へと入ってしばらく進んだ地点でのことだった。


 ヘッドライトが照らす道の脇に、重なるようにして倒れている親子の姿を見つけた。加賀屋は慌てて車を停め、その親子へと駆け寄る。まだ幼いであろう子供を守るようにして、母親らしき女性が倒れ込んでいた。女性の背中には痛々しいほどの刺し傷。包丁か何かで滅多刺しにされたのであろう。女性と、その下敷きになっている子どもの脈をとってみたが、生命の鼓動は一切聞こえなかった。医師である加賀屋が瞬時に諦めてしまうほど、明確な死の匂いに二人は包まれていた。


「宮下の奥さんと、優希ゆうき君……。どうしてこんなことに」


 後退るように、そして逃げ出すかのようにして車へと戻った加賀屋は、ハンドルにもたれかかって呟き落とした。村で唯一の医者であるから、顔を見ればどこの誰なのか分かってしまう。


 ゴールデンウイークに、家族と旅行に行くんだ――。つい先日、小学校の健康診断へとおもむいた時に、優希君は満面の笑みでそう言っていた。先生にもお土産を買ってくるねと、誰よりも旅行に出かけることを楽しみにしていた彼が、どうしてこんなところで命を落としているのか。


「何が起きているんだ……」


 加賀屋は手の打ちようのない状況を、己の未熟さに転嫁しながらも、思考を張り巡らせる。心当たりはあった。酒を呑んだせいで夢でも見たのかと思っていたが、どうやらあれは夢ではなかったようだ。


 芒尾達と別れた後、医院に戻った加賀屋はカルテの資料を整理していた。酒を呑んでいたせいか、妙に目が冴えていて眠れそうになかったのだ。しばらく作業に没頭をしていると、医院の電話が鳴り響いた。


 こんな時間に急患だろうか。酒を呑んだ後だから、できることならば歩いて向かえるところだとありがたいのだが――。そんなことを考えながら電話に出てみると、しかしそれは実に奇妙な内容だったのだ。


 ――寝訃成が出た。施錠をしっかりして、外には出るな。もし、身内に寝訃成になった者がいるならば、迷わず殺せ。そんな不吉で物騒な内容だった。電話は加賀屋が口を開く前に切れてしまい、少しばかりの気味の悪さを感じつつも、加賀屋は仕事へと戻ったのだった。


 花巻が加賀屋の元へとやってきたのは、それからまたしばらくしてからのこと。あの電話――悪戯いたずらにしては内容が理解不能であるし、夢でも見たのであろうとばかり思っていたのであるが、それよりもさらに理解できない状況が、加賀屋の目の前に現実として広がっている。


 加賀屋は顔を上げると、重なり合って事切れている親子に向かって両手を合わせた。もし、このような異常事態が村のいたるところで起きているのであれば、駐在も大忙しであろう。明らかに駐在だけでは手が足りない。やはり、駐在所に向かっても、もぬけの殻となっている可能性が高いだろう。


「――ここで、あれこれ考えていても無駄か」


 加賀屋は自らに言い聞かせるかのように呟くと、もう一度だけ親子に両手を合わせて車を発進させた。ここはやはり医院に携帯電話を取りに向かったほうが良さそうだ。それならば、駐在が手一杯でも外部に助けを求めることができる。


 集落の中を徐行しながら進む。できる限り前方だけを見つめ、周囲は見渡さないようにした。それでも、車のベッドライトは、何度も道端に横たわる人影のようなものを照らし出した。そして、ほんの少しだけ開けてある窓からは、人々が争うような声や、断末魔に近い悲鳴のようなものが飛び込んでくる。それらを全て無視して、ひたすらに医院へと向かうのは、医者として多くの村人に献身けんしんしてきたつもりの加賀屋には、実に辛いことだった。


 やっとのことで集落を抜け、ようやく役場前の交差点が見えて来た時のことだった。どこからともなくパトカーのサイレンが聞こえ、思わず加賀屋は車を停める。すでに集落を抜けているから、辺りは見渡す限りの田園風景。パトカーの赤色灯を見つけるのは造作もないことだった。


 赤色灯はそう遠くない。村を南下しているようだった。赤色灯のほかにも、車のテールランプらしきものが、ちらほらと見える。この距離ならば追いつけそうだった。飲酒運転をしていることは百も承知であるが、状況が状況だ。背に腹はかえられない。


 医院に向かう前に、駐在を捕まえて事情を説明しておくべきか。しかし、事情を説明したところで、駐在の手が回るとは限らないし――そんなことを考えつつ、どうするべきか模索していた時のことだった。まるで銃声のような音が遥か遠くで弾けた。それと同時に赤色灯が消えた。なんの前触れもなく、ふっと消えてしまったのだ。そこで加賀屋はようやく気づく。赤色灯の近くに別の車の明かりがあったことに。その明かりは、赤色灯が消えた場所から立ち去るかのごとく動くと、ある地点でふっと消えた。


 どうも妙だ。加賀屋は思わずヘッドライトを消した。空は随分と白んでおり、もうしばらくすれば日が昇る。まだ薄暗いことには違いないが、外灯だけを頼りに運転できないこともない。


 無視をして医院に向かうこともできたが、加賀屋は赤色灯のほうへと向かって車を走らせた。ぱっと見た感じでは、村の外に向かって南下する本道で赤色灯は消えたようだった。薄っすらと外が明るくなる中、街灯を目印にして進む。


 現場に到着して、赤色灯が急に消えた理由が分かった。パトカーが田んぼに落ちてしまったのだ。運転操作を誤りでもしたのだろうか。トレードマークともいえる白と黒の配色が、泥にまみれてしまっている。その沿道には、軽のバンがヘッドライトを消した状態で停まっていた。


 パトカーの周りには、いくつかの人影が見えた。中にいる人間を助け出そうとしているようだ。こんな時間であるが、人がいた――不謹慎ながら、その光景に加賀屋は胸を撫でおろす。車を少し離れた位置で停め、運転席の窓から顔を出した。


 何か手伝えることがあるかもしれない……。運転席から顔を出して声をかけるまでは、少なくともそんなことを考えていた。けれども、それは大きな間違いだった。


「あの、どうしたんですか?」


 加賀屋が声をかけると同時に、パトカーの周囲にいた人影が一斉に加賀屋のほうへと振り向いた。まるで照らし合わせたかのように、寸分すんぶん違わぬタイミングでだ。開けた窓から車内へと、耳障りな音が流れ込んでくる。いびきのような音だった。


 これはいよいよおかしい。加賀屋がそう思った時には遅かった。パトカーの周囲にいた人影が、加賀屋の車に目がけて駆けてきたのだ。わけが分からないが、本能的に危機を察した加賀屋は、ギアをバックに入れようとするが、しかし手が滑ってニュートラルへとギアを入れてしまう。エンジンがけたたましく空ぶかしの声を上げた。そうこうしている内に、人影のひとつが運転席の窓へとしがみつく。窓から上半身を滑り込ませてきた人物の顔を見て、加賀屋は二重の意味でぎょっとした。


 眼振……加賀屋を見つめる瞳は縦横無尽じゅうおうむじんに動き回り、歯を執拗しつようなまでにすり合わせる口元からは、よだれがだらりと垂れている。それなのにも関わらず、腹の底から器用に、いびきのような音を出していた。

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