【《過去》平成12年4月16日 夜 ―飯田快晴―】1

【1】


 軽トラックに乗り込むと、これまで我慢していた痛みが一気に押し寄せた。恐る恐ると袈裟をめくって横腹を見てみる。頭に巻いていたタオルで圧迫止血を試みたが、どうやら出血が止まる様子はなく、さっきから吐き気がして仕方がない。体から血液が失われつつある典型的な症状だった。


 とっさに芒尾と加賀屋を突き飛ばした時、実は横腹に致命的な一撃を受けていた快晴。おそらく切れ味の良い包丁の類で、思い切り突き刺されたのであろう。その場に転がっていたゴルフクラブで寝訃成は撃退はできたが、しかし快晴の傷口がふさがるわけではなかった。ただ、おかげさまで覚悟を固めることはできた。


 寝訃成の大群がこちらに向かっている時点で、囲まれたら終わりだということは分かっていた。マイクロバスが走れる道を確保しなければならないことも分かっていた。それらを現実のものとするためには、軽トラックを使っての陽動を行わねばならないと考えていた。問題は誰が陽動を行うか――だったのであるが、もはや迷う必要も悩む必要もない。先のない自分がやればいいだけなのだから。


 芒尾達の前で平然を装うのは大変だった。傷口は痛むし、脂汗がじっとりと滲み出た。それでもなんとか堪えて、軽トラックに乗り込むところまではやることができた。後は寝訃成の群勢をできる限り引きつけてやればいい。


 出血は止まらない。それに傷口がとんでもなく熱い。吐き気は酷くなるばかりで、とうとう目が回り始めた。頼むから、寝訃成を引きつけるところまでは体が動いて欲しい。その後はどうなっても構わないから、もう少しだけ言うことを聞いて欲しい。


 快晴は軽トラックのエンジンをかけると、自らの体に鞭を打って軽トラックを発車させた。器用にクラッチを繋ぎつつ、シフトチェンジをしてスピードを確保する。


 旧公民館から少し離れたところで、脇にそれる道へと入った。この道ならば、他に回り込んで先回りできるルートがいくつもある。囮になるにあたって、ここまで誘い込める道はないだろう。先回りされることも、全て快晴の思い描いた通りだった。とにもかくにも、マイクロバスが無事に脱出できるように尽力する。それが命の限りの見えた快晴がやるべきことだった。


 ある程度の距離を走ると、一旦止まって寝訃成共の様子を伺う。この軽トラックは旧公民館から飛び出してきたものだ。そこに生存者全員が乗っていると思い込ませることができれば、こちらの勝ちだ。


 運転席の窓から辺りの様子を慎重に観察する。完全に追いつかれてしまうと、実は乗っているのが瀕死の坊主だけということがバレてしまうかもしれない。だから、ギリギリまで引きつけはするが、こちらの内情は知られないような絶妙な距離を取る必要がある。


「頼みますよ、芒尾さん、先生――。どうか、姫のことを守ってやって下さい」


 基本的に男社会の寺院において、岬の存在は大きかった。決して女性として見ているというわけではなく、寺院の僧侶達にとって、岬は妹というかマスコット的な存在だった。快晴が紀宝寺にやってきた時、まだ岬は小学生だった。女の子とは思えないほどヤンチャで、寺院の僧侶達も色々と手を焼いたものだ。だからこそ、彼女は紀宝寺の人間にとって姫なのだ。


 寺の人間のほとんどが寝訃成になった。守ってやれるのは自分しか残っていなかった。ここまで、自分なりに彼女を守ってきたつもりだが、しかしこれ以上は文字通り体がもたない。芒尾達に託すしかないだろう。


 思っていたよりも背後からやってくる明かりが速い。これはもう少し距離を取らねばならないだろう。快晴はギアを入れると、本当に最期の力を振り絞って、軽トラックを発車させた。もうしばらくしたらクラクションを鳴らそう――寝訃成もうまい具合に引きつけているし、マイクロバスが走り出すタイミングとしてはベストであろう。


 背後の明かりが気になるがゆえに、ルームミラーばかりに視線をやっていたのが良くなかったのか。正直、こんなところで人が道に飛び出してくるなんて思ってもいなかったから、目の前に人影が見えた時には手遅れとなっていた。慌ててブレーキを踏んだものの、鈍い音がフロントガラス越しに響き、そして壊れたマリオネットであるかのごとく、それは地面に転がった。


 車が急停止すると同時に体が揺さぶられ、とうとう快晴はその場に吐いてしまう。それは血で真っ赤な血だった。残された時間は少ない。


 意識が飛んでしまいそうになるのを堪えて、快晴は力の限りハンドルの中央を叩いた。間抜けな音ではあるものの、クラクションが冷たい夜の空気を震わせた。


「行け……。行けぇぇぇぇぇぇぇっ!」


 はるか遠くに見えるマイクロバスの明かり。ゆっくりと走り出すと車内灯が消され、フォグライトの弱々しい明かりがゆっくりと動き出す。何かを轢いてしまったことなんて二の次であり、快晴はマイクロバスの弱々しい明かりが南下するのを、見えなくなるまで見届けた。こちらに引きつけたおかげで、マイクロバスの動きに気づいた寝訃成はいなかったようだ。陽動成功である。後はネタバラしをしてやるだけ。実は自分一人しか軽トラックに乗っていなかったことを明らかにして、声高々に笑ってやろう。それが快晴にできる精一杯の抵抗だった。


 小さく溜め息を漏らし、そこでようやく人を轢いてしまったことを思い出し、フロントガラスの向こうに視線をやる。寝訃成を轢いたのだとばかり思っていたが、ヘッドライトが照らした壊れたマリオネットは、見慣れた制服を着ていて、何よりも髪の色が金だった。


「花……巻君?」


 本格的にめまいが酷くなり、とうとう目がかすみ始める。そんな視界の中で捉えたのは、旧公民館を急に飛び出して姿を消してしまった花巻の姿だった。


 周囲が明かりに取り囲まれつつある。もう、どう足掻いたって助かりそうもない。それなのに、快晴は痛む傷口をおさえながら軽トラックを降り、そして花巻のところへと駆け寄った。軽トラックに轢かれた時に折れてしまったのか、花巻の手首があり得ない方を向いていた。


「花巻君! しっかり!」


 自分でさえ今すぐにでも倒れそうなのに、それでも他人のことが心配になるのは、曲がりなりにも仏に仕える身だからなのか。もし無事であっても、寝訃成に囲まれて逃げ場がないというのに花巻の無事を祈った。


「せっかく決心したのに……こんな半端な感じじゃなくて、死ねるように轢いてくれよ。これじゃ、轢かれ損じゃないか」


 抱き起こした花巻は、まだ意識があるようだ。察するに自ら軽トラックの前に飛び込んだらしい。


「花巻君、どうしてこんなことを! そもそも、なぜ勝手に一人で飛び出したのですか!」


 快晴の言葉に対して、自虐的な笑みを浮かべる花巻。


「あー、その様子じゃまだ分かってないのか。だったらさ、教えてあげるよ。最初から救いなんてなかったってことを」


 どうやら、引きつけていた寝訃成達が到着してしまったらしい。背後から、前方から――それどころか全方位から、車のエンジン音に大きないびき、そして歯ぎしりの合唱が聞こえる。そんな最中、快晴はこれまで生きてきた中でも最大の絶望を知った。花巻の口から語られた事実は、これまでの快晴達のことを全て否定するものだったのだ。


「そんな……もしそれが本当だったとしたら、神も仏もあったもんじゃない」


 快晴の呟きを聞いて、気を狂わせたように笑い出した花巻。彼が咳き込むと、赤い液体が口からこぼれた。


 迫り来るいびきと歯ぎしり。そして、明かされてしまった恐ろしい事実。


 快晴は花巻のことを放り出して地面へと突っ伏した。ここまで気力だけでやってきたことが自分でも分かる。全てが明らかになった今、自分にできることは――緩やかに死ぬことだけなのだ。


 薄れゆく意識の中で、ただただ歯ぎしりといびきの音が大きくなった。

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