5
芒尾は美和子を抱き上げると、ふらふらとバランスを崩しつつも、居間のほうへと連れていった。仏間の光景は美和子には残酷すぎる――。本当ならば自分だけでも精一杯なのだが、芒尾はできる限り美和子を気遣ってやりたかった。義両親を一度に失い、最愛の旦那は例の豹変ぶりを見せた。小柄な美和子一人では抱えきれない最悪の事実だ。
居間に入ると、テーブルの周りにあった座布団を繋げて簡易式の寝床を作り、そこに美和子を寝かせてやる。そして、芒尾自身も倒れ込むように背中を壁に任せて座り込んだ。
――何が起きている。何がどうなって、こんなことになってしまったのか。いくら考えても答えが出てこない問題を、
ふと、美和子の横顔が目に入って、芒尾は頭を抱えた。理由はどうであれ、殺してしまったのだ。無我夢中で、美和子を守るためにはこれより方法がないと信じてやったことだが、いまだに嫌な感触が手に残っている。自分は人を殺したのだ。それも、小さい頃から知っている人間を。
罪悪感が込み上げてくる。あの親あってこの子あり――佐武の両親は、絵に描いたようないい人達だった。時に優しく、そして時に厳しく。悪さをした時は、我が子と隔たりなく叱ってくれたおじさん。こんな山村に住んでいながらアウトドアが趣味で、わざわざ車を走らせて他県の山奥などに、芒尾達を連れて行ってくれた。渓流釣り、キャンプのノウハウ、野草の見分け方――。全ておじさんから教わったことだった。お酒が大好きで、川遊びをする芒尾達をビール片手に眺めていた姿は、今もありありと思い出せる。
大好きだった人を殺してしまった。人を殺すことは禁忌として当たり前のことであるが、芒尾は大切な人を手にかけてしまったのだ。再発したかのように両手が震えだす。
これは果たして、何の罰なのだろうか。家族が豹変して自らに襲いかかり、逃げ込んだ先で人を殺し、豹変してしまった大親友を見た。こんな馬鹿げたことが、あって許されるのか――。
美和子が目を覚ましたら、どう説明すればいいのだろう。仕方がなかったとはいえ、美和子の義父を殺してしまったことを、どう説明すれば許してもらえるだろうか。芒尾は
居間の壁掛け時計が、少しばかり音程の狂った鐘を4回鳴らした。もはや、それにすら体をびくつかせるほど、芒尾の神経はすり減っていた。
目を覚ましたのが午前3時、そして現在が午前4時。わずか1時間しか経過していないというのに、芒尾の周囲は地獄絵図へと変わってしまった。
美和子がうめき声を小さく漏らして、その半身を起こす。芒尾の存在に気付いたのか、半身を起こした状態のまま後退るが、それが芒尾であると気づいたのか、飛びつくようにして胸へと飛び込んできた。なかば放心状態のまま、それを受け止めてやる。
「ダイちゃん……」
美和子は肩を震わせてすすり泣く。本当は芒尾も泣きたかったのであるが、そこはぐっと堪えた。男は常に強くあらねばならない――。佐武のおじさんがよく口にしていた言葉が、芒尾の心の中でリピートされていた。
「美和子、無事か?」
そう言ってから、美和子が額に怪我をしていることを思い出す。こんな大事なことを失念するとは、思っている以上に混乱しているようだ。出血量の割には意識がはっきりしているようで、美和子が小さく頷く。
「美和子、俺……おじさんを」
美和子の傷の手当よりも、優先すべきことが芒尾にはあった。順序が間違っているのは分かっている。けれども、それを伝えないことには美和子のことを直視できない。いつものように接するのが申しわけなくて仕方がない。傷の手当てすらままならないであろう。
「分かってる。分かってるよ。あれは――仕方ないよ」
美和子の中にも、あの瞬間の記憶が残っていたのだろう。思い出したのか、声を上げて泣き出した。
「ごめん……。他に美和子を守る方法が思いつかなかった。後悔してる」
そう言うと、美和子の頭をなでてやる。平々凡々でありながら、幸福な生活を送っていたであろう美和子。これが彼女に対する神の試練だというのであれば、どこまで神は性根が腐っているのだろうか。叶うことならば、ぶん殴りに行きたい。
「ダイちゃんは悪くないよ。きっとダイちゃんが来てくれなかったら、私――死んでたから」
美和子の言葉に、芒尾は旦那のことも伝えようと口を開いた。だが、それは美和子自身も知っていることであろう。わざわざ傷口に塩を塗るような気がして、何も言わずに口を閉じた。芒尾にできることは、美和子が落ち着くまでそばにいてやることだけだった。
「そうだ美和子、傷の手当をしないと」
どれくらいの間、そうしていただろうか。美和子が少し落ち着いたのを見計らって、芒尾は美和子の背中をぽんぽんと叩いた。美和子は芒尾から離れると、少しばかり照れ臭そうな顔をする。下心など一切なかったのであるが、背徳感というか、大親友に申しわけない気持ちになった。そこまで考えが回るようになったのは、きっと芒尾と美和子が平静さを取り戻したからなのであろう。
あれからは特に大きな動きはない。血にまみれた仏間と二階の寝室以外は、何も変わらぬ佐武家だ。もしかしたら二人で悪い夢を見たのかもしれない――。そう思って仏間のほうへと視線を移すが、血の飛び散った障子戸が、夢でもなんでもないことを物語っていた。
「救急箱はどこにある?」
幼馴染であり、しかも親友の妻である美和子。そんな美和子と、理由はどうであれ抱き合う形になってしまっていたのだ。いくら混乱の中であったとしても、下心がなかったとしても、いささか気まずい空気が流れる。それを払拭するかのように、芒尾は救急箱を探すべく居間を物色する。
「
美和子が気まずそうに、茶箪笥の上を指差した。指差した先には、薬売りが各家庭に置いている常備薬箱があった。
芒尾はそれを手に取ると、居間の電気を点けてから、美和子の元へと戻る。あまり電気は点けたくないのだが、こうも暗くては傷の手当もできない。
「ちょっと診せてみろ……」
額に張り付いていた前髪を掻き分け、傷口を確認する。素人だから何とも言えないが、打撲によって出血したわけではなく、そこまで酷い怪我ではなさそうだ。
「お義父さんに押し倒された時に、壁掛けのフックで切っちゃったみたい」
美和子が怪我の経緯を語る。おじさんに押し倒された美和子は、その際にコートなどをかけるためのフックに額を引っ掛けて、切ってしまったようだ。消毒液で患部をぬぐってみると、小さく皮膚が裂けている箇所を確認。消毒液が傷口にしみたのか、美和子は顔をしかめていた。
頭の怪我は小さなものでも大量に出血するため、大怪我のように見えるものだ――とは、加賀屋の受け売りである。どうやら、美和子の怪我は見た目ほどではないらしい。
だが、その裂傷の周囲には内出血をしているらしき箇所も見受けられる。プラスティックハンマーで殴られたものと考えていいだろう。
危険な状態ではないものの、それは芒尾が素人目線で見ているものに過ぎず、頭を殴られたとなれば、傷の様子だけで大丈夫だと判断することはできない。頭をぶつけてから数時間後に死んだ――なんて話は腐るほどある。
「多分大丈夫だけど、念のために直斗に診てもらったほうがいいかもしれない」
ガーゼを額にあてがい、包帯を巻いてやる。頭を包帯でぐるぐる巻きにされた美和子が痛々しかった。恐らく自覚症状はないのであろうが、頭を殴られたということもあってか、美和子は無言で頷いた。
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