2

 旧公民館へと戻る道を、快晴は何度も振り返りながら歩く。おかしい。そもそも、この現象が始まった頃は、時間帯など関係なく、真夜中だろうが明け方だろうが騒がしかった。もちろん、寝訃成がいたるところで徘徊していたからだ。それなのに、今は随分と静かだ。確かに、寝訃成の数は減ったことだろう。でも、ここまで静かになってしまうほど、寝訃成の数が減ったとは思えない。


 暗闇の中から、またしてもいびきが聞こえたような気がした。まるで息を潜めつつ、我慢できずに漏れてしまった吐息のようだった。歯ぎしりのようなものまで聞こえたように思えたのは、さすがに考えすぎなのであろうか。


 全てが気のせいであって欲しかった。快晴の杞憂きゆうに終わって欲しかった。あまりに静かなのは、単純に寝訃成の数が減っただけ。視界が効かなくなる夜を待って、一気に攻め込もうとしているのではないと思いたい。しかし、快晴はその矢先に見てしまった。はるか向こう――役場の辺りに松明の明かりらしきものが揺らめいているのを。そして、車のヘッドライトらしきものが踊ったのを。


 快晴は駆け出した。こうなるであろうことはあらかじめ予測していたはずだった。それなりに対策をしたつもりでいる。けれども、しばらく寝訃成の襲来がなかったせいで、無意識に気が緩んでいたのかもしれない。急いで旧公民館へと戻り、前倒しで脱出の準備をしなければ。


 ふと、闇の中からの気配を察知した快晴は、たまたま街灯の近くだったこともあり、それに気づくことができた。闇を切り裂くかのごとくゴルフクラブが振り下ろされる。ぎりぎりのところで闇からの一撃をかわした快晴は、ゴルフクラブを掴んで思い切り引っ張る。すると、街灯の明かりの下にゴルフクラブと一緒に人影が引っ張り出される。その顔は――快晴の知った顔だった。


「物騒な真似をしてくれますねぇ! 佐武の旦那ぁ!」


 引っ張られた勢いでよろけた寝訃成――貴徳の横顔を思いきり殴りつけ、その隙に再び快晴は走り出す。


 走りながら現状を分析する快晴。多分、この闇夜の中にまぎれて、先行隊とも呼べる寝訃成が、旧公民館を包囲しているのかもしれない。そして、後発隊――はるか遠くに見える不気味な明かりと灯りに合流をし、旧公民館にいる快晴達を一気に叩くつもりでいる可能性がある。そうなる前にマイクロバスで旧公民館を出なければならない。とにもかくにもマイクロバスがやられてしまったら完全にアウトだ。脱出の手立てがなくなる。


 周囲の空気が騒がしいような気がした。まるで、はるか遠くに見えた明かりが合図だったかのように、暗闇の中でずっと息を潜めていた悪意が、音を立てて動き出したらしい。


 旧公民館のほうから鈍い銃声が一発。ふと山村の姿が連想されたが、彼はもうこの世にいない。猟銃を山村から受け継いだ芒尾が、きっと戦いの狼煙のろしを上げたのであろう。


 あぁ、足音が聞こえる。砂利を踏む音が聞こえる。もはや、それが自分の足音なのかさえ分からない。どこから襲われるか分からない恐怖に打ちのめされそうになりながらも、快晴は懸命に走った。


 旧公民館には明かりが点いていた。玄関先でも煌々こうこうと明かりが灯っている。暗がりの中では寝訃成に応戦できないと考えたのだろうか。すでに芒尾の銃弾を食らったのか、仰向けになったまま動かない人影を飛び越えると、玄関先で猟銃を構える芒尾のところに駆け寄る。


「芒尾さん! 何がありました!」


 聞かずとも、玄関先に転がっている死体を見れば分かるが、あえて聞いてみる。快晴が花巻を探している間に襲撃を受けたのであろう。それこそ、貴徳に襲われたのと同じようなタイミングで。


「こいつらが急に襲ってきたんだよ。まぁ、少人数だったから、これで一発だったけど」


 そう言う芒尾の後ろには、恐らく掃除用具の入ったロッカーから引っ張り出したのであろう。デッキブラシを構える加賀屋の姿があった。


「芒尾さん、どうやらこれだけの数では済まなくなりそうです。周囲に潜伏していたであろう寝訃成が動き出したようです。それに、役場のほうにも松明とヘッドライトの明かりが見えました。あれもこっちにやって来るつもりだとすれば、ここは完全に包囲されます」


 芒尾達はまだ、役場のほうから不気味な明かりが迫っていることを知らない。とにもかくにも緊急事態であることを全員に理解してもらう必要があるだろう。


「どうして今になって突然――」


「恐らく、暗くなるのを待っていたのでしょうねぇ。嫌でも視界が悪くなりますし、奇襲も仕掛けやすいですから。残念ながら、私達の居場所も早い段階で気づかれていたのかもしれません。すなわち、あちらさんも馬鹿じゃないってことです」


 快晴は芒尾の言葉に返すと、加賀屋のほうへと視線を移す。


「もうマイクロバスは動かせる状態です。ちょっと前倒しにはなりますが、ここが包囲される前に脱出したい。みなさんに伝えてきて下さい」


 緊迫した空気に飲み込まれぬように気を張っているのだろう。加賀屋は顔を強張らせながら「あぁ、分かった」と公民館の中へと姿を消した。


「太一は……やっぱり見つかりそうにないか」


 帰ってきたのは快晴のみ。それを見て、芒尾は誰に言うでもなく呟き落とした。花巻はどこに姿を消してしまったのか。闇に潜んでいた寝訃成にやられていなければいいが。


「えぇ、どこに行ったのかさっぱりです。どこかで運良く拾ってあげることができれば良いのですが、変な希望は持たないほうがいいかもしれません」


 貴徳と遭遇したことは、あえて黙っておくことにした。それが嫁である美和子に伝わり、彼女が取り乱してしまう可能性が考えられるからだ。ずっとおしどり夫婦をしてきたから、彼女に迷いが生じてしまうリスクだってある。なによりもまず脱出を優先するのであれば、貴徳のことは伏せておくべきだった。


「とりあえず、みんなを連れてきたよ」


 戻ってきた加賀屋に続いて姿を現したのは、岬と美和子だけだ。花巻が飛び出してしまったことにより、またしても人数が減ってしまったが、なんだか物凄く少人数になってしまったような気になった。


「ありがとうございます。それでは姫に美和子さん。説明している暇がなくて申しわけないのですが、早急にここを離れることにしました。慌てる必要はありませんので、マイクロバスに乗って下さい」


 旧公民館の外は不穏な空気が漂っている。この闇の中にどれだけの悪意と殺意が隠れているのか分からない。少なくとも、松明とヘッドライトの明かりが到着してしまったら一巻の終わりだと考えていい。そうなる前にここを脱出したい。


 岬は快晴の指示に従い、マイクロバスのほうへと足を向けた。その岬に続こうと一歩を踏み出した美和子であったが、旧公民館の外の闇へと視線をやって、動きを硬直させてしまう。


「さぁ、後がつかえますから、バスのほうに――」


 美和子を促してみるが、彼女の視線が外の闇一点に集まっているのを見て、快晴は本能的に嫌な予感を抱いた。このような時の予感ばかり、良く当たってしまうものだ。


 芒尾が猟銃を闇に向かって構えた。いびきと歯ぎしりの音が闇の向こうから聞こえたからであろう。まだ後発隊が到着するまで時間がかかるだろうから、潜んでいた先発隊が姿を現したのだと思っていいだろう。玄関先の明かりに照らされたいくつかの人影の中にいた一人の人物に、きっと快晴を除く誰もが驚いたに違いない。


「貴徳――」


 現れたいくつかの人影。その中にまぎれていたのは美和子の旦那である貴徳だったのである。美和子の嬉しそうでもなく、悲しそうでもない無表情な言葉が、いびきと歯ぎしりの音にかき消された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る