5

 加賀屋を呼んだのは自分達であるだけに、自らを悔いる彼の姿には責任を感じてしまう。加賀屋がここへと駆け付けた段階で、彼女はすでに虫の息だったのだ。なんとか蘇生しようと手の限りを尽くしたのだから、誰も加賀屋を責めたりはしない。むしろ、良くやったと褒められるべきだ。ただ、それでは納得できないのが医師という生きものなのであろう。


 加賀屋は血にまみれてしまった白衣の袖をめくると、腕時計に視線を落としてうなだれてしまった。


「午前4時23分。――ご臨終です」


 最期の手向けと言わんばかりに、加賀屋はかすれた声を絞り出した。もう雨は止んでいたが、花巻達の心模様は土砂降りの雨だった。


「な、なぁ……。これって、今すぐに駐在に届けたほうがいいんじゃねぇの?」


 うなだれたまま動かなくなった加賀屋。呆然と立ち尽くすことしかできなかった花巻、石野、加瀬の三人。非日常から始まった非日常の終わりに、ようやく石野が日常では当然のことを口にした。


 どこの誰がとまでは分からないが、彼女――山本の嫁さんとやらは、その誰かに暴行を受けたことで亡くなった。これは立派な殺人であり、当たり前ながら日本の法律でも罰せられるべき重罪である。そして、一般の人間がそのような場面を目撃した時は、まず然るべき機関に届け出るのが義務だ。その然るべき機関が、この村では駐在所にあたる。


「石野君の言う通り、とりあえず駐在所に届け出よう。事実、こうして一人の人間が死んだんだ。このまま放っておくわけには行かない」


 花巻達へと漏らしたというよりも、自分に言い聞かせるかのごとく口を開いた加賀屋は、体を重たそうにして立ち上がる。医者として一人の人間を救えなかったことはショックなのであろうが、事態は感傷に浸るような暇を与えてくれない。加賀屋も動かざるを得なかったのだろう。


「いや、駐在所に行っても無駄かもしれない」


 できることならば胸の奥に仕舞い込んでしまいたかった。ふつふつと湧き上がる不安感は気のせいだと思いたかった。しかし、村の様子から察するに、駐在が機能しているとは思えなかったのだ。


「どうして? 太一、人が一人死んでるんだぜ? しかも事故で死んだんじゃない。誰かに殺されたんだ。お前だって見ただろ?」


 花巻の心情など露も知らぬ石野に、加瀬が乗っかるかのように続く。


「村に人殺しがいるとか、考えただけでも怖いし……」


 随分と好き勝手言ってくれるものだ。花巻は石野と加瀬に若干の無責任さを感じながら反論した。


「お前達は集落に戻ってないから、そんなことが言えるんだよ。上手く説明できないけど、なんか村がおかしいんだ」


「おかしいって……。何がどうおかしいんだ?」


 この村では確実におかしなことが起ころうとしている。いいや、もう起きてしまっていると断言してもいい。石野の言葉に口を開く花巻。


「俺の見間違いならいいけど、さっき先生を呼びに行った時、遠目に【なか屋】が燃えていたのを見たんだ。それに、猟銃の銃声も聞いた。あと、電話を借りに行った家で人が死んでた。それで、その家の人に襲われそうにもなった」


 もはや隠してなどいられなかった。虚勢を張って強がるよりも、今は漠然と花巻の中に広がる不安感の正体を、加賀屋達に知ってもらうことのほうが優先だった。


「確かに、ここに来るまでの間に変な違和感があったような気がする。集落から外れたところを走っていたけど、それでも村が妙に騒がしいというか――」


 やはり加賀屋も村の異変には気づいていたようだ。できる限り集落から離れたところを走ったつもりだが、それでも村の異様な空気は払拭できなかったのであろう。


「あぁ――【なか屋】が燃えているのに、誰も消火活動をしているようには見えなかった。だいたい、こんな真夜中に銃声が聞こえるなんておかしいし、集落の家には、こんな時間なのに明かりが灯ってた。変に村も騒がしい。これだけのことが起こってるんだから、きっと駐在さんも駐在所にはいないと思う」


 村ではあらゆる異変が起きている。それこそ、普段は事件とは無縁の村の駐在さんだけでは対処しきれないであろう事態が起きているのだ。ゆえに駐在所に行ったところで無駄骨だと思った。何よりも村に戻る気にはなれなかった。


「この平和な村で殺人が起きる時点で異常だ。それに加えて花巻君の話を聞く限りじゃ、どうにもこれはただごとじゃない。ちょっと僕が一人で様子を見てくるよ」


 加賀屋はそう言うと、さっき息を引き取ったばかりの女性が乗り捨てた車のほうへと視線を移して、独りごちる。


「飲酒運転なんて気にしている場合じゃないか……」


 今は緊急事態であり、ルールを守っている場合ではないと判断したのか。変なところで真面目な加賀屋は、しかしそのまま車へと視線を移しつつ口を開く。


「花巻君の忠告を受け入れて、駐在所は後回しにしよう。とりあえず医院に戻るよ。仕事柄の都合で、医院に置きっぱなしなんだけど携帯電話を持っているんだ。それで村の外に助けを求めてみる。南部寄りまで行けば電波が入るはずだから」


 当時、携帯電話は高価なものであり、まだ広く普及しておらず、電波が入らない場所も多かった。花巻達のような高校生が当たり前のように携帯電話を持つようになるのは、もう少し先の話だ。


「万が一を考えて、君達はそこの作業小屋に隠れていればいい。すぐに戻るから、待っていてくれ」


 続けて言うと、加賀屋は花巻達の返事も聞かずに車へと乗り込む。花巻達の目の前で車を転回させると、加賀屋の乗った車のテールランプは、村のほうへと吸い込まれて消えた。


「洋二、裕太。先生に言われた通り隠れよう。なんか良く分からないけど、嫌な予感がするんだ」


 花巻が促すと、加瀬が少しばかり困ったような顔をする。その視線は、努力もむなしく亡くなってしまった女性の遺体へと向けられていた。


「え、でも――」


 このまま彼女を放置しておくのは忍びないとでも言いたいのだろうか。まぁ、加瀬らしいといえば加瀬らしい思考ではあるが。


「俺達にはどうにもできないだろうが――。今度は紀宝寺の住職でも連れてくるか?」


 昔から石野は物事を割り切るのが早い。殺人現場を目撃してから小一時間くらいしか経っていないが、随分とあっけらかんとしている。ある意味で羨ましいが、冷たいような気もする。切り替えが早いのは石野の良いところであり、また悪いところでもあった。もっとも、ただ強がっているだけということもあり得るが。


「いや、そうじゃないけど……」


 石野に正論を突き付けられ、加瀬は口ごもらせた。そんな加瀬を見て、少しばかり感覚が麻痺していることに気づかされる花巻。精神的な均衡を保つための自己防衛機能なのかもしれないが、徐々に遺体を見ることに慣れてきている自分がいる。この面子の中では、加瀬が一番まともなのかもしれない。


「とにかく、先生が帰ってくるのを待とう。俺達の知らないところで、何かおかしなことが起きているのは間違いないんだ」


 石野と加瀬を作業小屋のほうへと促す。村の異常さを肌で感じていた花巻は、一刻も早くどこかへと隠れてしまいたかった。女性の遺体をそのままにしておくことに抵抗を感じているような加瀬。あっけらかんとした態度が強がりのようにしか見えなくなってきた石野。女性にしてやれることもないため、三人は作業小屋の中へと戻る。


 作業小屋の中を照らすアルコールランプの灯り。ほとんど手付かずのグラスと、半分ばかりになってしまったブランデーのボトルが、三人を出迎えた。ほんの少し前まで、ここはいつもと変わらぬ隠れ家だった。まさか、それが文字通りの隠れ家になるとは思いも寄らなかった。


 作業小屋の扉を閉めると、花巻は大きな溜め息を漏らす。加瀬は相変わらず不安そうな表情を浮かべ、石野は少し口をつけただけだったブランデーのグラスを傾けて咳き込んだ。気持ちを切り替えたわけではなく、やはり強がっているだけのようだ。しかし、こんな状況だからこそ、それが虚勢であっても心強く感じられた。


 いつもと変わらないはずだった日常。遊びではなく本当のものとなってしまった隠れ家。アルコールランプの灯りが限られた空間で花巻達ができることは、加賀屋の帰りを待つことだけだ――。

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