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村の大人達と違って、花巻はどの家にどんな人が住んでいるのか知らない。把握しているのは近所と同級生の家くらいだ。そんな花巻からすれば、知らない家の門戸を叩くのは、かなりの度胸を要するものだった。
電話を貸して貰うだけの理由はあるものの、こんな時間に人の家の門戸を叩くのは、あまり良い気分はしない。家の中に明かりが点いているから、家人も起きているのだろうが。
何度も呼びかけるが返事はない。インターフォンらしきものも見当たらなかった。駄目元で手をかけてみると、玄関はあっさりと開いてしまった。
家の中には明らかに人の気配が漂っている。深夜のラジオ放送の音が玄関先まで響いており、奥の居間からは物音が聞こえていた。もう一度だけ中に向かって声をかける。無人の玄関先は静まり返っていた。返事がないことに首を傾げた花巻は、玄関のすぐ近くに電話台があることに気づく。
こんな深夜に、無断で人の家に上がり込むことは、当然ながら悪いことであり非常識だ。けれども、どうにも状況がおかしい。それに、他の家の門戸の前で同じことを繰り返すのは嫌だった。ほんの少しの間だし、家の人は出てこないし、勝手に電話を借りてしまおう。緊急時だから仕方がない。
「おじゃましまーす……」
あえて奥の居間には聞こえないように断りを入れると、花巻は靴を脱がない代わりに、膝をついて家の中へと上がる。靴を脱いだり履いたりしている間に、家人に見つかってしまうかもしれない。別に事情を話せばそれで済むのであろうが、今の花巻には靴を脱ぐ時間さえ惜しかった。見つかったら逃げ出すつもりでいた。
両膝を交互に床へとつきながら、器用に黒電話のところまでやってきた花巻は、奥の居間の様子を伺いながら、受話器へと手を伸ばした。そのまま救急車を呼ぶためにダイヤルしてみるが、受話器の向こう側は、うんともすんとも言わない。受話器を元に戻して、もう一度同じ手順を踏んでみるが、どうやら電話線が切れてしまっているようだ。念のために自分の家の番号をダイヤルしてみたが、結果は同じだった。
どうやら完全に無駄足だったようだ。電話を諦めた花巻は、膝をついたまま後退して、家を後にしようとした。その時、予期もしなかった事態にでくわした。
居間の襖が勢い良く開いた。それと同時に深夜のラジオにかき消されていた音が、一斉に情報として花巻の耳に飛び込んでくる。いびきと歯ぎしりだった。
この家の人間なのであろうか。歳は花巻の父親と同じくらいで、やや太り気味の男が襖の向こうにいた。花巻を捉えているであろう眼球は、例の女性のように慌ただしく上下左右に動いており、口からはいびきの後に混じって歯ぎしりの音がする。
「ど、どうも――。こんばんわ」
床に膝をついたまま、とりあえず会釈をした花巻であったが、その際に見てはいけないものを見てしまう。手に握られている血にまみれた草刈り鎌を。そして、居間の奥に見つけてしまう。テレビ台に背中を預けて両足を前にも投げ出している寝間着姿の女性を――特に何度も刺されたのか、左胸の辺りが真っ赤に染まっていた。その虚空に向けられた眼に生気は無かった。
「郵便だったら、そこに置いといてー」
草刈り鎌を片手に呟かれた一言は、あまりにも現状からかけ離れたものであり、思わず花巻は首を傾げた。しかし、家人が鎌を構えたまま足を大きく一歩踏み出した瞬間、花巻は身の危険を察知して立ち上がる。もし立ち上がるのがもう少し遅ければ、なぎ払われた鎌が直撃していたに違いない。
これまで肌で村の異変には気づいていた。そして、明確な悪意を――危害を加えられたことにより、それは確たるものになった。体の底から一気に恐怖が駆けのぼってきた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!」
自分でも驚くほどの情けない声が出た。どう考えたってこの状況は普通ではない。事切れたと思われる女性に、草刈り鎌を振り回す男。花巻は一目散に逃げ出した。いや、これで勇敢にも立ち向かえる人間なんていないだろう。
転がるようにして外へと飛び出した。追いかけて来ないか玄関先のほうを確認しながらバイクに飛び乗り、非現実的な空間から離脱した。道中、何度も後ろを振り返ったが、真っ暗闇の中に点在する外灯が追いかけてくるだけだった。
「……もうわけが分かんねぇよ」
全身の毛穴という毛穴が総毛立ち、心の臓はどくどくと早鐘を鳴らしている。一刻も早く、加賀屋達の元へと戻りたい。もはや、当初の目的など遠の昔に忘れ置いてしまっていた。
やっぱり何かがおかしい。全貌は全く見えていないが、この村での歯車が狂い始めていることだけは間違いない。
地面がぬかるんでいようが、泥が飛んでバイクが汚れようが、お構いなしだった。花巻はハンドルがもげてしまうほどの力でスロットルを握り込んでいた。
同じ道程を、これほどまでに往復したことはなかったように思う。ただ幸いなことに、ここから作業小屋は目と鼻の先だ。すぐに乗り捨てられた車が見えてくる。その脇をすり抜けると、花巻は作業小屋のほうへとヘッドライトを当てた。
石野達が
「太一! 救急車は?」
石野にどう答えていいものかと迷った花巻は、とりあえず家であったことは伏せて、電話の件だけを話す。
「近くの家に電話を借りたんだけど繋がらなかったんだ!」
加賀屋は花巻の到着にすら気付かない様子で、一心不乱に心臓マッサージを繰り返していた。ぶつぶつと数字を数えながら、力の限り女性の胸元へと全体重をかける。そして、カウントをやめると、おもむろに女性へと顔を近づけて人口呼吸。鼻をつまんで息を思い切り吹き込んだ。その時だけ、女性の胸元が盛り上がるのだが、すぐにしぼんだまま動かなくなる。自発的に息をしていないことは明らかで、加賀屋が心臓マッサージを繰り返している時点で、すでに心臓は止まってしまっているのだろう。
石野と加瀬は、そんな加賀屋の尋常ではない様子に、何もできずに
石野、加瀬――そこに花巻が加わってからも、加賀屋の懸命なる応急処置は続けられた。
どれくらいの間、加賀屋の医師としての悪あがきが続いただろうか。ようやく手を止めて立ち上がった加賀屋は、しかし女性から離れるとすぐに膝から崩れ落ち、悔しそうに自らの
「くそっ! くそっ! くそっ!」
救えなかった――。そんな無念が、まるで自分を叱責するような加賀屋から伝わってくる。素人目に見ても、彼女は助からなかった。仮に、加賀屋医院に設備が整っていたとしても、救急車をスムーズに呼ぶことができたとしても、彼女の末路は同じだったに違いない。だが、目の前の苦しんでいる人を救えなかった事実に違いはない。それが医師として許せなかったのであろう。
「せ、先生は良くやってくれたよ。な?」
どうしていいのか分からない様子の石野が話を振ると、加瀬は小さく頷いた。
「そうだ。先生は悪くないと思う」
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