【《現在》平成27年4月某日 午前中 ―私―】1
「――お腹空いた」
某出版会社A社へ原稿の持ち込みをした私。対面に座って原稿に目を通していた彼女が久々に顔を上げて発した一言がそれだった。腕時計に視線を落としてみると、まだ午前10時半。私がよほど呆気にとられたような顔をしたのか、彼女はさらに続ける。
「だってぇ、山さんがスガヤドン、スガヤドンって連呼するものですから――。ほら、カツ丼とか天丼とかネギトロ丼とかが連想されるわけで。とりあえず、花巻君達が加賀屋先生の帰りを待つところまで読みましたけど、今のところの感想はアレです。お腹空いた――です」
それは彼女の主観的な欲求なのではないか。そうは思ったが、私は苦笑いを浮かべるに留めておいた。これは偏見でもなんでもなく、実際に経験したから言えることだが、どうにも本の編集担当というのは少し変――もとい、個性的な方が多い。これもまた彼女の個性であると自分に言い聞かせた。門前払いで終わらず、しっかり目の前で作品を読んでもらっているだけありがたいと思わねばならない。もっとも、何をするでもなく読み終えるのを待たされるというのもどうかと思うが。
「ちなみに、この花巻君達は実在する人物なのですかね? もしそうだと、いざ出版となった時に色々面倒でして。やれ、コンプライアンスだとか、個人情報がどうとかとうるさい時代ですので」
個性的であっても、さすがは編集担当者。物語のおさえるべきところは分かっているらしい。それに、出版に関するしがらみも。
「花巻、石野、加瀬とは、本当の兄弟のように仲が良かった。子どもの頃から毎日のように私の家に来ていたものですよ――。作品のネタバレになりますから明言は避けますけど、恐らく本人達の名前を出しても問題にはならないかと。これで察していただけるとありがたい」
私が含みを持たせた言葉の意味。果たして彼女――彩香さんはどのように受け取ったのか。とりあえず原稿をかたわらに置くと立ち上がる。
「分かりました。あえて深くは聞かないでおきましょう。それはともかく、財布とか持ってきますので、ちょっと待ってて下さい」
彩香さんはそう言うと編集部のデスク群の中へと姿を消した。さっきから空腹を訴えていたが、まさか今から食べに出るとか言い出すのだろうか。そんなことを考えつつ待っていると、小さなバッグを持った彩香さんが戻ってきた。
「お待たせしました。それではスガヤドンさん。参りましょう」
ごく当たり前であるかのように
「あの、どこに行かれるでしょうか?」
もはや編集部を出る直前まで行っていた彩香さんは、振り返って首を大きく傾げた。
「ですから、お腹が空いたと言っているでしょう? このビルの一階に丼物専門店がありますから、そちらに参りましょう。さぁ、スガヤドンさん。急ぎますよ!」
彼女の言葉に、私は改めて腕時計を見た。やはり時間は午前10時半を回ったばかり。昼食にするには早い気がする。
「は、はぁ……」
彼女の変なペースというべきか、独特の雰囲気に飲み込まれてしまっている自分がいた。仕方がなく彼女の後に続いて編集部を後にすると、彼女と一緒にエレベーターに乗った。
飲酒運転を助長させるような表現がある――エレベーターの中で指摘されたが、物語の舞台となっているのは平成12年であり、残念なことに飲酒運転が今より厳罰化されていなかった時代だ。そこまでリアリティーを追求するつもりはないが、大悪党が車に乗る際、ものすごく悪いやつなのに律儀に法律を守ってシートベルトをしたら、それこそ興醒めではないかと私は思う。そして、それをフィクションだと捉えず、すぐに有識者とやらから批判の声が上がるのも困ったところだ。確かに色々とうるさい世の中ではあるが、演出としてのリアリティーは必要だと私は思う。ゆえに、彼女の指摘もそこそこに相槌を打つに留めておいた。私は伝えたいことがあって作品を書くのであって、世の中の人々のご機嫌を伺うために作品を書いているのではない。
エレベーターを降りると、彼女の後に続いて廊下を何度か折れ曲がる。ここに毎日のように通っている人からすれば、ごくごく普通なのであろうが、田舎者の私から見れば、ここは迷宮のようである。なんとか彩香さんの姿を見失わぬようについて行くと、辺りの雰囲気が急に飲食店街へと変わった。オフィスビルの中に飲食店街とは――もしかすると、このビルの中で衣食住が全て完結してしまうかもしれない。思っていた以上に都会は恐ろしいようだ。
「――ここです」
彩香さんが立ち止まったのは【THE VARIOUS DONE】という看板が掲げられた店だった。確か【VARIOUS】という英単語は【色々】という意味合いがあり、恐らくは丼と【DONE】をかけて【色々な丼】という意味合いにしたかったのであろうが、残念なことに直訳すると【色々と終わっている】である。ショーケースにはレプリカの丼がここぞとばかり並んでいた。店名はどうであれ、どうやら丼物専門店というものは実在するらしい。
彼女に連れられて暖簾をくぐると、小ぢんまりとした店内が出迎えてくれた。どうやらカウンター席しかないようだった。まだ時間が時間ということもあってか、お客さんの姿はない。
「はい、いらっしゃっい! おぅ、福光ちゃん! もうオヤツの時間か?」
私達の来店の気配を察してか、白の割烹着を着た年配の人がカウンターから顔を出した。多分、店主であろう。ぱっと見た感じ陽気そうな人だ。
「えぇ、わたくし女子力高めですので、この時間のスイーツは欠かせないのです」
これは俗にいうフリというやつなのであろうか。私がその滑稽な部分を指摘する――すなわち、ツッコミ待ちというやつなのか。これが都会人のノリだとしたら、絶対に私は都会で生きてはいけない。
「あの、すいません。スイーツって……」
私の聞き間違いかもしれない。そう考えて聞き直してみたのだが、彼女の口からは「ここの丼物のことですけど」と、あっさりした感じで返ってきた。カレーや麻婆豆腐を飲み物だという人はいたが、丼物をスイーツだと言い切ったのは彼女が初めてだ。昼食ではなくオヤツを食べに来たらしい。
「じゃあ大将。今日は【家族もろとも皆殺し丼】で」
「ちょっと福光ちゃん! あのさ――【親子丼】のことをそういう物騒な例えかたしないでくれる? 今は他のお客さんいないからいいけど、絶対に他のお客さんいるところではやめてね!」
彩香さんがそう言うなり、困った顔でカットインする大将。やり取りを見ている限り、彼女はきっと常連さんなのであろう。
「で、そちらさんの注文は?」
大将はそう言うと私のほうへと視線をくれてきた。まだメニューが決まっていないどころか席にすら座っていない私を見て、彩香さんが「スガヤドンです」と、これまたまぎらわしいことを口にする。私は確かにスガヤドンではあるが、大将が聞きたかったのは私の分の注文だったに違いない。案の定、大将は眉をひそめる。
「うちのメニューにそんなもんは――」
「ちょ、ちょっと待ってください。今、決めますから」
大将の言葉を遮った私は、慌てて彩香さんの左隣に座るとメニューを手に取る。とっさのことで考えもしなかったが、歳が離れているとはいえ異性の私が、なんの断りもなく彼女の隣に座っても良かったのだろうか。独り者が長いと、このような変な部分で気を遣ってしまうのだが、彩香さんは全く気にしていないようだった。
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