【《過去》平成12年4月16日 夜半 ―芒尾大輔―】1

【1】


 ふと、目を覚ました。暗闇に混じる静寂と、少し弱まったようだが、屋根に叩きつけられる雨の音。辺りはまだ真っ暗であり、こちらに帰って来て間もない芒尾は、一瞬どこにいるのか掌握できなかった。


 ここは実家の自分の部屋だ。積み上げられた段ボールのシルエットを見て、それに気づいた芒尾は、尿意と喉の渇きで目が覚めてしまったことに溜め息を漏らした。摂取と排泄を同時に欲するとは、贅沢な体だ。


 あの後、一人だけ方向の違う加賀屋を先に見送り、中町夫妻に再三の礼を言ってから、家が近所同士の芒尾と佐武夫妻は歩いて帰ることにした。ぽつりぽつりと小雨が降っていたが、酔っ払って火照った体には、その雨が心地よく思えた。


 芒尾自身も酔ってはいたが、佐武夫妻のほうがかなり泥酔しており、家まで連れて帰るのに一苦労だった。佐武夫妻の家は藤宮商店の裏手にあり、芒尾の家は商店の真ん前だ。二人をなんとか家に連れて帰ると、そこで雨足が強くなった。同居している佐武の両親は、とっくの昔に寝ていたのであろう。家はひっそりと静まり返っていた。


 美和子から傘を借り、藤宮商店の前までやってきたら、なぜだか電話がかかってきて、どこの誰かも分からない人間から寝訃成がどうとやらと聞かされ――あの奇妙なやり取りは、酔っていたがゆえに見た夢だったのだろうか。


 ゆっくりと上半身を起こすと、延長コードで継ぎ足してある電気紐を探す。頭が心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛んだ。ふわふわとした浮遊感もいまだに残っている。俗にいう二日酔いというやつだ。


 電気紐を手探りで見つけ、それを引っ張ろうとした時のことだった。雨音に混じって、甲高い動物の鳴き声のようなものを聞いた気がした。


 窓際のほうへと視線を移す。濡れたまま吊るしてあった衣服が人間のシルエットを作り、一瞬ぞっとする。それが自分の衣服であることに思い当たり、芒尾は軋む体を動かして窓際へ。


 そっと窓を開けて外を眺めてみる。外灯に照らされた藤宮商店が雨に打たれているだけだった。ふと、公衆電話が目に入って、改めて電話のことを思い出す。それを振り払うようにして部屋の電気を点けると、芒尾は下の階へ向かった。


 階段のところまでやってきて、居間から明かりが漏れていることに気づく。玄関から入ってすぐの居間である。


 まだ辺りは暗いのであるが、もう誰かが起きているのだろうか――。芒尾は階段を軋ませながら階段を降りた。


 居間の前を通ってトイレに向かう。障子越しに人の影が見えた。しかも、中からは大きないびきが聞こえている。誰かがわざわざ居間に降りてきて、また寝入ってしまっているようだ。寝室に戻って寝直せば良いものを。電気代がもったいない――。


 トイレで長い用を足すと、いまだに覚束おぼつかない足取りでトイレを後にする。そのまま、またしても居間の前を通り過ぎて台所へ向かった。電気を点けてシンクの蛇口をひねると、直接口をつけた。体の中にあった枯渇感から解放される。


 台所の時計に目をやると、まだ午前3時を回ったところだった。起きるには早い時間であるし、何よりも倦怠感が酷かった。電気を消して台所を後にする。日付が変わって4月16日は日曜日。それに、芒尾は地元に帰ってきたばかりで就職活動すらしていない。ゆっくり寝ていても文句は言われないし、楽しい酒が飲めたのだ。少し寝坊をこいてもバチはあたらない。


 その前に、せめて居間の電気くらいは消してから戻るべきだ。大方、目が覚めた両親のどちらかが居間へと降りてきたが、再び居間で寝入ってしまったのであろう。布団の中よりも、いまだに仕舞い損ねているコタツの中のほうが気持ち良いのは、芒尾も知っている。


 居間へと向かい、芒尾が障子戸に手をかけようとした時のことだった。障子戸越しの影が大きくなり、芒尾が手をかけるより先に障子戸が勢い良く開いた。とっさに飛び退く芒尾。


「お、おはよう……」


 そこには芒尾の母が立っていた。反射的に朝の挨拶をするが、どうも母の様子がおかしい。体を前後左右に揺らしながら、虚ろな瞳はせわしなく動き続けている。表情は無表情そのもので、どちらかといえば色黒な母の顔色は、逆光になっているにも関わらず白く見えた。


 何よりも奇妙だったのは、母が歯を強く噛み合わせて歯ぎしりをしている光景だった。ぎり、ぎり、ぎり――。芒尾を見上げながら、無表情で歯ぎしりをする母の姿は異様だった。眼球が動き回っているからなおさら不気味に見えたのかもしれない。


「お、お袋?」


 声をかけるが反応はない。居間の中からは相変わらず、いびきのような音が一定の間隔で聞こえていた。


 何かがおかしい――。あの時の電話でのやり取りが脳裏をよぎる。まず、家族を確認しろ、そして万が一にも家族が寝訃成になっていたら殺せ。


 寝訃成という言葉が、果たして何を指しているのかは分からないままだが、あの時の物騒なやり取りが、やけに現実味を帯びてくる。


「大輔、明日――死ぬの? だったら今日はおやつ抜きね」


 母がようやく口を開くが、その意味不明な発言を聞いて、芒尾はさらに後退った。しかも、何度も録音の上書きを繰り返して伸びてしまったカセットテープのように、ゆっくりと間延びした低い声。少なくとも芒尾の知っている母親の声ではなかった。


 次の瞬間、母を押し退けて、もうひとつの影が居間から飛び出して来た。その影が芒尾のほうへと踏み込んで何かを振りかぶる。


 本能的に危険を察知して、とっさに横へと飛んだ芒尾。そのコンマ数秒後に、芒尾のいた場所へと重たいものが振り下ろされた。廊下にそれが突き刺さり、飛び散った細かい木片が居間から漏れる明かりの中で舞う。


 何が一体どうなっているのか。混乱の中で必死に頭を回転させる。しかし、まだ半分酔っているような頭では、どうしても合点のいく答えが見つからない。いや、きっとシラフの時でさえ、目の前で起きていることを納得できるように解釈するのは難しい。


 居間の明かりが反射したことで、打ち下ろされたのが小型の斧だったことが分かる。派手に床へとめり込んでしまったのか、振り下ろした人物――芒尾の父は、それを抜こうと腰を落とす。


 少しでも反応が遅れていたら、斧がめり込んだのは床ではなく自分だった……。当然、斧が直撃していたら死んでいただろう。


「親父まで、どうしたんだよ……」


 歯ぎしりといびき――芒尾の問いかけには応じず、返ってくるのは、ただそれだけ。居間の中に戻り、障子戸から顔を半分だけ覗かせて歯ぎしりをしている母と、大きないびきをかきながら斧を床から抜こうとする父。


 芒尾の家庭は、決して裕福とはいえないものの、ごくごくありふれたものだった。地元の工務店に勤める父と、役場に勤めていた母。


 父は無口であるものの、芒尾の自主性を尊重してくれる人だった。小さい頃は人並みにどこかへと連れて行ってもらったし、キャッチボールだってした。母は三歩後から父について行くようなタイプで、優しくて家庭的な人だ。


 田舎なら仕事もある。母さんも秋紀も喜ぶ――帰郷する前に電話をかけた時、大学まで出たのにその日暮らしをしていた芒尾を責めることもなく、父はただそう言ってくれた。帰ってきた日は、芒尾の好物ばかりがテーブルに並んだ。母が張り切って作ってくれたものだった。そんな父が、母が、どうしてこんなことをするのか理解できなかった。


 床の板が音を立てて割れる。斧が床から抜けてしまった。すかさず父は斧を振り上げ、上下左右へと眼球が動き続ける眼を向けてくる。

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