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 ――メルトモニナロウヨ。


 そのメッセージに脱力した。メル友とはポケベルのメール友達の略であり、ランダムな番号にメッセージを飛ばし、見ず知らずの人とメールだけの友達になるということが流行っていた。つまり、まだ夜も明けきらぬ時間帯に、たまたまどこかの誰かが加賀屋のポケベルにメッセージを送ってきたのだ。送った本人はランダムに番号を打ち込んだのであろうし、まさかそれがポケベルの持ち主のピンチを救ったなどとは思ってもいないだろう。溜め息を漏らしながらポケベルをポケットへ。


 ――駐在は機能していないことが明らかになった。やはり助けを呼ぶには外部と連絡を取るしかなさそうだ。医院に戻れば携帯電話がある。携帯電話があれば外部に助けを求められるだろう。それに、医院脇のガレージには、加賀屋の車もある。現状から察するに、加賀屋医院に戻るのが最善だ。


 花巻達のところに戻るにも、村から国道へと出るにも、車がなければ話にならない。不穏な空気の漂う集落の中に飛び込むのは嫌だが、一度医院まで戻って車を取ってくるべき。幸いなことに医院は、脇道から向かえばほとんど集落を通らずに済む位置にある。


 村がおかしくなっていることは身をもって理解した。車を取りに戻り、携帯電話で外部に助けを要請し、西部の集落を抜けて花巻達を迎えに行く。この状況下で加賀屋がやるべきこと――やれることは、その程度だった。


 加賀屋を襲ってきた連中は、明らかに普通ではなかった。狂気を宿しているというか、隠しきれないほどの殺意を持っていた。そもそも、幼い頃から現在まで付き合いのある貴徳が、問答無用で襲いかかってくるわけがない。しかも殺意をむき出しにしてだ。


 医院にかかってきた奇妙な電話のことも気になる。あの切羽詰まった相手の様子は、悪戯などではないだろう。常識では考えられない異常な事態が発生している。現実主義である加賀屋でさえ、そう考えざるを得なかった。別人のように豹変ひょうへんした貴徳と村人の姿を、常識などというものだけで判断したくなかった。


 加賀屋は医院へと向かって歩き出した。役場前の交差点を避け、田んぼが広がる砂利道のほうへと折れる。朝の様相を見せ始めた村。周囲は田園に囲まれ、遠くの集落まで見渡すことができた。殺伐とした空気が漂う集落方面を、可能な限り見ないようにしながら、加賀屋は砂利を踏みしめる。


 ――他のみんなは無事なのだろうか。変わり果ててしまった村の雰囲気に、そんなことを考えてしまう。


 都会から帰ってきた芒尾。貴徳の妻である美和子。そして【なか屋】の大将である中町と、その妻の真美さん。貴徳の豹変ぶりを見ているだけに心配になった。花巻達はとりあえず無事であるが、早く戻ってやるに越したことはないだろう。


 学校に行くために毎日歩いた距離が、今となっては随分と長く感じる。大人になって移動手段が徒歩から車へとシフトしたせいなのか。それとも、状況が状況だからなのか。加賀屋は息を切らせながら、ようやく目印の地蔵があるところまでやってきた。ここを曲がれば、医院はすぐそこである。


 これまで見ないようにしてきたつもりだった集落のほうへと、ふと視線が行ってしまった。それはもしかすると、一種の虫の知らせのようなものだったのか。視線の先には黒焦げになった造形物――元は【なか屋】だったものの慣れ果てが映っていた。


 中町夫妻は無事なのだろうか。自身が体験した非現実的な出来事が、ありありと現実感を伴って不安と化す。あれは夢でもなんでもない。ましてや酩酊めいていした脳が見せた幻影でもない。間違いなく事実なのだ。これまで経験したことのないような現象が、この村では起こっている。


 成れ果てた【なか屋】に向かいたい気持ちをおさえ、加賀屋は地蔵の角を曲る。真っ直ぐに進めば東部の奥の集落であり、加賀屋医院の近くへと出る。今自分がやるべきことは――村のためにできることは【なか屋】に友人の無事を確かめに行くことではない。一刻も早く助けを呼ぶことだ。自分に何度も言い聞かせた。


 相変わらず空気は冷たい。太陽が顔を出しても、すぐに分厚い雲に覆われてしまう。加賀屋の体をなでるようにして風が吹き、道端に群生する雑草を揺らす。山々の向こう側には暗雲が広がり、こちらのほうへと向かってくるようだ。加賀屋の心情と同じく、今日も天気はすぐれないようだ。


 集落に近づく度に、慌ただしい朝の気配が漂ってくる。しかし、それは朝食を準備している気配ではないし、仕事へと出かける前の雰囲気でもない。朝食の匂いは焼け焦げた木々の匂いへとすり替えられ、聞こえてくる騒がしさは不吉な空気をまとっている。そもそも、今日は日曜日であり、こんな早朝から騒がしいほうがおかしいのだ。


 加賀屋は歩く速度をゆるめ、心なしか身を低くして集落のほうへと向かう。もし、村の大半の人達が貴徳のようになっていたらどうしよう。身を守るには応戦するしかないのであろうが、果たして自分にそんなことができるのか。医師の使命とは全く真逆の行為を。


 外気は冷たいはずなのに、背中と脇に汗をかいていた。さすがに着る気にならなかった、汚れた白衣で額をぬぐうと、べったりとした汗が付着した。これを脂汗というのであろう。


 医院へと向かわねばならない。けれども、できることならば集落へと入りたくない。そんなジレンマを抱えつつも、加賀屋は集落の入り口までたどり着いてしまった。両脇に建っている古い家屋の間を抜ければ、東部に伸びるメイン道路である。


 加賀屋は家屋の壁へと張り付き、医院のほうを確認する。人の気配はないようだが、どこからかざわめくような音が聞こえる。医院の目の前には、フロントガラスがなくなったトラックが停まっていた。


「あれは確か、山さんのトラック……」


 新車を買った――。そう言って自慢気に見せられたトラックが、購入して間もないというのに、フロントガラスがなくなった状態で停まっている。タイヤは泥まみれであるし、荷台には血痕らしきものが飛び散っているのが見えた。間違っても、赤色のペンキをぶちまけたわけではないだろう。


 加賀屋は周囲を充分に伺いながら、トラックまで駆け寄った。一悶着ひともんちゃくあったかのような姿をしたトラックには、しかし誰も乗ってはいなかった。


 荷台越しに医院の扉がわずかに開いているのが見えた。それを見て加賀屋は、医院の施錠を忘れていたことに気づく。花巻に呼ばれて外に出た際に、医院の鍵をかけずに出てきてしまったのだ。防犯意識が低く、実際に玄関に施錠などしなくとも何も起こらない平和な村であっても、これまで医院の施錠を忘れるなんてことはなかった。酒が入っているのもあったが、やはり花巻の様子につられて加賀屋自身も慌てていたのであろう。


 山村のトラック。そして施錠は忘れたものの、出る時には確実に閉めたはずの扉が開いている。しかも、扉の内側にかけられたカーテンは全開になっていた。つまりは誰かが医院に侵入した――。こうして山村のトラックが停まっているということは、彼が加賀屋を訪ねてきたのだろうか。


 不安と期待が入り混じる中、加賀屋は身を低くしてトラックの陰に隠れるようにしながら、医院の玄関へと近付く。


 山村はどちら側なのだろうか。それによっては、加賀屋の行動も変わってくる。もしも貴徳のような状態になっているのならば、すぐにでも車に乗り込んで、ここを離れたほうがいい。しかし、加賀屋と同じように、この村の空気に戸惑っている側であるのならば、是非とも力を貸して欲しい。

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