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 恐る恐ると銃口を外に向けて散弾銃の底を持つと、芒尾はルームミラーの柄を手で掴んだ。そのままダッシュボードの上に足をかけ、柄を掴んだ手を軸に体を反転させる。ガラスを割ったフロントから外に出て、進行方向とは逆を向いた形だ。


「足を肩幅に開いて銃底を肩につけろ。頬もつければ安定するが、そこまでやっている暇はないだろう。屋根を三脚代わりにして安定させればいい」


 ルームミラーの柄に掴まったまま、体を車外へと出した芒尾に、山村からのアドバイスが飛ばされる。もう一方の手に持っていた散弾銃を、トラックの屋根の上へと持ち上げる芒尾。


 安全に射撃できる状況。それを作り出すために、芒尾はトラックの運転席自体をバリケードとすることを思いついた。フロントガラスを割り、そこから外に出て、屋根越しにパトカーを狙う算段なのだ。運転席と助手席の窓からの射撃は警戒されているが、まさか屋根の上から射撃されるとは、あちらも思っていないだろう。そのためにフロントガラスを割り、外に出るためのスペースと、足をかける場所を確保したのだ。後は屋根から頭を出し、散弾銃を構えるだけ。


 走行しているトラックの、しかもかなり足場の悪いところでの射撃である。足を踏み外せば地面へと落下するであろうし、屋根から頭を出して射撃にいたるまでに時間をかけてしまうと、あちらに気付かれてしまう恐れがある。素早く頭を屋根の上へ出し、素早く狙いをつけて引き金を引かねばならない。さらに必中を狙うとなると、難易度はかなりのものになるだろう。自分で言い出しておきながら、その困難さに思わず苦笑いが出た。


 こちらの策があちらに知られてしまうと、今度は屋根の上さえも警戒の対象となってしまう。だからこその一発勝負。あちらの意表を突けるのは一度のみ。失敗すれば、パトカーの死角となる場所で進めてきた全てが水の泡となる。


「美和子、念のために俺の足首を掴んでいてくれ」


 女性である美和子に、落下する芒尾を支える力があるとは思っていない。彼女に足首を掴んでもらうのは、安全策というよりもまじないのようなものだった。守るべきものがある。守らねばならないものがある――そう自分へと言い聞かせるためのもの。


「準備はいいな?」


 山村の言葉に芒尾は頷いた。散弾銃は片一方の手で屋根の上に固定してある。後はルームミラーから手を離し、屋根の上に顔を出して引き金を絞るだけ。その時が訪れるのを、芒尾は運転席というバリケードに身を潜めて待つ。


「あいつらに警戒心を与えるような真似はしたくない。エンジンブレーキだけでスピードを落とす。俺が合図をするから、その瞬間を狙え」


 ブレーキを踏めば、テールのブレーキランプが点灯する。これは後続車に対してブレーキングを行うことを知らせるためにあるのだから、山村がブレーキを使用して減速すれば、それは後続のパトカーにも伝わってしまう。普通に考えれば山村達が減速する必要などないから、ブレーキランプが点灯しただけでも、何か思惑があると相手に警戒心を与えてしまうかもしれない。一方、エンジンブレーキはブレーキを使用しない減速方法であるため、ブレーキランプは点灯しない。


 エンジンブレーキとは、ギアの変速比を利用した減速方法である。スピードが出ている状態で、ギアをローダウンさせることでエンジンの抵抗を発生させて減速する。急停止などの動作はできないものの、徐々にスピードを落とすことは充分にできる。山村はこれを利用して、寝訃成に警戒心を与えずに減速するつもりなのだ。


「今からみっつ数える。俺が数え終えた瞬間に撃て。またすぐに加速するから、パトカーとの距離が縮まるのはそこしかない」


 全てがぶっつけ本番。入念な打ち合わせをする暇もなければ、不安な部分を山村に聞く余裕もない。ただただ己の感覚で山村の意図を理解し、息を合わせねばならない。


「ひとぉーつ」


 山村がギアを一段階下げる。エンジンが唸りながら回転数を上げた。


「ふたぁーつ」


 さらにギアをローダウン。こんな状況で正確なギア運びができるわけなどない。少しばかりタイミングを間違えたのか、トラックは悲鳴を上げて急減速。どこからともなく、ギアの焼け付くような臭いが漂ってくる。しかし、山村の運転技術を気にかけている余裕はない。芒尾は山村を信じ、飛び出すタイミングだけに意識を集中させる。


「みぃーっつ……今だっ!」


 山村の言葉を合図に、芒尾はトラックの屋根から頭を出した。屋根の上に両肘をついてバランスを取ると、散弾銃を構えた。照準をパトカーに合わせる。思ったよりもパトカーがすぐ後ろにまで迫っており、あっさりと照星とパトカーが重なってくれた。体感的には長い時間に感じられたが、恐らく実際には、ほんの数秒の出来事だったのであろう。


 力の限りに引き金を絞った。銃口が火を噴き、それにほんの少し遅れて、耳をつんざかんばかりの銃声が轟く。芒尾の周囲から全ての音が一瞬だけ消え去り、そしてパトカーのフロントガラスが真っ白になったのが見えた。どうやらフロントガラスに命中してくれたらしい。


 銃撃の反動は、一度経験しているだけにそこまで大きいとは思わなかった。重心をできるだけ前にして引き金を絞ったおかげで、腕は持って行かれたものの、体ごと大きく仰け反ることはなかった。


 散弾がフロントガラスを貫通して、中の人間に命中したのか。それともフロントガラスに細かい亀裂がびっしりと入ってしまったがゆえに、前方が一切見えなくなってしまったのか。パトカーはコントロールを失い、赤色灯もろとも脇の田んぼへと落ちた。山村の合図を境に、トラックはすでに加速を始めており、赤色灯が瞬く間に遠ざかって行く。


「……やった」


 わずか数秒の間にいくつもの工程をこなし、結果的にパトカーの機動力を奪うことに成功した芒尾は、きっとどこか緊張の糸が切れてしまったのであろう。路面が悪かったのか、大きくトラックがバウンドし、銃撃の反動しか頭になかった芒尾のバランスを崩した。しまった――と思った時には遅かった。体が大きく仰け反り、地面へと吸い込まれる。体勢を立て直すことは、もはや叶わぬことだった。


「ダイちゃん!」


 美和子の声が焦燥にまみれていた。足首を掴む手に力が込められたが、しかし美和子の力で葉原木を支えることは無理であろう。夜が明け始めた空が遠ざかる。


 人間とは極限的な危機に面した際に、随分と余裕があるのだと芒尾は知った。バランスを崩し、地面へと落下することを悟り、掴まることのできる場所はないのかと探し、巻き込むのは嫌だから、いっそのこと美和子が手を離してくれることを願う。時間的には刹那と呼ばれる長さであろうに、様々なことを思考し、細切れになった時を繋ぎ合わせるかのごとく、ゆっくりと時間が流れる。


 この無謀な提案をしたのは自分自身だ。こうなるリスクは分かりきっていたことであるし、なんにせよパトカーの追走を振り払うことはできたのだ。運が良ければ怪我をする程度で済むかもしれないのだから、御の字とするべきだろう。落ち行く過程の中で、芒尾はそんなことを考える余裕すらあった。しかし、ゆっくりと流れる時間は、運転席から太い腕がぬっと飛び出し、芒尾の胸倉を掴んだことで元へと戻った。葉原木を救ったのは、またしても山村であった。

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