【《過去》平成12年4月16日 夜半 ―山村源治―】1

【1】


 先刻ほどから降り出した雨は、その勢いを徐々に増していた。時刻はちょうど深夜の0時。窓から見える【なか屋】では、いまだに明かりが灯っており、人影が動いているのが見える。どうやら店を閉めた後でも宴は続いているようである。


 すっかりと大人になった、スガヤドンのせがれの姿を思い出しながら、山村は湯呑みに日本酒を手酌する。


 山村の家は【なか屋】よりも少し山側にのぼった高台にあった。村の全てを一望できるわけではないが【なか屋】はすぐ目に入る場所にある。夕飯がてらに一杯やりに行くことが多く、常連中の常連であると山村は自負していた。


 山村は生まれも育ちも赤沢村であり、専業の農家として生計を立てている。若い頃には所帯を持っていたが、子どもができる前に妻が不慮の事故で他界し、それ以降は独身を貫いている。よって、今は独り暮らしだ。平屋のぼろ家ではあるが、それでもこの家は山村には広すぎる。


「スガヤドンのせがれが三十路手前か……。俺も歳をとったもんだ」


 独り暮らしが長くなると、どうしても独り言が多くなってしまう。別に困ることはないのだが、老いぼれの戯言が虚空へと消え去る様は、どこか虚しいものがあった。


 瓶に詰めて保存してあるスルメを取り出すと、それをライターの火でさっと炙り、それをツマミに日本酒をあおる。これが山村の日常だった。独り酒とたまに出掛ける狩猟が生き甲斐など、随分と辛気臭い生き方だと山村は思う。


 妻は若くして逝ってしまったし、両親も随分と前に妻と同じ場所へと見送った。子どももおらず、兄弟もいない山村は、正に天涯孤独だった。


 しかし、この村にいるぶんには、家族がいなくとも不自由は無かった。見知った顔ばかりであるし、山村を家族のように扱ってくれる。盆や正月になれば、わざわざ山村を家へと招いてくれる家だってある。その恩を返そうと、村の子ども達にも本当の家族のように接した結果、近所のカミナリ親父という称号を頂戴することになってしまった。やり過ぎたと思う反面、立派な大人として成長したスガヤドンのせがれの姿などを見ると、やはり嬉しいものだ。


 一升瓶の底たまに残った日本酒を湯呑みにあけると、山村は窓際に腰を下ろし、この時間では珍しい夜景を眺めて頬を緩ませる。


 大酒飲みにとって、酒が底をつく瞬間ほど切ないことはない。山村が惜しむようにして最後の一杯を味わっていると、それを見計らっていたかのように、店の電気が消えた。どうやら、宴もたけなわのようだ。そろそろ寝ろということなのであろう。


 最後の一口を飲み干すと、空になった一升瓶と湯呑みを台所へと片付けて居間に戻る。そして、作務衣姿のまま、敷きっぱなしにしている布団の中に入った。酔いの心地良さに体を預けて、山村はすぐに微睡まどろみ始める。


 どれくらいの時間が経ったのであろうか。すっかり寝入っていた山村の耳に、不愉快な音が飛び込んできた。


 黒電話が鳴っているようだった。しかし、酒に酔って寝入っている山村は、布団から出ようとはしなかった。深夜の電話ほど不吉なものはないのであるが、酒を大いに呑んでいたせいか、どうしてもそれの緊急性が緩慢なものになってしまう。眠気に覆われた頭の中で、大事な用なら朝にでもかけ直してくるだろうなどと考えていたくらいだ。急ぎだからこそ夜中でも電話しているのだろうに。


 鳴り止まぬ電話に、酒の入った頭でも緊急性を察した山村は、夢の中からようやく現実へと意識を戻した。だが、その途端に電話は鳴り止んでしまう。


 こんな時間に、誰が何の用事で電話などかけてきたのだろうか。このような時は大抵、人死にが出たことを告げるものだったりするのだが――。電話に出なかったことを少しばかり後悔しながらも、しかし判断力の鈍った頭は、すぐに山村を深い眠りへと誘う。


 こうして、再び眠りへと落ちた山村であったが、どうやら今日は安眠を許されぬ日のようだ。今度は人のざわめきと、まきが爆ぜるような音で目を覚ました。


 今日は随分と騒がしい――。流石に布団から半身を起こした山村は、窓の外にふと目をやって飛び起きた。頭から冷水をぶっかけられたような思いだった。


 窓の外では、小降りにはなったものの雨が降っているようだった。その雨をかい潜るかのごとく、火の粉のようなものが舞っているのが遠目に見える。それに加えて、薄汚い霧が出たかのように外の景色が濁っていた。


 山村は慌てて窓際へと駆け寄り、窓を開け放つ。途端にきな臭い煙が部屋の中に立ち込める。眼下に火の手が上がっているのが見えた。――火事だ。


 火の手が上がっているのは、明らかに山村の馴染みの店だった。ほんの数時間前まで酒を飲んでいた店だ。そして、スガヤドンのせがれ達が、夜遅くまで宴を開いていた店でもある。人のざわめきのようなものが、きな臭い煙に混じって聞こえるのは、きっと消化作業を行っているからだろう。だが、地元の消防団の車輌らしきものは見受けられない。こんな時、真っ先に駆けつけるべきは地元消防団であるはずなのに。


 すでに引退しているが、山村も消防団に入っていた経験がある。若手に任せ、安心して引退したのに、どうやらまだ老いぼれの助力がなければ駄目のようだ。


 山村は窓を閉めると、タンスの中から消防団の法被はっぴを引っ張り出す。引退する際に、記念にともらった法被だった。それを羽織ると、枕元の安物時計へと目をやった。午前3時を回ったところだった。さっきの電話が、もしかすると火事を報せるものだったのかもと思ったが、電話がかかってきたのはもう少し早い時間だったような気がする。もっとも、時計を確認していなかったから、なんとも言えないのであるが。


 黒電話へと飛びつくと、壁に貼ってある連絡網から消防団員の家へと電話をかけようとする。しかし、受話器はうんともすんとも言わず、ダイヤルしても繋がらない。別の団員の家にも、やはり繋がらなかった。


 山村は舌打ちをして勢いよく受話器を置くと、とりあえず家を飛び出した。遠目で見た限りでは、火事の規模はそこまで大きくはない。あれくらいならば、バケツリレーでもなんとかなるかもしれない。消防団員としての経験がそう言っている。


 外に出ると、朝靄あさもやのごとくかすんだ煙をかき分けながら駆け出す。家の焼ける臭気が辺りに漂い、まだ酒が大いに残っている山村は、込み上げてくる胃液と戦いながら坂を一気に下った。


 坂を下れば、店はすぐそこだ。幸いなことに近くに溜め池もある。そこから水を引っ張ってやれば、消化作業が楽になるだろう。段取りを立てながら坂を下りきった山村であったが、しかしそこで異様な光景に出くわした。


 店の前には十数名の村人の姿が見えた。しかし、ただ呆然と立ち尽くして、火の手が上がる店を眺めているだけなのである。一様に体を左右に揺らしているさまは、さながらキャンプファイアーを囲んで踊る子ども達のようだ。


 火の粉が舞い、木材が爆ぜる音に混じって、山村が家で聞いたざわめきの正体が明らかになる。


 いびきだ――。数名の村人によるいびきの大合唱。それに歯ぎしりらしき音が混じる。それを聞いて急ブレーキをかける山村。近くにあった杉の木の陰に身を隠し、その様子を伺う。


 いびきと歯ぎしり――。就寝中の人間に見られる珍しくもなんともない生理現象だが、この村にとってのそれは、実に忌み嫌われるものである。


 山村は家長へとなった際に、この村に伝わる伝承――封殺すべき過去のことを父親から聞かされた。もはや手の施しようがなく、父が床にせっていた時の話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る