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「先生ぃぃぃ! 今日もいい天気ですねぇぇぇぇぇ!」


 何度も上書きを繰り返したカセットテープのごとく、低い声で、全く理解できない言葉を漏らしつつ、加賀屋の胸倉へと手が伸ばされる。


「貴徳……。やめてくれ」


 そして、何よりも加賀屋を驚かせたのは、その人物が昔から良く知る同級生で、ほんの数時間前までは一緒に呑んでいたはずの佐武貴徳だったことであった。胸倉へと伸ばされた手を両手で掴んで抵抗する加賀屋。しかし、頭脳労働が主な医師と、肉体労働が主な配管工とでは力の差が違う。なすすべもなく、強引に車外へと引っ張り出されてしまう。


「僕だ……。貴徳、僕だよ! 分からないのか!」


 加賀屋の声は貴徳には届かない。車外へと引きずり出されて押し倒されると、貴徳が馬乗りになってきた。加賀屋なりに抵抗はしているものの、全くかなわない。されるがままだ。


 貴徳の両手が、胸倉から首筋へと移された。そして、力任せに加賀屋の首筋を締めてくる。気道が塞がれ、呼吸をすることがままならない。頭に血が上ったかのように顔が熱くなり、視界がにじみ始めた。


 このままじゃ殺される――。突然のことに処理が追い付いていない頭で、加賀屋はなんとか危機を回避する方法を模索する。


 呼吸ができない、思考がかすむ、全身が硬直する。それでも加賀屋は必死に抵抗した。足をばたつかせてみたり、出せる限りの力で、貴徳の両腕を振りほどこうとしてみたりと……。けれども、力の差は明白であり、貴徳の指はさらに加賀屋の首筋へと食い込む。意識さえもが薄れ始めた。


 万事休す。もはや手立てが見当たらない。死を覚悟した加賀屋は、抵抗することをやめて体の力を抜いた。ふと、その時であった。ポケットの中から聞き覚えのある着信音が鳴り響いた。持ち歩くのが癖になっていたポケットベル――通称、ポケベルの着信音だった。着信音は買った時から一度も変えておらず、まるで目覚ましのアラームのような無機質なものになっていた。


 突如として鳴ったポケベルの音に気を取られたのか、加賀屋の首筋に食い込んでいた指の力が緩んだ。すでに薄れつつあった意識の中で、貴徳の腕を振りほどく。そのまま後退りをすると、震える膝に言うことを聞かせて立ち上がった。


 後に携帯電話が普及し、メール機能が当たり前になってしまった頃には姿を消していたポケベル。俗に言うメール受信機のようなものであり、携帯電話が普及するまでは、簡単な連絡を取り合うツールとなっていた。もっとも、ポケベル自体には受信機能しかなく、メッセージを送るには電話から複雑な数字の組み合わせをプッシュする必要があったという代物である。とにもかくにも、そのポケベルに命を救われたようだ。


 これをチャンスとばかりに、加賀屋は車に戻ろうとした。しかし、車の近くには貴徳と同じような状態になった村人の姿があった。素直に車に乗せてもらえるとは思えない。


 迷っている暇はない。加賀屋はその場から駆け出した。車に戻ることは諦め、自分の足で逃げ出したのである。車に戻る手間を考えると、このほうが安全のような気がした。


 走りながら後ろを振り返ると、人影が次々と車に乗り込むのが見えた。人が走る速さと車の速さでは、どちらが勝つのかなど明確。途端に追いつかれてしまうであろう。ベッドライトの明かりが加賀屋を照らす。エンジン音が唸りを上げ、加賀屋の背後へと迫ってくる。


 加賀屋は進路を変更し、田んぼの畦道あぜみちへと降りた。そもそも畦道は、田んぼを管理するためだけに作られているもの。人が通れるスペースはあるものの、当然ながら車は入ってこれない。全力で足元の悪い畦道を駆ける、駆ける――駆け抜ける。


 車のドアが開閉される音がして、今度は懐中電灯らしき小さな光が、田んぼの水面の上を走った。畦道に入ってもなお、車を降りて追いかけてくるつもりのようだ。


 子どもの頃、学校帰りに寄り道をして、畦道を渡って遊んだことが良くあった。畦道なんてものは、人が一人通れる程度の細さであり、両側は当然ながら田んぼ。足を滑らせて落ちたこともあったような気がするが、それもまた楽しかった記憶がある。芒尾が貴徳を道連れにして田んぼへと落ちた時のことを思い出した。あの頃、あれほどに楽しかった畦道渡りが、全く別物となって加賀屋を脅かしている。


 一歩踏み間違えれば、田んぼへと真っ逆さま。この時期の田んぼにはすでに水が張っており、落ちれば泥に足を取られて身動きが鈍くなる。畦道から足を踏み外すことは、加賀屋の背中を捉えたであろう懐中電灯の明かりに追いつかれることを意味する。


 田んぼを挟んで向こう側の畦道にも、走る人影が見えた。回り込んで挟み撃ちにするつもりなのであろうが、そう簡単に捕まるわけには行かない。加賀屋はバランスを崩さないようにして、力の限り畦道を駆ける。このまま上手いこと逃げおおせることができるか――。そんな加賀屋の甘い見通しを、現実が裏切った。


 何枚もの田んぼの畦道を渡ってきた加賀屋であったが、それが前方で途切れていることに気づく。加賀屋が襲われたのが南部のメイン道路。そこから脇の畦道に入った訳だが、とっさのことで西部方面に逃げ込んだのがまずかった。村の構造上、西部の果ては渓谷――すなわち崖だ。無論、川は真っ直ぐ伸びているわけでなく、集落の辺りから村のほうへと侵食するよう曲がっている。つまり、それほどの距離を走っていないにも関わらず打ち止め――渓谷の淵まで辿り着いてしまったのだ。


 貴徳達は、何本もの畦道を、加賀屋のほうへと向かって走ってきている。どん詰まりで方向転換をしたところで、挟み撃ちにされるだけだ。


 どうするべきか――。文字通り崖っぷちに立たされた加賀屋は、ふと足元に草刈機が横たわっていることに気付いた。恐らく、草刈りをしていて、そのまま忘れて帰ってしまったのであろう。どこの誰が忘れたのかは知らないが、加賀屋にとっては天の助けだった。もっとも、気付かずにつまずいたりしていたら、そのまま崖の下へと真っ逆さまであったろうが。


 加賀屋は草刈機を持ち上げると、燃料の残量を確認する。――空。これで燃料でも入っていれば、完璧なるお膳立てであろうに、燃料タンクには一切燃料が残っていなかった。


 加賀屋はそれでもエンジンをかけることを試みる。だが、当然ながらエンジンなどかからない。うんともすんともいわない。エンジンがかかってくれれば、少なくとも牽制にはなるだろうに――。そんなことを考えている間にも、それぞれの畦道で揺れる懐中電灯の光は加賀屋へと迫っている。逃げ道はない。田んぼの中を突っ切ろうにも、動きが鈍くなって捕まるのが目に見えていた。


「どうすればいい……。どうすれば」


 ふと、加賀屋は崖のほうへと振り返る。崖は垂直ではないものの、急な傾斜となっていた。こんな場所であっても植物とはたくましいものだ。種類は分からないが、立派な木が天へと向かって伸びていた。それを見た加賀屋は、一か八かの一発勝負へと打って出ることにした。


 貴徳達の様子から察するに、信じたくはないが本気でこちらを殺そうとしている。半信半疑だったものが、身をもってして確信へと変わる。この村はおかしい。どこか歯車が、狂ってしまった――。冗談でも何でもなく、このまま捕まれば殺されてしまうであろう。迫りくる懐中電灯の光は、それを喜ぶかのように揺らめいていた。

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