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「あの頃に――戻れないかな? ううん、昨日でいい。昨日の朝に戻れないかな?」
貴徳は何も答えない。美和子の瞳から涙が自然と滲み出た。何がどうなってこんなことになってしまったのか。どうして貴徳が寝訃成になって、どうして自分だけ無事だったのか。こんなことならいっそのこと、自分も一緒に寝訃成になっていたほうが良かったのに。
「美和子さん……申しわけありませんが、どうするにせよ、もう時間がありません」
貴徳と美和子。二人の夫婦を切り裂くかのように、快晴の無情な一言が飛ぶ。そんなことは言われずとも分かっている。こうして貴徳に声をかけ続けていても、何かが変わるわけではないことも分かっている。でも――だからと言って、こんなお別れは嫌だった。
「美和子――せめて、せめてこいつは俺の手で楽にしてやりたいんだ。いいよな?」
貴徳はずっとこのままなのであろうか。仮に美和子達を殺したとしても、ずっと気のふれた化け物のままなのであろうか。ならば、いっそのこと殺してやったほうが、貴徳のためになるのではないか。むしろ、寝訃成を殺さねばならないという掟は、優しさから生まれたものだったのかもしれない。
誰だって大切な人を殺したりなんてしたくない。だからこそ、芒尾は自らその役目を買って出てくれたのだ。ずっと化け物として生き続けるのであれば、死んでしまったほうがずっと幸せだろう。
芒尾の言葉に美和子が頷こうとした瞬間のことだった。貴徳が妙な唸り声を上げてゴルフクラブを振り上げる。美和子の声は届かなかったのか。美和子の想いは届かなかったのか。断末魔に近い声を上げながら、美和子に向かってゴルフクラブが振り下ろされる。その様子を見ながらも、しかし引き金を引けなかった辺り、きっと芒尾も本心では貴徳を撃ちたくはなかったのかもしれない。
辺りの空気が急に冷たくなり、周りの景色の流れがゆっくりとなる。まるでコマ撮りをしたかのように、美和子の周囲だけ時間の流れ方がおかしかった。
芒尾達はここまで自分を守ってくれた。それについては本当に感謝しているし、どれだけ感謝をしても足りないくらいだ。でも――どうにもならなくなってしまった今となっては、旦那に殺されるのであれば、それはそれでいいかなと思い始めている自分がいた。
一緒に帰ることができるなら、そして元のように仲睦まじく日々を過ごせるのなら帰りたい。だが、それはできないから、叶わない願いだから――美和子はにっこりと微笑んだ。
「私、貴徳のお嫁さんで本当に幸せでした――」
貴徳と交際を始めたばかりの頃、そして結婚をすることになって嫁ぐという事実に胸を踊らせていた頃、それがほんの短い時間で終わってしまうなど、誰が予測できただろうか。そういえば、籍を入れる時になって、何をどう間違えたのか婚姻届ではなく離婚届を役場からもらって来たことがあったっけ――。あの時はさすがに怒ったが、今となってはそれすらも懐かしい思い出。
ゴルフクラブが目前まで迫る。しかし美和子は目を閉じなかった。すっかりと形相の変わってしまった貴徳に向かって――眼球がギョロギョロと動き回り、目を合わせることすら困難な旦那に向かって、ただただ微笑んでいたい。これが最期になるのならば、せめて笑顔でお別れしたい。
どすん――という鈍い音と一緒に地面へとゴルフクラブが打ち付けられた。てっきり、それが自分の脳天へと落ちてくるとばかり思っていた美和子は、さすがに微笑んではいられなかった。きっと目をぱちくりとさせ、驚きの表情を見せていたにちがいない。
貴徳はゴルフクラブを地面に打ち付けたまま、獣のように荒い呼吸をしている。眼球は相変わらず動き回っているし、いびきと歯ぎしりは酷い。けれども――もしかして、わざと外したのではないか。美和子の説得と想いが通じたのかもしれない。美和子のお守りが、本当の意味でお守りとなったのだ。
「貴徳――」
美和子は驚きのあまり、そして嬉しさのあまり、大粒の涙を流した。化け物になっても、こちらの想いは通じている。それは、どうにもならない事態の打開策となるのではないか。元に戻ってくれるかもしれないという希望が、現実的なものになるかもしれなかった。美和子はこの土壇場になって決心する。なんとしてでも旦那を救うことを。
「貴徳、もしかしたら元に戻れるかもしれない方法があるの。まだはっきりとしたわけじゃないんだけどナオちゃんがね――」
そうだ。旦那を救うのだ。こんなところでメソメソしている場合ではない。妻である自分が旦那を救わずして、誰が救うというのであろうか。これまで、芒尾達に支えられてきた。だから、ここからは自分の足で踏み出す番。旦那を元に戻すために、妻として踏ん張る番なのだ。
闇夜の中から空気を切り裂く音が聞こえたような気がした。それと同時に、左胸の辺りに衝撃が走る。のけぞったまま後ろに倒れそうになったが、辛うじて倒れずに留まった。左胸が急に暑くなる。
「――えっ?」
美和子は自分の胸から鉄の棒が生えていることに、小さく首を傾げた。これはどこから飛んできたものなのか。どうして自分の胸に刺さっているのか。そんなことを考えてしまったのは、あまりに突然のことに頭がついていかなかったからなのかもしれない。
がくりと膝が折れる。全身から力が抜ける。目の前にいる旦那が
「美和子――。おい、美和子、しっかりしろ!」
芒尾の声を聞きつつも、なす術もなく崩れ落ちる美和子。もはや、自分の体が自分の体ではないような感覚だった。ただ、心臓の動きが緩やかに弱まっていることだけは、しっかりと自覚することができた。
「直斗、美和子のことを早く診てやってくれ! 早く!」
「そんなことを言われても、これじゃあ――」
ぼんやりとかすれ始めた視界の中で、芒尾と加賀屋のやり取りだけが聞こえる。気がつくと目の前は真っ暗。目を開けているはずなのに、どこを見ても暗闇だった。
「しっかりしろ美和子! 美和子ぉぉぉぉぉっ!」
その言葉に、ふっと視界が明るくなった。田んぼの向こう側では、ランドセルを背負った芒尾と貴徳、それに加賀屋が手を振っている。セミの鳴き声がうるさく、じりじりと焼けつくような暑さだ。特に胸の辺りが暑い。
「おーい! 美和子ぉぉぉぉぉ!」
なんだか物凄く怖い夢を見ていたような気がする。それはもう、とても恐ろしくて、目を背けてしまいそうな夢。でもどうやら、それは夢であったらしい。そうだ、今日は終業式で、明日から夏休みでないか。また幼馴染達と毎日のように遊び回る日々がやってくる。
「うん、今行くよー!」
美和子は手を振り返すと、田んぼの畦道を走り出したのであった。右手に持ったマスコット人形を、大事に大事に握りしめつつ。
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