【《過去》平成12年4月16日 夜 ―芒尾大輔―】1

【1】


 下駄の鼻緒が突然切れる、湯飲み茶碗にひびが入る。芒尾が抱いた嫌な予感は、それらの類いのようなものだった。虫の報せなんてものは、根拠のない不確かなものだ。だが、根拠のある天気予報なんかより当たってしまう。


 やはり美和子だけに任せるべきではなかった。せめて、もっと警戒してやるべきだった。胸から鉄の棒を生やし、そしてその場に崩れ落ちようとする美和子の姿に、芒尾は頭の中が真っ白になった。きっと、貴徳のゴルフクラブは囮であり、闇夜から弓矢らしきもので射られてしまったのだ。


「美和子ぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 名前を呼びながら地面を蹴った。脱力した美和子を抱き上げようとした貴徳に猟銃を突きつけると、貴徳を突き飛ばした。


「美和子から離れろっ!」


 美和子は倒れたまま動かない。ぴくりとも動かない。素人目に見ても、生きているとは思えなかった。


「どうしてこんなことに――」


 加賀屋の狼狽ろうばいした声を背に、芒尾は猟銃を投げ捨てると、突き飛ばした貴徳へと馬乗りになった。今度は拳を貴徳の顔に叩き込む。一発、二発……。叩き込む度に拳と胸のどこかが痛んだ。それを振り払って、殴る、殴る、殴る、殴る。その場には他にも寝訃成がいたはずだが、もうそんなこと頭になかった。それほどまでに、頭に血がのぼってしまっていた。


「あんなに仲が良かっただろうがよっ! 一生、美和子を大事にするんじゃなかったのかよっ!」


 右、左、右、左――。機械にでもなったかのように、感覚のなくなった拳に想いを込めて叩き込んだ。貴徳は抵抗することもなく、ただ芒尾に殴られるばかりだった。


「本当はお前が守らなきゃいけないんだ! なんで俺達に守らせようとするんだよ! お前の――お前の嫁さんだろっ!」


 貴徳は寝訃成になってしまったのだから、美和子を守るなんてことはできない。頭では理解できていても、芒尾は貴徳を殴る手を止めなかった。悔しかった。ただただ悔しかった。


「美和子、お願いだから戻ってきてくれ――。戻ってきてくれよっ!」


 背後では加賀屋の懸命の措置が行われているのだろう。けれども、あの加賀屋が声を荒げている時点で、美和子が絶望的なのは分かっていた。加賀屋が取り乱すということは、つまりはそう言うことなのだ。


「貴徳――。終わりにしよう。もう、これで終わりにしようや」


 肩で息をしながら呟く。芒尾から殴られ続けた貴徳は、両の頬を腫らして気を失っているようだった。


 貴徳にはすでに両親がいない。母親は芒尾が駆けつけた時点で殺されていたし、寝訃成になった父親には芒尾が引導を渡した。そして、美和子が絶望的となった今、もう彼には身内というものがいない。化け物になってしまったからと葬ってくれる者がいないのだ。ならば――ならば、その役目は幼馴染の芒尾が引き受けるしかない。寝訃成は殺さねばならない。その掟みたいなものに従うつもりはないが、このまま化け物として生き続けるくらいならば、いっそのこと葬ってやったほうがいい。


 芒尾は猟銃を拾い上げると、気を失っているであろう貴徳に向けて構える。外見はいつもと全く変わらない。それがまたタチが悪かった。これで醜悪な化け物の姿にでもなってくれていれば、まだ手を下しやすいだろうに。


 加賀屋がうつむきながら、こちらへとやってきた。それが何を意味するかなど、聞かずとも分かった。地面に横たわった美和子は、両手を胸の辺りで組まされている。加賀屋がやったのであろうが、つまりは、そういうことなのだ。ついさっきまで一緒にいたはずの美和子が、芒尾達の手の届かぬ場所へと行ってしまった――。そこは一方通行であり、二度とこちらのほうには帰って来られない。


 芒尾の隣までやって来た加賀屋は、そっと芒尾が構えた猟銃の引き金に指をかける。


「大輔、僕も半分背負うよ――」


 鼻をすすり、決して顔を上げようとしない加賀屋に、芒尾は静かに頷いた。小学校の頃から泣き虫だった加賀屋は、やはり大人になっても泣き虫だ。いいや、幼馴染の死を自然に受け入れてしまっている自分――仕方なかったと無意識に諦めている芒尾よりはマシなのかもしれない。


「直斗、いいか?」


 芒尾が言うと、加賀屋は改めて大きく鼻ををすすり、そして真っ赤になった目で頷く。貴徳はまるで眠っているかのようだった。


 やらねばならない。殺さなければならない。これまで何人もの村人を殺してきたではないか。見知った顔だって殺してきたではないか。それなのにどうして――どうして引き金を引くことができないのか。加賀屋が貴徳を殺すことを拒んでいるのか。いいや、それは自分だって同じだ。


 ――決心をつけたのは芒尾が先だったのか、それとも加賀屋のほうだったのか。これまで金縛りにかかったかのように動かなかった人差し指が、あっさりと動いてくれた。こちらが戸惑ってしまうほどにあっさりと――。轟音と共に衝撃が肩へと走り、猟銃を取り落としそうになった。


「――大輔、終わったね」


 これまで積み上げてきたものが、数十年の月日をかけて築き上げられた佐武貴徳という人間が、わずかな重さしかない銃弾に殺された。人間の命は、そこまで軽いものなのか。そこまで人とは脆い生き物なのか。勇気を振り絞って、貴徳の顔へと視線を落とした。散弾で見るに耐えないものになっているのかと思ったが、芒尾が思っていたよりも貴徳の顔は綺麗だった。


「ごめんな……。貴徳」


 そう言って芒尾が涙を拭った時のことだった。背後から「危ないっ!」との声が聞こえたかと思ったら、思い切り突き飛ばされた。それこそ、加賀屋ごと一緒に突き飛ばされるという力の強さでだ。


 加賀屋と一緒に地面を転がる。ふと、顔を上げると、ゴルフクラブを手に寝訃成に応戦する袈裟姿が見えた。貴徳とのやり合いに集中してしまい、その他にも寝訃成がいたことをすっかり忘れていた。これまでは芒尾達の気迫に押されて大人しくしていたのであろうが、そいつらが急に動き出したらしい。


「もう少しお別れに付き合ってあげたかったんですがねぇ。どうやら限界みたいです」


 ゴルフクラブを片手に、その場にいた寝訃成を軽くいなしてしまうと、快晴は旧公民館の辺りへと視線をやる。つられて視線を周囲に向けると、遠くに見えていた不気味な明かりが、すぐそこまで迫っていた。


「あれが一気になだれ込んできたら、さすがに全滅でしょうねぇ。ここは私に考えがあります。お二人はマイクロバスのほうへ」


 美和子と貴徳の遺体に後ろ髪を引かれながらも、快晴の先導でマイクロバスのほうへと向かう芒尾と加賀屋。快晴がエンジンを直結でかけると、車内灯がほんのりと車内を照らした。なぜだか頭に巻いているタオルを外した快晴は、マイクロバスに乗り込んだ芒尾と加賀屋とは入れ違いになる形でバスを降りようとする。


「快晴さんはどこにいくんだ?」


「ちょいと軽トラックで先行して、連中を混乱させます。その後はマイクロバスの後ろにつきますので、赤沢トンネルでぶちかまして下さいよ。まぁ、しばらくはここで待っていて下さい。クラクションで合図しますから」


 芒尾の問いかけに、いつも通りの自信に満ちた表情で返してくる快晴。いかなる時でも頼りになる男である。この男に任せておけば、なんとかなるように思えるから不思議だ。


「そうか、あまり無理はしないようにしてくれよ」


 そう言うと、快晴は前の席のほうにすでに座っていた岬へと視線をやる。


「えぇ、それでは姫のことを宜しくお願いしますよ」


 岬は芒尾と加賀屋のほうを振り返り、しかし快晴には何か声をかけるようなことはしなかった。もう言葉を交わした後だったのかもしれないが、車内灯に照らされた彼女の顔が、なんだか元気のないものであるように思えた。

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