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もう自分で思考する余裕など花巻にはなかった。セーラー服に言われるがまま急な斜面――しかもデコボコで整備などもされていない獣道を、文字通り転げ落ちるかのごとく駆ける、駆ける、駆ける。地面の草木が揺れる音と、風を切る音だけが花巻の耳には届いていた。いびきと歯ぎしりは――脳が聞こえないようにシャットアウトしてしまったのかもしれない。
もちろん、獣道だからといっても人が通れない道ではない。一度だけ振り返ると、セーラー服に続いて変になってしまった大人達が獣道へとなだれ込んでくる。しかし、道幅が狭く、また両側は木々がうっそうと生い茂っているため、追ってくるにも一人ずつでなければならない。ボウガンを放ったセーラー服の姿を見て、なるほど――と思った。大勢で取り囲まれてしまえば太刀打ちできなくなるが、こうして獣道に逃げ込んでしまえば、一人ずつ相手にすることになり、それだけリスクを背負わずに済む。頭の中はごちゃごちゃなのに、冷静に分析している自分がいた。生き延びるための情報を、無意識に取捨選択しているのだろうと思う。
「確か、バイクの免許を持っていたよね? 村の中で乗り回してたし――。あれ、中型?」
背後からセーラー服の声が飛んでくる。斜面を疾走しながらも、ほんのちらりと背後へと視線をやると、セーラー服と目が合った。そこでようやく、セーラー服がどこの誰なのか分かった。
紀宝寺の一人娘。花巻達よりひとつ年上であり、中学生の頃は生徒会長まで務めた
肩まで髪がかかる適度のミディアムショートであり、肌を真っ黒に塗ったコギャルなるものが大流行するさなか、その逆を行く真っ白な肌に、しかしバッチリとしたメイク。岬は他校の可愛い女子生徒として有名なのである。花巻の学校からも
岬は外見だけを見れば美人なのかもしれないが、小さい頃からその本性を知っている花巻達は、そんなこと一度たりとも思ったことがない。ひとつ歳上の恐ろしいお姉さんという印象しかなかった。
「ちゅ、中型です!」
こんな状況なのに、相手がかつて【番長】と呼ばれていた岬だと分かった途端、敬語になっている自分がいた。変になってしまった大人達に襲われ、親友が殺されたというのに、普段の習慣というものは恐ろしい。
「オッケー。それなら私のバイクも運転できるわね。ここを下ると西部の集落に繋がる道に出る。そこにバイクを停めてあるから、あなたが運転して! 私は後ろに乗って、追ってくる連中を叩くわ! 鍵はもうつけてあるから、そのままエンジンがかかるはずよ!」
頭の整理が全くできていないというのに、あれこれと指示を出されてわけが分からなくなってきた。それを見越していたのか、岬がさらに口を開く。
「いい? あなたがすることは、バイクまで無事にたどり着くこと。そして、私を後ろに乗せてここから逃げること。それだけを考えればいい! 他のことは何も考えなくていいから!」
あぁ、これは彼女なりの優しさなのだ。空回りしそうになる足を踏ん張りながら、花巻はそう思った。余計なことを考えなくていい。ただ今は目の前のやるべきことだけに集中する。そうすれば、親友を失った悲しみも、実の親達に殺されそうになったというショックも、一時的に……ほんの一時的にだが忘れることができる。焼け石に水かもしれないが、少しの間だけでも忘れられるのであれば助かる。
いつまで続くのかと思った獣道であったが、斜面を下り続けていると、深い茂みから抜け出したかのごとく急に視界が広くなった。斜面は平坦となり、何よりも地面がアスファルトで舗装されている。どうやら、西部の集落へと繋がる道にぶち当たったらしい。
急斜面を下るための体重のかけかたをしていたのに、いきなり平坦で整備された道路に出たものだから、逆にバランスを崩しそうになってしまう。なんとか踏ん張ると、辺りを見回した。ほんの少し先にスポーツタイプのバイクが停まっていた。なにやら後部に珍妙な装置――機械のようなものを積んでいるようだが、他にバイクは見当たらない。休む間もなく方向転換をすると、バイクに駆け寄る花巻。
「あっちの動きが思っているより早いかもしれない! 急いで!」
花巻に続いて獣道から飛び出した岬は、背負った筒状のポーチのようなものから矢を取り出してボウガンに装填。獣道のほうを警戒しつつ口を開く。今のところは問題なさそうであるが、頭の上のほうからエンジン音が下ってきているのが聞こえた。獣道に車は入れないだろうから、ちゃんとした道を下ってきているのであろう。恐らく、花巻達の前に車が姿を現わすのも時間の問題だ。
鍵は刺さったままだということで、エンジンをかけられる状態へと鍵を回し、そしてセルを回そうとする。セルとはセルフスターターの略であり、ボタンひとつでエンジンをかける手段なのであるが、バッテリーの電力がなくなってしまうと使い物にならなくなる。恐らくだが、後部座席に積んだ珍妙な機材にバイクのバッテリーを繋いでしまったのであろう。しかも、こんな事態を想定していたわけでもないだろうから、バッテリーだって新しくないだろうし、即席で機材に繋いだのであれば、バッテリーが急に消耗しても不思議ではない。
「どうしたの?」
中々エンジンがかからないバイクを見て、岬が花巻のほうへと駆け寄ってくる。
「バッテリーがあがってる! エンジンがかからない!」
花巻が言うのと同時に、遥か向こう側のカーブを車が曲がってきた。そのカーブの先をしばらく行ったところに作業小屋はある。すなわち――変になった挙げ句に親友を殺した大人達が、もう追いかけてきたのである。多分だが、挟み撃ちにしてやろうとでも考えていたのであろう。花巻はそれを見て舌打ちをひとつ。エンジンがかからないのは想定外だったのか、岬が「なんとかならないの?」と鬼気迫る様子で問うてくる。
バッテリーが死んでいるのであれば、セルでかけることはできない。だが、エンジンをかけることが不可能になってしまったというわけではない。
追っ手の車と花巻達の距離は目と鼻の先。あっちは車だから、すぐにエンジンをかけなければ追いつかれてしまう。ならば、手段はこれしかなかった。
クラッチを握るとギアを入れ、セルのボタンを押しっぱなしにする。そして、鍵はもちろんエンジンがかけられる状態に回したままで、空気とガソリンの混合比率を高めるべくチョークを引く。小さく溜め息を漏らすと、かつては【番長】と呼ばれ、決して逆らうことのできない怖いお姉さんだった岬に対して「走れっ!」と怒号を上げた。それと同時に、バイクにまたがることはせず、ハンドルを持ってバイクを押しながら走り出す花巻。こうすることで、バッテリーの力を借りずともエンジンをかけることができる。俗に押しがけと呼ばれる手段だった。後はこれでエンジンがかかってくれるのを祈るのみ。
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