第2話 桃花の神薙

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 街の片隅にそのやしろはあった。

 小高い山の中腹で頭上に大岩を祀り、眼下に海を臨む本殿は、下の拝殿から数十段の石段を登ったところにある。その拝殿へも麓の髄神門ずいしんもんから山道を少々登って来なければならない。

 この社、春には満開の桃花に包まれた神楽殿かぐらでんでそれは見事な歌舞うたまいが披露される。

 社の名は氷狼ひょうろう神社、歌舞の名を氷華ひょうかの舞といった。

 社も歌舞もどちらも千二百年以上の伝統を誇るというのだがその起源は定かではない。ただそこには古来脈々と継承されてきた奇縁と秘史ひしがあった。


 ――話は上狛かみこま水音みずねが森の社を訪れた日から数日を遡る。


 小さな高窓から差し込む光が埃の舞う社の収蔵庫の中で舞台照明のように床板を照らしていた。

 夜通し手元を照らしていた小さな電灯は光の中で既にその存在を失っている。

 窓から注ぐ暖光は幾列も並ぶ棚と棚の間を抜け、床の上で毛布にくるまったまま眠っている少年の身を優しく包み込んでいた。


 ――そうか、あのままここで眠ってしまったのか……。

 少年は白けた天井を見上げた。


 高一の春休みのこと。

 加茂かもいつきは、実家である氷狼神社に戻って来ていた。

 樹は、行方不明となっている妹「ゆい」の消息を得るために日がな一日をこの収蔵庫で過ごし、片端から古文書を紐解くという生活を続けていた。


 今朝もまた収蔵庫で朝を迎えてしまった。

 底冷えする空気が意識を覚まさせようとしていた。

 重たい瞼をどうにか上げ、霞む目で辺りを見回す。

 耳が音を拾い始めると、聞こえてきたのは境内を賑わせる人々の快活だった。

 喧噪と微睡みの狭間で自分が何処で何をしていたのかを明確に思い出す。身を切るような冷気に樹は堪らず毛布を手繰り寄せた。

 

 ふと手持ち無沙汰を感じて辺りに目をやると眠気により手から滑り落ちていた古書が目に入った。

 樹は書物を拾い上げ、ぼんやりとしたまま窓の方へ向かった。 

 外はえらく賑やかであるが、これはいったい何事であろうか……。

 何の気なしにカーテンを払い上げる。飛び込んできた日差しが思いのほか強い。その光を嫌って、まだ眠気をひきずっている瞼が再び閉じようとした。

 樹は、反射的に日光を遮った手の後ろで目を閉じた。頭が酷く重かった。


 ――そうか……そうだったな……。もうそんな時期になったのか……。

 細めた眼が景色を捉える。

 光に慣れた瞳に映り込んできた光景は以前には当たり前のように目にしていたものだった。そこには、石畳を掃き清める者、提灯の点検を行う者、石灯篭の整備をする者など祭りの準備を行う人々の姿があった。

 樹は思わず顔を背け唇を噛んだ。せわしなく行き交う人々の顔は誰もが皆揃って笑顔だった。


 春分が過ぎて清明節が間近に迫ると冬の間は閑散としていたこの神社にもこうして祭りの準備をする人の顔がたくさん見られるようになる。だが、近年は内々に神事のみが執り行われるようになっており賑やかな催しは控えられるようになっていた。


 窓の外の浮き立つ人達を見て今年久しぶりにこの氷狼神社で祭りが行われることを思い出し、樹は五年前のあの日へと記憶を遡らせた。



 ――五年前のこと。


 祭りの賑わいに高揚する樹は、カラコロと石畳を叩く足裏の感触に心を弾ませながら境内へと向かう人波の中へと飛び込んだ。


 宵宮の夜に妹のゆいと二人で夜店を回るのは毎年馴染みのこととなっていたが、初舞台を明日に控えた唯はどこか上の空で口数も少なくなっていた。

 萎縮する唯を見て樹は普段以上に胸を張って元気を見せた。

 大きな声で話しかけ口を開けて笑う。樹は唯の細い手をしっかりと握って先へ先へと進んで行った。境内に近付くと衛士のように並ぶ石提灯の列が、幼い二人を守るように緋色をともしていた。


 星の瞬く紺色の空。背から風が抜けて葉擦れがすると石階段の両脇で等間隔に並ぶ灯篭の明かりもそれに習ってふわりと揺れる。



「――樹ちゃん、待って、待って」

「あ、ごめん、唯、ついつい」


 繋いだ手にブレーキが掛かって振り向くと、そこでようやく今夜の唯が振り袖を着ていていつもより動きづらそうにしていることに気が付いた。


「こら、樹ちゃん、慌てすぎですよ、まだまだ時間はたっぷりとありますからね」

「え、ああ、うん」


 先程までの硬い表情が嘘のように弾けた笑みを浮かべる唯。

 昔はあんなに気弱で泣いてばかりだったのに随分と逞しくなったものだ。

 まるで母親のように兄に説教をする妹を見て幼心なりに安堵を抱いた。


 樹と唯は実の兄妹ではない。樹が五歳の時に唯は加茂家の養子になった。唯はまだ三歳だった。

 唯が加茂家に来た詳しい理由は樹には知らされなかった。だが、唯の両親が事故で亡くなったということは樹の耳にも届いていた。

 幼くして肉親を失った唯。それでも彼女は元気に育った。随分と辛い思いをしていたと聞いていたが、心に影を落としていないのは、きっと物思いがつくかつかない年頃であったことが幸いしたのだろう。


 玄関先で初めて唯を迎えた時、彼女はとても寂しげな顔で片腕に人形を抱きかかえ、連れてきた飼い犬のシロにしがみ付いていた。

 樹は、儚げで触れれば消えて無くなりそうだった唯を見て、自分が一生この子を守ってやるのだと強く思ったことを覚えている。


 ――樹は妹と繋ぐ手に力を込めた。


「どうしたの?」


 尋ねる唯の紫紺の瞳が、夜店の明かりを映し込んでキラキラと輝いていた。


「なんでもないよ、それより今日の晴れ着、凄く綺麗だ。母さんも随分と張り切ったんだな」

「へへ、どうですか? 似合いますか?」


 唯は振り袖を広げ小首をかしげおどけてみせた。


「あ、ああ、えっと、うん」


 唯の仕草を見て胸がトクンと鳴った。いつもとは違った雰囲気の妹を見て、樹は一瞬だけ頭をぼうっとさせてしまった。

 不思議な気分だった。その気持ちの正体に戸惑いを覚えた。

 ――なんだろう?

 祭りの賑わいのせいなのか妹の纏った晴れ着のせいなのか、あるいは纏め上げられた髪が妹を大人びて見せているせいなのか、少し考えてみたがよく分からなかった。


「行こう、樹ちゃん」

「あ、うん、そうだな!」

「じゃあまずは何から食べようか?」

「やっぱり食べる事からなんだ」


 少しだけ意地悪になり揶揄してしまったのだが、唯はまるで意に介さず「いいでしょ」といって笑った。


「あ! そうだ良い事思いついちゃった。買うのは一つずつにしてそれを私と樹ちゃんで分けて食べたら色んなものをいっぱい食べられるんじゃない?」

「どれだけ食べるつもりなんだよ唯、ついていける自信ないなぁ」

「ひどいなぁ、それじゃまるで私だけ食いしん坊みたいじゃない」


 唯は頬を少し膨らまして拗ねた。樹はその無邪気な様子をみて今の唯の顔には、幼い頃の暗い影が少しも見えなくなっていることに気付いた。もう大丈夫だろう、あの頃の唯はもういない。これから先にはもっともっと楽しい事が待っている。自分はそんな唯をいつまでも見守っていこう。この時、樹の心は幸福で満たされていた。


 樹と唯は賑わう夜店の間を行ったり来たりしながら祭りの味覚を楽しんだ。そうして最後の夜店を過ぎて到着した先に神楽殿が見えた。


 祭り最大の見せ場である歌舞の披露は次の日の夜だったが、その夜も神楽殿の周囲に配置された篝火は炊かれており、その炎が舞台を照らしていた。


「いよいよ明日だね。私、大丈夫かな? ちゃんと出来るかな……」

「大丈夫! 心配ないよ」

「でも、初めてだし、緊張するし……」

「あれだけ稽古したんだからさ、始まっちゃえば勝手に体が動いちゃうよ」

「樹ちゃんはそんなふうに出来るかもしれないけど……」


 唯は神楽殿を見上げて軽く溜め息をついた。


「唯、いい事教えてあげるよ!」

「いいこと?」

「そう、いいことだよ。これはとっておきの秘訣なんだけどね」

「え、なに? そんなのがあるの?」

「あるよ。それはね、本番の舞台では適当にやっちゃっても構わないってことだよ」

「え?」

「大丈夫。元々、この社に伝わる神楽の舞は観客に見せる為のものじゃないからそれでいいんだよ」

「え、それじゃなんで?」

「それは僕にも分かんない。でもここには氷華の舞とは別にもう一つ桃花っていう裏の舞もあるけど、それはお祭りではやってないだろ、僕も五歳の頃から舞台に上がっているけど裏舞うらまいは一度しかやってないし、その時も僕が勝手にやっちゃっただけで……」

「えー、樹ちゃん、自分で勝手にやっちゃったの?」

「そうだよ、特にそれをやっちゃダメって言われたことも無かったし、やっても誰にも叱られなかった。大人たちはみんなしょうがないやつだって笑ってた」

「……そう、なんだ」

「舞の型を子供に伝えていくことが最も大切なことで、神楽はついでみたいなもんなんだよ。だから本番も唯が慌てて舞を止めたりしなければ何とでもなるのさ」

「そんないい加減なことで本当に大丈夫なのかな……」

「大丈夫! お客さんは誰も氷華の本当の型なんて知らないんだからさ。本当だよ、毎年やってる僕が言うんだから間違いない。それにね、僕は今まで一度だって型どおりにやったことがないんだから」


 胸を張って言う事でもないと思いながら、舞台の上では自分の感覚で好きなようにやっていることを話した。驚く唯には申し訳ない気持ちになったがこれが事実だから仕方がないと言って樹は笑った。


「大丈夫、大丈夫、いざとなれば、観客に分からないように助けてあげるから」

「でも……」

「じゃあさ、ちょっと舞台に上がって最後の予行練習でもしてみる?」


 樹の話を聞いて気持ちに余裕ができたのか唯の表情は和らいでいた。肩から少し力が抜けたようにも見えていた。

 そんな唯の手を引いて神楽殿へ上がる。樹は袖の方から舞台中央へと進む唯の背中を見送った。


 観客の居ない神楽殿は本番よりも随分と暗く光と闇のコントラストが強かった。

 舞台の上、最奥はまるで黄泉の入り口のように黒く、唯の美しい漆黒の髪はその闇に溶けた。逆に舞台の正面を照らす篝火は一斉に唯へと光を届け、雪のように白い肌を神々しく浮き立たせた。


 唯が舞を始めると光と闇が伏し目がちにする唯の微笑みを悲哀と歓喜とにかわるがわるに変えていった。

 唯が舞台の四方へゆるゆると流れるようにして足を運ぶ。

 立ち止まり両手を天に翳してひと回りするとその後に遅れて振り袖が舞った。


「――なんて綺麗な舞。上手くなったな唯……」


 このままいつまでも見ていたい、そんな美しい舞だった。

 しかしこれが樹が見た唯の最後の舞になった。

 この次の日、唯は神楽の舞台の上から連れ去られてしまうからだ。



 ――苦い感情が溢れだし胸の奥を埋め尽くして心が暗闇に塗り潰されていく。樹はその苦しみの中で妹の名前を呼んだ。


「――唯……」


 吐き出された息とともに音のない声が漏れた。


 樹にとって自分の目の前で唯が攫われた時の記憶はあまりに苦い。それは現在も普段の生活の中で突然フラッシュバックを起こして樹を苦しめている。夢に見ることも多かった。

 激しい動悸が起こり呼吸が乱れる。樹は窓の淵に手を突き、崩れ落ちそうになるのを堪えた。拳を強く握り締め、息を整え、眼差しを虚空へと投げた。


 あれからもう五年が過ぎようとしている。

 唯を探す日々も同じように年月を重ねてきてしまった。


  唯が攫われたあの日、樹が舞台の上で見た犯人は、こけ色の肌をしていて、黄色に光る爬虫類のような目を持ち頭には小さな角を生やしていた。

 犯人の姿を見た樹はすぐに鬼だと思ったのだが、それでも俄には信じられず、その時はまるでゲームや映画のキャラクターを見ている気分になっていた。

 事件の時に樹は鬼の言葉も聞いていた。鬼は唯の事を「鬼姫様」と呼び、迎えに来たといっていた。樹には「お前には俺の姿が見えているのだな」と尋ね、真の姿を見破ったということであろうか「同族の者か」と忌々しげに見てきた。


 事件の目撃者は樹だけではない。観客や楽師など大勢の人間がその場にいたのだが、その中の誰一人も鬼の姿など見てはいない。樹は事件後の事情聴取で鬼のことを伝えていた。しかし警察は、事件現場で大怪我を負った子供に同情するばかりで、子供の言葉を真の供述として受け止めなかった。


「警察には無理だ。唯を探す事なんて出来ない……」


 鬼を見つけ出せなければ、唯を見つけることなんて出来ないと樹は考えている。


 ならばどうすればいいのか。

 あれから樹は、何度もあの日起こった出来事を振り返って考えた。

 あの鬼は一体どこからやってきたのか?

 唯を連れ去った目的が何なのか?

 唯は何故「鬼姫様」などと呼ばれたのか?

 鬼はどこにいてどのように存在しているのか?

 鬼はあれ一匹なのか? 

 ――何故、自分は鬼だと言われたのか? 

 苦闘を重ねる日々。

 そのうちに樹は実家の収蔵庫にある古文書から鬼を探す事に辿り着いた。

 だがしかし、いくら調べても手掛かりなど見つけられなかった。


 そもそも人外の者など探すことが出来るのだろうか……。

 奮起と自責を繰り返す日々を重ねていくしかなかった。それは年月の経過に締め殺されるような救いのない日々だった。


 手にした古文書に目を落とす。樹は唇を引き結んだ。

 孤軍といえども鬼の存在に気が付けたのはまだ幸いである。手がかりは絶対にこの部屋にあるはずだ。樹の心は揺らいではいなかった。

 自分が行っていることを誰かに話したところで信じる者はいないだろう。

 けれどそれでもいい。

 自分だけが唯を探すことが出来るのだと考えればそこにまだ希望があった。

 樹は確信をもってこの収蔵庫にいるのだと思い己を奮い立たせた。


「やるしかない、僕がやるしかないんだ」


 歯を食いしばり波立つ気持ちを静めると、虚ろな眼が再び境内の様子を捉えた。

 深く溜め息をついて外の人々から視線を外す。見上げると青い空の中に早足で流れ去る雲が見えた。

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