氷華の舞
楠 冬野
第1部 時を紡ぐ者
第1話 序開
-1-
人里離れた山の中。
花冷えのする日の午後のこと。
大粒の雨の中に雪あられが混じり長い参道は薄く水雪で覆われていた。
深く立ちこめる霧は、悠久の歴史の彼方より社と人界の隔離を成していた。
身を押しつぶすような冷気により消された音。その無音の世界で自身の足音と息づかいだけを聞く。目的の場所はもう目の前だった。
正宮に向かって今、紅色の蛇の目傘がいそいそと進む。
しなやかな身のこなしで歩む女。しかし、路を踏みしめる女の足取りはどこか重かった。
長い参道を進む途中、傘に積もった
――やがて。
女が門へ着くと年経た門番がそろりと出てきて白頭を下げた。
「水音様、お疲れ様でございます」
老爺の息が冷気に凍えて白む。意を汲んだ彼女は
この社の筆頭陰陽師にして後継である
「ご苦労様、大婆様は?」
「既に奥にてお待ちになっております」
「そうですか」
水音はその場に笑みを残した。ただし、笑んだのは相手のことを思ってのことでは無く己の気を静める為であった。思うと同時に口を結び社殿の奥を見やる。
屋根付きの大きな門を潜るとすぐに大きな庭園がある。見るとそこは薄らと雪化粧されていた。
「――暦はもう弥生であるのに……。なごりの雪、というよりもここはまだ冬だな……」
「水音様、お召し変えをご用意いたしております。先ずはこちらへ」
外の様子を鑑みてあらかじめ着替えを手配していたのだろう、門番が手を差し案内をしようとした。だが、水音はそれを軽く制した。
「いや、構わない、無駄に大婆様をお待たせするのも申し訳ない。ここは急ぐとしよう」
水音の身体から青い光が放たれる。光が全身を覆うと、たちまち衣服を濡らした水気が針の様に飛び出して頭の上に集めらていく。宙に浮かんだ水の珠。それを水音は指差し操って雨の中へと還した。
若い神官に先導され薄暗い廊下を右へ左へと曲がり奥へと進むと、最奥に明かりの灯る部屋が見えた。
「大婆様、水音様が参りました」
部屋の前に着くと側仕えの巫女が恭しく頭を下げ水音の到着を告げた。
中から入れと声がしたがその声は
社の中は音を失った雪景色の如く静まりかえっていた。平穏がそこにはあった。
襖の前に立ち向こう側にある主人の姿を頭の中に浮かべる。戸が開くと御簾の向こうには微笑みを浮かべる少女が思った通りの姿で座していた。
「よろしいのですか? その様になされていても」
「構わぬ。他ならぬお前の前だ。それに、四六時中お婆の姿でいるのもつまらぬ」
水音は無邪気を乗せる声色を聞き溜め息をついた。愛らしい少女に悪戯な眼差しで見つめられ肩を落とす。いけないことだと思いつつも、あどけない姿を見せられれば更に心許なく思ってしまう。だがしかし、侮ることはできない。目の前の人物は紛れもなく自分の主人であり、古の戦いの記憶を持つ唯一の人物でもあるのだから。
「珍しいな、お前が浮つくなど。これはどうやら動きがあったようじゃな」
少女の目の奥が光る。水音はハッとして居住まいを正した。
「――して、
「いいえ。しかしながら
巫女覚醒の兆しを告げると少女が思い及ぶようにして一度視線を上げた。眼光はその鋭さを増していた。
「うむ、赤と白がな。……しかし蒼帝も頑迷なことよの、あの者には十二分な資質があると思うておるのだがな、あれはまさしく英雄の気そのものを秘めておると思うのだが……」
「力の片鱗は見せておりました。無意識で
「なんと! 無意識でか! そうかそれは流石といったところよの!」
「大婆様、最後までお聞きください」
「なんじゃ、神奈備じゃろ?」
「……その神奈備が、おそらくは
「なんじゃと! 神座を開いたと言うのか!」
少女の顔に驚きと喜色が浮かんだ。
「はい、神座など初めて見ましたが、間違いなくあれは神座と思われます」
「神座……金色の野に寿ぐ神獣達。空には瑞雲流れ、地には桃花が咲き乱れる神の園……」
「はい、まさしくそのようなものでございました」
「――そうか、神座をの……」
「しかし本人は全く無自覚のようです」
「……マジか」
神奈備とは
あの時、初めて神座を目の当たりにした水音が抱いた感情は歓喜よりもむしろ畏れの方が強かった。
その光景を目にしただけで水音ほどの術者が畏怖してしまうような神域。それをあの少年は無自覚に本人に意図するところなど全く無しに易々と開いてしまった。
神座を開くなどもはや伝説である。悠久の歴史を紐解いても神座を発現させることが出来た術者は数える程である。水音もまさか実際に目の当たりにすることになるとは思っていなかった。
水音の話を聞いた少女は黙して長考すると、やがてその姿を老婆へと戻した。
「大婆様、このまま放っておいてよろしいのでしょうか、私が付き添い導くことも出来ますが」
「……よい。今は未だ主様の予言されたことの範疇にある。それに巫女たちが目覚めたならば、奴らもそれに感づくであろう、いよいよ動き出すかもしれん」
「それならば、尚のこと……」
「いや、まだまだ事は始まったばかりじゃ、まずは様子を見ようではないか、なに、むざむざとやられはしないだろう、蒼帝もいざとなれば手を貸すはずじゃ」
「……しかしながら、加茂樹は神座こそ開いておりましたが、その他の能力については皆無であるといっても過言ではありません」
「――そうか……素地に破格の才を見せながらも未だ能力は目覚めずとは、なんとも危ういことであるな。しかしな、水音」
「はい」
「何もかも手取り足取りで育ってくれても、結局それは我らの独善で終わるじゃろう、我らが考える範疇でことが成るようならば戦いは千二百年前に済んでおる。それに自らの意思で物事に対峙してこそ人は育つというもの、そして己の運命も切り開けるというものじゃ。詰め碁の答えが分かっているのなら打たずともよい、先は分からぬ、要は駄目を取られぬことじゃ。今は未だ動く時ではない。それよりも……」
少女の強い視線が水音に向かった。
「――はい、あちらも目覚め始めたようです。ただし、鬼化は防げそうにありません」
「……そうか、それもやむを得まいの、どのみち鬼化を解くのはあの者にしか出来ないことじゃ、今は捨て置く」
「はい……」
「水音よ、これは千二百年続く化かし合いじゃ、今度こそ奴を完全に
「はい」
「大丈夫じゃ、今は辛いが、道の途中では必ずや鬼姫も救うことになる。またそうならねばならぬ。それもまた、あの者達の定めであろうよ」
「仰せのままに」
水音は膝の前に両手を揃えて首を垂れた。
「それより水音」
「はい、なにか」
話は終わった。用件が終わってから主の言い出す事は大抵ろくでもない。顔を上げて主を見るとやはりそうだ。老婆の目に悪戯な光が宿っていた。水音はまたかと思う。
「それはの、それはその……私も学校とやらを一度見てみたいのじゃが……」
「――大婆様、残念ながらそればかりは叶いませぬ」
「……うぬぬ、駄目か?」
「駄目です」
「どうしても?」
「どうしてもです!」
可愛くしょげる老婆を見て水音は溜め息を一つ溢した。
目の前の主人は雲のように掴みどころがない。話す事のどこまでが戯れ事なのか本気なのか。その姿にしても本当に老婆なのか少女なのか。在り様の全てが計り知れない。しかしこの人物は確かに物語を紡ぐ者である。それだけは間違い無い。
キャストが揃い始め、事態はついに動き始めた。新しい物語がここから始まる。
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