第18話 鬼火③

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 私は何を見ているのか。思うと同時に後ろで綾香が地に崩れた。


「綾香ちゃん、しっかりして! 立って綾香ちゃん! 逃げなきゃ!」


 必死に綾香を抱き起こして逃げようとするが、完全に脱力している人間などそう簡単に運べるものではなかった。


「おやおや、これは随分と気丈な娘さんだ」

「ほんにのう、我らを見て立っておられるとは威勢がいいのう」

「そうさのう、大兄者、兄者、躍り食いとは久しぶりですのう」


 どうやら日本語のようであるが、気丈だの、威勢がいいだの、躍り食いだのと話す化け物の言葉の意味が理解出来ない。


「しかしのう、食い物は二つしかありませぬぞ」

「ほんにのう、弟よ、確かに食い物は二つだうのう」

「そうさな……大兄者、兄者、食い物は確かに一つ足りませぬが、そもそも今までも等分などしておらぬゆえ、ここは早いもの勝ちということになりますのう」

「ではわしは、おとなしくなっている方を頂くとするかのう」

「ほんにのう、こまった奴じゃ、しからばわしは踊り食いの方でいくかの」

「そうさな、大兄者、兄者、わしも踊り食いということで、これは早い者勝ちとなりますのう」


 理解した。この化け物どもは自分達を食物として見ているのだ。躍り食いとはつまり動いている人間をそのまま捕らえて食すという意味なのだ。

 化け物の勝手な言い分を耳にしながら、累は必死に綾香を連れて逃げる手立てを考えた。

 ――ともかく逃げなければ。

 三匹の化け物から目を離さずに、綾香の肩の下に潜り込んで担ぐようにしながら少しずつ後ずさりをする。累の頬を汗が流れた。

 

 三匹の化け物がにじり寄ってくる。しかしこの時、累は化け物達に対して恐怖心を抱いていないことに気が付いた。

 怖くない。身体も萎縮することなく動く。それならば。

 

「――伯母様は、私が特別な存在だと言った。あれが、あの力がそうだというのならば……」


 つい今しがた自分の中から湧き出た不思議な力の事を思い出した。

 累は意を決して身構えた。彩香を背に庇い半身に構えて立つ。気持ちで負けていては話にならぬと意気を上げた。


「いただきますかの」

「ほんにのう」

「そうさの」


 三匹の化け物が一斉に動いた。


「――来た! は、早いっ!」


 動きは目で追えた。だが動きに反応することは出来なかった。

 咄嗟に屈みこみ綾香に覆い被さるようにして庇ったものの躱すことなど出来ないと悟る。やはり駄目だったか。累は、目を瞑り歯を食いしばって覚悟を決めた。

 ……数秒が経つ。累の体は何の衝撃も痛みも感じていなかった。


「なかなかに面倒な食い物だのう」

「ほんにのう、おかしいのう」

「そうさな……以前にもこのようなことがあった気がしますのう」


 累の身体から発する金と黒の光が化け物を退けていた。


「おお、そうであった!」

「ほんにのう、そうであったのう」

「そうさな、あの者は陰陽師やもしれませぬのう……。しからば、まずは奴の息の根から止めねばなりますまい」

「――オンミョウジ? この化け物達はいったい何を言っているの」


 相手の動きは速い。彩香を担いで逃げることは不可能であった。累は近くの店の物陰に彩香を隠して化け物に向かった。逃れられない。食べられるのは嫌だ。彩香を食べられるのはもっと嫌だ。累は戦うことを決意した。

 三匹を見定める。睨み付ける先で、化け物が三匹同時にニタリと笑った。


「いいわよ、来なさい!」


 累は三匹と対峙した。

 三匹の化け物は、小さいやつから順に縦一列に並ぶと、その隊列のまま累に向かって突っ込んできた。

 動きは見える。見えるので小さい奴の初撃は躱せた。次の化け物の攻撃も何とか避けた。最後に大きい奴が袈裟懸けで振り下ろした爪は躱すことが出来なかったので咄嗟に両手を出して敵の手首を捕まえた。

 鈍い衝突音を聞くと共に腕に痺れが走る。威力と重さは踏ん張る足に感じた。

 累は笑んだ。手応えを感じた。敵の攻撃は凌ぐことが出来る。やれば出来るものである。


 しかし、これならばと安堵したのも束の間。横腹に強い衝撃を受け、累は真横に飛ばされてしまう。宙を泳ぐ感覚、次に潰されるような圧迫。気が付けば飛ばされた先で街路樹の幹に身体を打ち付けられていた。

 激痛が全身を駆け巡った。受けた衝撃により視界が飛ぶ。息が出来なくなった。

 呼吸を、呼吸を、と必死に口を開くが上手く空気が吸えない。

 不味い。このままでは殺されてしまう。と、そう思った時、累の胃が何かを吐き出そうと動く。胃酸が食道を駆け上がり喉をこじ開けた。


「――ガ、ガハッ! はぁ、はぁ、はぁ……」


 累は嘔吐と共に呼吸を取り戻した。

 すり切れる肌に血が滲む。着衣も所々が破れていたが気に留めている余裕は無い。

 口の中には鉄の味が広がっていた。肋も、手も足も、そこいら中が痛んだ。

 地に伏せる身体が歯を食いしばる。手は地面を突き身体を持ち上げる。何とか片足を前に出して片膝を突く。破れた袖から剥き出した前腕で血が滲む唇を拭った。

 負けられない。負ければ喰われてしまう。


 だが、それからの累も防戦することで精一杯だった。

 横から張り倒される。正面から腹に蹴りが食い込む。髪を掴まれ放り投げられる。

 累の身体は、建物の壁や路面に何度も叩きつけられた。

 累の黒髪は乱れ、衣服はボロボロで全身が損傷だらけになった。


「どれ程と思えば、大したことはなかったのう」

「ほんにのう、もうちと遊べると思うておったがの」

「そうさのう、しかし大兄者、兄者、よう見てくだされ、あやつはちいとも壊れておりませぬぞ」


 朦朧としながら化け物の会話を聞く。既に上半身を起こせぬ程に消耗していた。肩幅よりも広げて立つ両足もガクガクと震えている。気力だけが累を支えていた。それでも累は諦めなかった。 

 ほんの一刻であったが、会話により敵の攻撃が止んでいたことに気づく。

 必死の累はその隙を見逃さなかった。

 肩で息をする累は、大きく息を吸い込み酸素を全身に取り込んだ。

 ここしかない。

 空気を一気に体外へと吐き出し、同時に気力を振り絞った。

 それは、累の額から流れ出た血が頬から顎に伝って地面に落ちる刹那だった。


「消えろ!!」

 念じて叫ぶ。

 累は気力を発散させた。強く強く。一心に相手を破壊することだけを念じて両手を前に突き出した。

 身体は累の期待に応えた。

 両手から放たれた金と黒の光の帯。累の攻撃が大と中の化け物を一瞬で貫く。二匹が同時に消し飛んだ。これで残すところは一匹になった。

 膝が笑う。全身が小刻みに震える。限界と言う文字が脳裏に浮かんでいた。


「まだよ、まだダメ。まだ一匹残ってる」


 累は、最後の一匹を倒すべく右腕に力込めた。まだ気力も残っている。まずは呼吸を整えなければ。累は次の戦闘に備えようと構えた。だが、これでなんとかなりそうだ。と、そう思った矢先のことだった。

 残った一匹を見ると何故か不敵に笑みを浮かべている。


「なに? なんで笑っているの?」


 化け物の笑みを怪訝に思い警戒していると……。

 残った小さい化け物の影から、大と中の化け物がひょっこりと顔を覗かせた。


「――え?」

 累の視界の中で、化け物が増えた。いや、その数を元に戻した。


「今のは、危なかった」

「ほんにのう、今のは危なかった」

「そうさのう、だから先程も言うたではありませぬか、油断は出来ませぬぞと」

「言うとらんわ!」

「言うておらぬぞ!」

「はて、そうでしたかいのう?」


「――ダメだ、こんなの。こんな奴らに勝てるはがずない……」


 ここで累の心は折れた。ギリギリのところで踏ん張っていた気力は断たれ思考が停止してしまう。

 三匹は元に戻り、累は暴力の雨を受けた。

 霞む目、脱力する四肢、血しぶきをあげる身体。既に生きていることが不思議とさえ思えていた。なんとか致命傷だけは避けられていたが成す術はなく。ついに累は気力も体力も尽き果てる寸前まで追い込まれてしまった。


「そろそろかのう」

「おお、そうであるの、頃合いであろう」

「そうさな、しからば」


 これでようやく終わるのか。ここでもう自分は喰われて死ぬのか。

 呆然としながら地面に横たえる身体。意識はもう指先一つ動かすことができなくなっていた。

 ヒタヒタと迫り来る化け物達。覚悟が目を閉じさせた。だが、三匹の化け物が累を無視して素通りしていく。


「――しまった! 綾香ちゃん!」


 顔を向けると、大きい化け物が獲物を吊すようにして綾香の両手を捕まえていた。


 ――嫌だ! やらせない! 動け! 動け! 動け私!!


「おおおおおお!」


 絞り出される雄叫び。乾いた布を更に絞るような抗い。累は最後の力を振り絞って大きな化け物に突っ込んだ。突っ込んでいった。……突っ込んだが、それを残る二匹に阻まれた。

 再び舐めさせられた地面から、大きな口を開ける化け物を見ていた。


「彩香、ちゃん……」

 震える口が親友の名前を呼んだとき、累の目の前で綾香を収めた大きな口が閉じる。化け物の口から滴る赤い血。残った両腕だけがポトリと地面に落とされた。

 累の全身から力が抜けていく。累は空になった心で雲一つない春の晴天を見た。


 喰われた。喰われた。喰われた。喰われた……。

 大事な親友が喰われてしまった。この世でたった一人の大切な友達を守れなかった。

 なんでだ。なんでだ。なんでだ。なんでこんなことになる。

 頭の中が悔恨と怒りと憎悪に埋め尽くされていくと、黒く塗りつぶされた心の奥底から何かが顔を覗かせた。


「はて、これはまた、味がせぬではないか」

「なんと、先程までは旨そうであったのにのう」

「そうさのう、またやられましたかのう……」


 殺された。殺された。殺された。殺された。

 何故だ。何故だ。何故だ。身の回りで何故こんな悲劇ばかり起こされるのだ。


「私か、私のせいなのか、私が悪いのか。――違う! 違う! 絶対に違う!」


 累は立ち上がり天に向かって吠えた。


「さて、あれの味はどうであろうな」

「ほんにんのう、あれこそは旨いであろうかの」

「そうさな、あれは大丈夫で……」


 獲物を食おうとして近寄ってきた化け物が、その途中で歩みを止める。


「何故、私を狙う……私が何をした……父様と母様が何をした! 綾香が何をした!」


 心の奥底から噴き出した怒りが気勢を伴って辺り一面に広がる。

 吐き出した怒りが空に黒雲を呼び、嵐を呼んだ。

 累が引き起こした暴風が車を横転させ、設置物を吹き飛ばし、街路樹を薙いだ。


「違う! 私のせいじゃない! 私は何もしていない!」


 ――累はその怒りの中で悟り決意をする。

『これは、私のせいではない。全て、お前たちが勝手にやっていることだ。お前達はいつも勝手にやって来て、勝手に殺して、私から全てを奪っていく! 許せない! 私は、お前達を絶対に許さない。あのビルの上にいた男と女も、男と女の仲間達も、あの男と女が操っているこの化け物どもも絶対に許せない! 許すことなど出来るものか! 殺す……。全部、全部、全部、全部殺す!』


 憤りの感情も、歎きも、悲しみも、全てがない交ぜになる。激情が全身を駆け巡った。

 自我が吹き飛ぶ。自身が何者かによって濃く彩られていく。黒く、黒く。

 風に吹かれて靡いた髪に目を留めると、自慢の黒髪が青紫に変化していた。

 存在が何か別の物になってしまったような感覚。累は無地になった心で思い付くままの台詞を吐き出した。


「お前ら、よくも私の大切なものを喰いおったな」


 途轍もない。自身からあふれ出す力を累は俯瞰して見ていた。

 累の体から怒気を纏った金と黒の光が放たれると、たちまち三匹の化け物は委縮し動けなくなった。


「な、な、なんじゃと! あり得ぬ。このような、け、桁外れの覇気」

「あ、あ、あ、あ……」

「お、お、おまえ、い、いや、貴女様は、ま、まさか……」


 累が軽く睨みつけるだけで、三匹の化け物が震えあがった。


 身体から滲み出す金と黒の波光が、渦を巻くようにして辺りに広がりを見せる。

 その光の渦が気勢と共に弾けると、累の足元に落ちる影の中から一匹の大蛇が這い出してきた。


 うねりを見せる黒に金の斑を描く胴体。血色のような赤い瞳を持つその大蛇は累を守るように取り巻くと、フッと一つ笑んでから三匹の化け物に語り始めた。


「三紫の翁よ、久しいのう」

「こ、皇陣こうじん様!!」

 三つの声が揃った。


「鬼姫様の御前でこの様な狼藉を働くとは、ずいぶんと威勢がよいではないか」

 言って大蛇が三紫の翁を睨み下げる。

 観念した三匹は何も言わずに首を差し出した。


「フン、覚悟を決めたか。潔いよいことだな。だが、お前ら如きいつでも始末できる」


 殊勝に首を垂れた三紫の翁を見て大蛇が笑った。


「ははあ、いかようなお裁きでもお受けいたします」

「慌てるな。そうよな……。我も姫様もたった今目覚めたばかりであるからな。まずはお前らの知っていることを話してもらうとするか」

「はい、なんなりと」

「お前らを使っておるのはやはり朱鬼か?」

「いえ、私どももまだ朱鬼様には逢うてはおりませぬ。わし、あ、いや私どもは、面妖な人間の女によって封を解かれ、只今は、氷狼神社なる場所におる巫女を喰らわんとしてそこに向こうておるところにございます」


「氷狼……。その様な社の名など知らぬがのう……」

「なんでも、そこには呪力甚大なる巫女がいて、その魂を喰らえば鬼神になることが叶うとか……」

「ハハハハハ! なるほどの」

「あ、あの、何か……」

「お前らは、たばかれたのだ。お前ら如きがそのようなものを食っても鬼神にはなれぬ」

「――な、なんと」

「まぁ良い、事情は分かった。それに、お前らの封を解いた女の正体も分かった。そんな浅知恵を見せる奴など一人しかおらぬ」

「は、はぁ……」

「三紫の翁よ、今回の事は私が執り成してやろう。感謝せよ。そして、これ以降は姫の為に働け」

「ははあ、ありがたき幸せにござりまする。して、私どもはこれから何をすれば……」

「おお、そうであるな、それはそのままでよい」

「はぁ……」

「そのまま、氷狼神社とやらへ行って、その巫女とやらを捉えて姫の元へ連れてまいれ」

「ははっ! この三紫の翁。必ずや姫様の元へ巫女の魂魄をお持ち致しまする」

「姫様は、目覚めたばかりで今は無理をさせられぬゆえ少しお眠り頂いた。お前ら命拾いしたのう。ではしっかり働けよ」


 皇陣は目を細め一度大きく笑った後で累を大事に抱え込んだ。

 周囲に深い霧が立ち込める。三紫の翁は去り、累の意識と記憶はここで断たれた。

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