第10話 魑魅魍魎

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 黒い夜。蔓延はびこる雲が月明かりを遮り暗黒を誘う。

 眼下に揺れる三つの黒影は心ばかりの贈り物。「さてさて」あの者らはこの僅かばかりの心配りを気に入ってくれるだろうか。

 暗闇の中に隠伏いんぷくし、しばらくの間その異相の者の様子を眺めた。

 これは前菜をちまちまと食すような行い。なれど飽くことはない。むしろ、先へ先へと急いて、待ち受けるコースを味気なく進めてしまうことこそ惜しく思われる。

 己が無意識のうちに笑みを漏らしていることに気付き女は唇を嘗めずった。女の胸には更なる喜びが涌き出ていた。


「始まるのね。これからまた……」


 この時を千二百年も待ったのだ。これを愉しまずにしておれようか。

 時の彼方のしくじりも、今となっては懐かしい。相手に先んじて目覚められたことは僥倖だった。仕込みはもう十二分に了している。何もかもを盤上に乗せることが出来た。

 後はただ、指すのみである。


 桃花よ、先手は打ったぞ。お主はこれをどう受ける。

 とはいえ、今生にあの日の桃花はいない。

 化生けしょうとは違う人の不自由。その命の短さ故に長考は許されない。それでも桃花は手を打っている。後の世に、予言と称した棋譜を残した。

 今、指し手は変わった。その者がどれ程の力量を見せるのかは分からない。しかし桃花が企てた棋譜は既に読み切っている。上々……。

 今世の桃花は如何に。願わくば、先代の上をいってほしいものであるが……。

 女は、含み笑う。

 背骨を這うように立ち上るゾクゾクとする快感をこれから何度も何度も味わえる。

 弄り、痛めつけ、哀願を強いてから虫けらを始末するように殺す。喜悦を思うだけで昇天してしまいそうになる。くすぐられるような悦楽を味わいながら女は快を表情に浮かべた。

 黒影が這いずる。いよいよと動き出した。闇の中から眺める女は自らの手で封を解き開放した異相の背を見送った。



「嬉しいのう、兄者。こうしてまた世に出られるとは」

「ほんにのう。弟よ、我らが忌まわしくも封じられてどれくらいになるのかのう」

「そうさなぁ。大兄者、兄者、かれこれ四百年ほどになりますかのう」

 

 久方ぶりに娑婆にあるを、肩を揺らしながら喜ぶ化け物ども。

 深い山の中。今はもう廃墟と化した古寺の傍らで三匹の異相の者が雀躍する。


「我らを放ったあの女には感謝をせねばなるまいのう」

「ほんにのう。あの女には感謝せねばのう。しかしあの女、どこかで見た事がある気がするのじゃがのう」

「そうさな大兄者。あれは確かに見たことがありますわいのう。確か太閤の嫁御ではなかったですかいのう」


 粗末な衣を纏った三つの異相の者どもが思案をする。


「小さい弟よ。お主、先刻、我らが四百年眠らされておったと数えたではないか。人間がそのように長生きをするわけもあるまい。あれは別の女よ」

「ほんにのう、小さい弟よ、あれは別の女じゃよ。それにのう、太閤の嫁御は徳川に殺されたではないか」

「そうさな、確かに徳川に殺されましたわのう。しかしよう似ておったわい」


 紫色の肌、禿げた頭に残った白髪を肩まで垂らしニタリと笑う異相の翁。

 古い時代の飢餓農民のような出で立ち。物の怪のことなど、すっかりと時の彼方に忘れた現世の人間どもには、あれが人に見えるかも知れない。しかし、それもまた面白い。


「旨かったかのう? 喰えばあの女は旨かったかのう」

「ほんにのう、弟よ。喰えばよかったかのう。しかしあれはちと不味そうに思えたがのう」

「そうさな、大兄者、兄者。しかるにあれは喰えませぬぞ。あれからは毒の気配がしましたでのう」


 異相の翁達。眼は眼窩がんかに沈み込み、その眼光は妖しい光を放っている。口は耳まで裂けていた。


「毒か、それならば喰わなくてよかったの。それよりもあの女が言っておったことは真かのう」

「ほんにのう。喰わなくてよかったのう。それよりも小さい弟よ、女が申しておったことは真の事かのう」

「そうさのう、大兄者、兄者。真偽の程はともかく、儂は今、腹が減って腹が減って仕方なきことにて、それは道々たらふく喰いながら考えれば宜しかろう」


 異相の者どもが麓へ向けて歩き出した。大中小、三つの黒影がぞろぞろと列になって廃墟を後にする。

 放たれた異相の者のことを一口鬼と呼ぶ。人間を一口で喰らう化け物だ。大きな口が特徴の鬼で、その性質は狡猾で貪欲。


 ――初めから一口鬼では少し荷が重かったかしら。


 女が目を細めて笑む。


 懸念はあった。一口鬼は雑魚とは違い多少の知恵もあり力もある。その一口鬼の種の中でも、女が放った鬼どもは殊更に格上の者であった。他にはない三匹特有の特殊技能も持っていた。小手調べにしては少々大物が過ぎたかもしれない。

 しかし、今更これを悔いる気などない。雑魚をぶつけて事が淡白に済んでしまうのは愉快ではない。これで良い。やはり初手から恐怖の底を味合わせ、怯え逃げ惑う様子を堪能したいと欲望が勝ってしまったのだから仕方がない。


「まぁいいわ、私って昔から欲張りですもの。でも、大丈夫かしらねぇ。あの子達、まさかこれくらいですぐに死んじゃったりしないわよねぇ。せっかくこれまで生かしておいたのだから精々愉しませてもらわなくちゃいけないのよ。死なないでね。フフ、フフフフ、アハハ、アハハハハ!」


 腹を抱えて大きく笑う女の声が誰も居ない山奥の闇の中に響いた。


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