第44話 上狛優佳

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 腕を下げ切先を下げたまま、優佳は前へと飛び出した。


「フン! 死にぞこないに何が出来る!」


 迎え撃つ女が錫杖を構えた。

 風のように走る優佳の顔はほころんでいた。それが、手ずから唯を救うことが出来る喜びによるものなのか、記憶を取り戻し本当の自分に戻れたことによるものなのかは分からなかった。


「そんなこと、今更、もうどうだっていいわ」


 捨てるように優佳は言った。

 雪水丸の一閃が的を捉える。女はそれを錫杖で受けた。

 錫杖と雪水丸が交わり火花が散った。拮抗する力で押し合う金属がギリギリと音を鳴らす。血眼の敵は歯ぎしりをたてながら踏ん張り雪水丸を押し返そうとした。


「くっ!」


 思わず力負けしそうになったそのとき、失った腕から力が出現する。


「樹ちゃん!」


 樹の力添えにより両手でしっかりと太刀を持つことになった優佳は一段と太刀に気合いを込めた。その優佳の意気に応じるようにして雪水丸の刀身が純白の光を増した。


「おぉぉぉ!」


 雪水丸は錫杖ごと敵を断った。直後、女の体に幾筋もの閃光が走り抜けていった。


「ンガ! こ、こんなことが、こんなことがあって……」


 切り刻まれた女の体が細切れになって崩れ、最後にくうに残った頭が支えを失ってポトリと地面に落ちた。


 ――冷気が辺りを漂う。

 屋敷は完全に焼け落ちて炭になりくすぶりをみせるだけとなっていた。

 見上げると立ち込めていた厚い雲はどこかに去り、そこに真円の月が浮かんでいた。そこで再び優佳の頭の中に声が聞こえる。


『優佳さん……。このあとは約束した通りに――』

「分かっていますよ、樹ちゃん。私はここで、といっても私はもう動けません。それに……それに私はもう直に消えるのでしょう」


 空を見上げながら優佳は答えた。


『いや、僕が、僕がきっとあなたも救ってみせる。だから……』

「――あなたには、これからまだやることがあるのでしょう?」

『……はい』

「私のことは気にしなくていいわ、大丈夫よ」

『……』

「そんな顔をしないで樹ちゃん、私、感謝しているのよ。あなたは、あの時死ぬはずだった私に時間をくれた。そしてこんなに美しく成長した娘の姿も見せてくれた。そりゃ出来れば唯の花嫁姿も見たかったし、孫? そうねぇ孫なんてものも抱いてみたかった。――でもそれは贅沢というものね。あ、いけない。これから試練に立ち向かおうって時に話すことでもないわね。ああ、何言ってるのかしら。これで私の時間が終わるのかって思ったら急に平和ボケをしちゃっているわね」


 血も流す事が出来なくなった仮初めの体から涙が流れていることが不思議だった。


「やだ、泣いてる。おかしいよねこれって、この身体が式であることなんてもう分かっているのに……」

『……優佳さん』

「さあ、ここはもう済んだわ。あなたはあなたのやるべき事をなさい」

『優佳さん、必ず、僕は必ずあなたを助けに来ます。だから気持ちを強くして待っていてください。あなたの魂は強い。だからきっと大丈夫です』

「はいはい、わかりました。私は賢くここで待っていますよ。だから樹ちゃんはあちらで存分におやりなさい」


 諭すように話す。子供の姿の樹は頷き後ろ髪を引かれるように何度も振り向いて去っていった。


 ――さて、次は我が娘のことね。踵を返して優佳は唯のもとへ歩み寄る。


「――あ、あの……」

「唯、今度はあなたの番よ」

「……」

「氷狼神社へ行くんでしょ」

「…………」


 そっと唯の肩に手を乗せると、娘は肩に置かれた優佳の手にそっと自分の手を重ねた。伝わる温もり。繋がる想い。とたんに唯が優佳にしがみ付く。唯は優佳の胸の中で激しく声を上げて泣いた。


「私……私……。あなたを知っている……」

「――それはそうね、少しの間だったけど、私は唯のお世話係でしたもの――」

「違う! 違うの! 違う! 私はあなたを知っているの!」


 唯は小さな子供のように泣きじゃくった。


「あなたは! あなたは! ――知らないはずなのに、覚えていないはずなのに……」


 唯が何を語ろうとしているのかが分かった。しかしそれに応える訳にはいかない。優佳はそっと唯の身体を離した。


「しっかりしなさい、唯。 あなたにはまだ為すべきことがあるでしょう。今は余計なことなど考えている場合ではありませんよ」

「……」

「さぁ、唯、氷狼神社へ行きなさい。樹ちゃんが待っているわ」

「樹、ちゃん……」

「樹ちゃんは、あなたのことを大切に思ってくれている家族。そしてあなたが大好きだった人よ」

「…………」

「皇陣様」

「うぬ」

「どうか唯をお願いしたします。これから氷狼神社で起こることも尋常なことではございますまい」

「うぬ。承知しておる」

「左様でございますか、皇陣様は何もかもご存じで」

「ここで全ては明かせぬがな」

「分かりました。ならば安心して逝けます」

「おいおい、先程、桃花が申しておったであろう。そなたは唯様の為にもここで待っておるがよかろう。なに、案ずるな。これは時の必然である。ならばそなたもまた歴史に守られておるはずである」


 皇陣の慰めの言葉には答えずに優佳は黙って丁寧に頭を下げた。

 その優佳を暫く眺めた後、皇時は唯に向き直り言った。


「では、唯様、いざ氷狼神社へ」


 唯が振り返って優佳を見つめる。


「あ、あの……。この後の件を片付けて必ずここに戻ります。私はあなたを、きっとあなたを救ってみせる」


 瞳に光を湛え、力強く語る娘の姿を見て優佳は言葉に出来ぬほどの幸福に包まれた。


「はいはい、分かりましたよ。気を付けていってらっしゃい」


 送り出す言葉。それは、唯の想いを否定しないまでも名乗らないと決めた優佳の最後の言葉だった。

 優佳は、皇陣の背に乗って氷狼神社へと飛び去る娘をいつまでも見送っていた。

 鬼姫と桃花の邂逅がどのようなものなのかは分からない。名を取り戻した娘が狂気を伴った鬼姫に転じることはもう無いと思えるのだが……。

 優佳はどうか娘が無事でありますように、事が上手く成せますようにと切に願った。

 不安はない。子供の姿で現れたあの桃花には何者をも超越する力を感じた。それに、あそこには仲間と本物の上狛水音がいる。赤と白の巫女も先程の樹と同じように力を見せたなら、そこになんの憂いがあろうか。

 目を凝らしても空に唯と皇陣の姿はもうない。優佳は、さてこれから私はと残された時を思う。

 しかし、どうやら今すぐ急にあの世へ行くという事は無さそうだと安堵した時だった。優佳の背筋を悪寒が走った。振り向くと、そこに宙に浮かぶ死んだはずの女の顔があった。


「な、お前!」

「ふふ、ふふふ、あはははは!」

「……」

「まったく、おめでたいやつらだ。累の呪が解かれたわけではあるまいにの」

「なんだと!」

「皇陣はまだ呪の中に縛られていたであろう、もう忘れたか?」

「それは!」

「鬼姫が己の名を知ったところでどうなるものでもないぞ、あれに掛けられた呪はそのように易いものではない上に鬼姫自身ではどうにもならぬものだ」


 笑う女を見て優佳が太刀を構える。


「どうしようというのだ。我を斬るか? 斬ったところでどうなる。何も変わらぬぞ。これは我の本体ではないゆえの。あはははは」

「お前は何者だ!」

「我か、教えてやろうか。我こそが鬼灯累である」

「な!」

「せっかくだこれもついでに教えてやる。我は真中唯の中に住まう呪である。だからここで我を斬ったとて別に私が滅びるわけではない。あはははは」

「やはり、おまえは黄玉ではなかったか!」

「我が、黄玉様であろうはずがない。恐れ多い事だ」

「さて、我もあとわずかで消える。消える前にお前に、もうすぐこの世から消えて無くなるお前に一つ良い事を教えてやる」

「……」

「鬼灯累の呪を解く方法だ。どうだ、聞きたいであろう?」

「呪の解法げほう……」

「そうだ、解法だ。それはの、その方法とはズバリ、累の心の臓を貫くことだ」

「――な、そんな!」

「ほほほほほ、まぁ慌てるな。これは先代の桃花も行ったこと。そしてその桃花に心の臓を貫かれたはずの当時の鬼姫がそなたら真中の始祖となっておる事を考えれば……」

「……」

「そうだよ。先代の桃花はそれを見事に見抜いてやって見せた。しかしの、我等も同じ轍は踏まぬ。これは遊びである。ならば以前のように簡単に事が済んでしまっても詰まらないであろう。だからの、当事者らが最も苦しむように仕掛けは何重にも施してきた。さて、当代の桃花はどうであろうのう? 累の中にある呪の秘密に気付けるかのう? また、気付けたとしても情のある者が果たして累の心の蔵を貫くことが出来るのかのぉ? しかもじゃ、当代の桃花は未熟である上にその魂に鬼を抱いておるときた。血で血を洗うぞ、これはよい見世物ではないか。クククク」

「くっ! この外道が!」

「おお、嬉しきかな、なんという誉め言葉か。さて、この後、鬼姫が桃花の中の鬼に食われるか、桃花が鬼姫によって死ぬのか……楽しみよのう。おお、そうそう我は滅びてないゆえに見物も出来るが、お主にはもう無理であろう。三途の川からでも見物するか? あはははは」

「黙れ!」


 叫ぶ優佳の太刀が宙に浮かぶ首を叩き割る。


 ――黄玉様の仕掛けは実に細やかでの、真中唯は氷狼神社へ辿り着いた途端に鬼姫と化すように仕組まれておるぞ……。

 

 唯に取り憑く呪は去り際に不吉を残して風の中に消えた。


 優佳はもう一度空を見上げた。つい先程まで銀色に輝いていた満月が血の色を帯びて赤くその色を変えていた。優佳は右手に持つ雪水丸の柄に力を込めた。


「唯……樹ちゃん……」

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