第68話 目覚め

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 そこは薄暗い岩穴の中だった。踏み入れば思わず襟を閉じてしまうほどの冷気があった。

 岩穴の入り口で、老婆は押し黙りその場所を眺めて立ち尽くした。

 氷狼神社本殿奥にこの様な場所があるとは凡そ見当もつかなかった。

 

 老婆は悔恨の念を持ちそれを見ていた。彼女は心を悲痛の色に染め追憶をした。

 振り返れば、悲しみと自責の念に胸が締め付けられて息が苦しくなった。

 そうして老婆は、あがないを乞うようにしてその人の名を口にした。


「……優佳殿」


 声を出せばその音は震える。涙で潤む眼は瞬きもせずにひたすらその淡い青を見た。老婆の目にしているものはこの広い空間の、高い天井に迫るほどの大きな氷塊。青の光を発するその源は現在に至っても霊気を放ちその中に眠る者の肉体を優しく包み込んでいた。


「――あの時、わしにもう少し配慮があればあのようなことにならずに済んだ……結果、あなたはわしを庇って傷ついてしまった……。全てわしの責任だ……」


 激戦を終えた犬童澪はその足のまま、両親と共にこの氷狼神社本殿奥にある封印の間に来ていた。この場所に導いてきたのは加茂樹であった。

 五家の親達は八郎に連れられここに匿われていたというが、既に彼らの姿はない。そこにあるのは氷棺の中に収められた真中優佳の冷えた肉体だけであった。


 目の前にある骸。冷気を放つ氷棺の中で真中優佳は柔和な微笑みを浮かべていた。まるで氷棺の中で傷ついた身体を休めているかのようであった。

 加茂樹、上狛和男、上狛千佳の三人も優佳の亡骸を黙して見つめていた。


 ――どれ程の時間が過ぎただろうか、ポツリと老婆は憂いの言葉を吐いた。


「姿はあの頃のまま美しい……しかし、あなたはもういない」


 老婆の声を聞いてか聞かぬか加茂樹がゆっくりと前に歩み出る。


「銀鬼よ、いったい何をしようというのじゃ。優佳殿はもうおらぬ。わざわざその遺体を傷つけるような無体は……」

「水音さん、心配しなくていいですよ」


 樹はやんわりと静かな声で老婆に答えた。


「み、水音さん?」

「はい、水音さん、と呼びましたがそれが何か?」


 違和を感じたのは名の呼ばれ方ではない。先程、巫女達に向けて宣戦を布告した銀鬼とは思えない柔らかな物腰に澪は戸惑ってしまったのだ。


「水音、もう犬童澪である必要は無いんだよ」

「そうよ、水音、あなたはもう、ありのままで生きればいいの」


 混乱する老婆に父母が語りかける。


「そうでしたね……父上……母上……」


 鬼となって蘇っていた父母も昔と変わらず優しかった。父母に言われ、そこでようやく己の名が上狛水音であることを思い出し自覚したことが不思議だった。それでも今更、犬童澪として生きなくてもよいと言われても何をどうしていいか分からなかった。


「水音さん、そろそろ姿を元に戻してもいいんですよ」

「あ、ああ……」

「式に入っていた優佳さんの有様を少しでも長く留める為にそうしていたのでしょう?」


 樹に言われて老婆は頷く。澪はあの戦いの最中にもずっと危惧を抱いていた。

 犬童澪が本来の上狛水音の姿に戻ってしまえば、式に宿った優佳の寿命を縮めることになるだろう。優佳は、自我を取り戻していたとはいえその存在は上狛水音である。それでは現世に二人の水音が存在することになる。無理を行えば世の理を破綻させ世界に矛盾を生じさせてしまう。


「まだ心配ですか? 水音さん」

「あ、いや、もう優佳殿は逝ってしまっておるでの、それは……」


 もう大丈夫だということは水音にも分かっていた。

 しかし……。

 優佳の魂を救う為だったとはいえ、結果的には彼女を騙していたことになる。水音はそのことに痛みを抱いていた。だから上狛水音の姿に戻る事に戸惑いを感じる。たとえそれが本来の自分の姿であっても。


「罪の意識ですか?」

「え?」

「図星ですか?」

「……」

「水音さん、あなたがそれを思う必要はない。だってそれは僕が桃花の予言と称して行ってきた事なのだから」

「しかし……」


 樹に言われてみればそうであった。水音はこれまでずっと忠実に桃花の予言を実行してきた。その桃花の予言は目の前にいる加茂樹、いや銀鬼と名乗る者の企てであった。


「銀鬼よ……お前は何者なのだ。何をしようとしているのだ」


 水音は尋ねた。声にはもう力が無かった。

 気は重い。どうしようもないくらい塞いでいることが分かる。

 何もかもが嘘のように消え失せていた。失ったものを数えればキリがない程だ。優佳を失い。上狛の家を失い。仲間を失った。その上に鬼と言われた水音は、鬼の仲間とみなされて敵にまわってしまった。


「――じゃが、そうではないの……」


 水音は首を振る。違うな、と思う。自身の事などどうでもいいのだ。

 今、水音が心に抱いているのは悔いる気持ち。そこにある悔恨の始まりを見れば、せめて優佳だけは救いたかったと苦しくなる。

 やりようはあった。皆を、彼女を救おうとしていた。しかし優佳は水音の手を振り切って戦いに参加し、己はそれを許してしまった。結果、優佳は娘を庇って命を散らした。

 ……今はもう、後悔しても遅い。散った命は戻らない。

 水音は己の甘さを呪いたくなった。


 消沈する水音の吐き出した問いかけに、樹は微笑みを答えとして返してきた。

 慰めなど、願い下げである。


「……」

「僕が何者なのか、水音さんの疑問には答えますよ。でもその前に、話をするならばこの場にもう一人加わってもらわなければならない人がいます」

「もう一人?」


 水音が眉根を寄せると、樹が優しさを瞳に浮かべて頷いた。

 樹が青く輝く氷棺の前に進む。


「蒼姫よ、準備はいいかい?」


 樹は蒼帝の大太刀に軽く声を掛けて構えを取った。


「――ちょ、ちょっと待て、銀鬼。お前、何を、まさか、止めてくれ! 頼む、優佳殿には、どうか優佳殿には手を出さないでくれ!」


 樹が優佳の身体を消そうとしているのだと思った。だから水音は頼んだ。しかし樹は動き止める気配を見せない。水音は必死になって樹にしがみ付き懇願した。


「頼む、お願いだ。どうか優佳殿には!」


 惨いと思った。これ以上自分に惨劇を見せてどうしようというのか。

 そんな時、そっと水音の肩に優しく手が触れる。母の千佳であった。水音は振り返って千佳を見た。


「母上、銀鬼を、どうか加茂樹を止めて下さい! 優佳殿は母上のたった一人の妹ではありませんか!」


 母に縋り訴えたが、母は黙って首を振る。


「……何故」

「水音、違うのよ」

「――違う?」

「そう、誤解よ。桃花は優佳を傷つけようとしているのではないのよ」

「え?」

「よく見ていなさい、水音」

「……見ていろとは、なにを」


 母に言われるまま加茂樹の様子を見た。

 蒼帝の大太刀を構えた加茂樹の全身から温もりのある光が溢れ出していた。


「こ、これは桃花の気……」


 加茂樹が、その気を太刀に込める。蒼帝の大太刀が優しく緑色の光を瞬かせた。直後、圧倒的な覇気が樹から立ち上る。彼は狙いを定め、強靭な氷棺をまるで気にする様子も見せず太刀を振るった。樹の手にした大太刀が氷共々真中優佳の身体を貫いた。


「――やめてっ!」

 水音の叫び声が岩穴の中に反響した。

 氷棺が見る間に粉々となって砕け散ると中から真中優佳の身体が現れた。直ぐに和男と千佳が駆け寄って崩れ落ちる優佳を抱き受けて支えた。


「……父上、母上」

「大丈夫だよ、水音」


 父が言った。 何が? と思った。

 優佳はもう死んでいる。それなのに何をしているのだ。

 父は大丈夫だといっているが。……確かに水音の目の前で優佳の傷は見るうちに綺麗に無くなっていっている。しかし、たとえ桃花の治癒する力で優佳の傷を治しても、彼女の魂はもう現世のどこにもない。

 生きる屍など笑えない事だと水音は苦い顔をして、優佳からそっと顔を背けた。

 水音の心が更に苦い思いに押しつぶされそうになったその時だった。

 水音の耳が小さな声を捉える。


「――う、うう……」


 そこに弱々しくも見知った気を感じた。ハッとして水音は顔を上げた。


「――ま、まさか……まさか、優佳殿、なの、か?」


 両の眼からどうしようもなく涙が溢れた。

 感情が一気に噴き上げる。涙は止めどなく流れ、皺まみれの老婆の顔はさらに醜い様になった。それでも構わない。

 嗚咽に噎せ返り言葉も出なかった。思いのままに水音は肩を揺らして泣き続けた。

 その水音に向けて生き返った優佳が微笑みかける。


「――し、信じられぬ……優佳殿は確かに死んだはずなのに……あの時、光の粒となって、確かに現世からその存在を消したはずなのに……でも……。優佳殿……良かった……」


 水音の言葉を受けて優佳がゆっくりと頷いた。

 優佳が何か言葉を発しようとして弱々しく口を震わせる。


「――わ、私の前で、お、お婆さんの姿でいるの、は、つまならない、って言ってなかったかな? 水音ちゃん」


 水音は目を見開いた。目覚めた優佳の皮肉交じりの言葉に老婆の顔はくしゃくしゃになった。

 優佳は目覚めたばかりでまだ上手く話せないようではあったが、一生懸命に笑顔を作って口を動かし語り掛けてきた。その彼女が水音に大丈夫よ、といい終えた後、加茂樹の方を見て微笑んだ。


「あ、ありがとう、樹ちゃん。信じていたわ」


 優佳の言葉に、樹は目を閉じ頷いて答えた。

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