第6話 鬼火①

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 迷路のように曲がりくねる海岸線。半島の先へ向かって数十分車を走らせるとさびれた漁村に辿り着く。

 既に廃村になったその漁村には、昔はたくさんの海水浴客で賑わっていた砂浜が今も静かに白い輝きを留めていた。

 波際に立つと髪を揺らす風はまだ冷たかったが、日差しは身体を包み込むように優しかった。息吹を感じさせる海の光に目を細めながら笑む。るいは春の到来を感じていた。


「お嬢さま、るいお嬢さま」

「――うん」

「そろそろ戻りませんと」


 空の水色と海の群青。白く波立つその境界線上で美しい黒髪を靡かせる少女。

 鬼灯ほおずきるいは水平線の向こう側を見つめながら時折風に舞って乱れる髪をそっと肩の後ろへと撫でつけた。


「累さま」

 再度呼ばれ、あきらめ顔で苦笑を溢す。累は迎えに来た使用人へ虚ろな返事をしながら、隣に寄り添う白い大型犬に話しかけた。


「私は、いつも何を探しているのかな……。紫郎シロウ、あなた何か知らない?」


 紫郎という飼い犬への問いかけはただの戯れ事であった。

 だが事実、累の心の中には確かに埋められない隙間がある。累の心は飢えていた。

 

 欠落してしまっている心のピースが、亡くした両親のことなのか、失った生家のことなのか、または違った何かであるのかは分からなかった。

 ――これは、欠損なのだろうか……。

 消失してしまったパーツは取り替えがきかない。違うピースを無理に押し込めても絵は完成しない。そのようなことは分かっている。だが、そこにあることが分かっていて填め込むことが出来ないピースはどうであろうか。

 不完全。――不足と余剰。喪失と、なんだろう……。

 考えてはみるのだが、いつも答えは見つからなかった。


 今の暮らしに不足するものはなかった。両親を失った後も直ぐに親類の家に引き取られ、それから何不自由なく、というよりは、こうして過分なほどに与えられた生活を送っている。それでも累は、いつもどこか心の隅の方で足りない何かを探してしまうのだった。


「お嬢さま」

「――うん、いま」

「では、参りましょう。もう随分とお待たせしておりますので」


 累は使用人の声に従うように振り向き潮騒を後にした。見上げると空に浮かぶ薄い雲が、目で捉えられるほど速く流されていた。


「……どこへ行くの?」


 見上げる虚空へ尋ねてみたが勿論応えなどあるはずもない。

 ふと足を止めた累は紫郎の前に屈むように座りその頭を撫でた。

 見れば紫郎の純白の長い毛足も風に吹かれていた。


「家に帰ったらすぐにブラッシングしてあげるね」

 言いながら紫郎の顔をもみくちゃにして笑う。犬も嬉しそうに累に応えた。

 抱きしめると獣の匂いがした。何故だか懐かしさがこみ上げてくる。こんなにも犬好きであっただろうかと自問が湧いた。

 そうして累は、紫郎の瞳に映る伽羅きゃら色の肌と紫紺しこんの瞳を持つ少女に話しかけた。


「――あなたは、誰?」


 何気なく口に出してはみたのだが。

 結局これも、他愛のない一人遊びだなと笑って視線をまた犬の顔へと戻した。

 目の前で犬が累の顔を嬉しそうに見つめていた。


 累は、ふうと息を一つ吐いてから立ち上がりまた歩き出した。

 広げた両手にショートブーツを片方ずつぶら下げ、大股で歩いていると裸足の肌に砂はヒヤリと冷たかった。


 冷えた砂浜が累の足の裏からどんどんと熱を奪っていく。だがその事が却って自身の体温を感じさせることになり、その感覚が累に生きているという実感を与えた。


 海岸沿いの道路に着くと累はそこに横付けされている黒い車に砂の付いた裸足のまま乗り込んだ。

 シートの下のマットは先程の冷たい砂浜とは違って累の熱を奪う事はなかったが、その暖かさはどことなく累の望むものとは違う気がした。


「家はすぐそこなのにね」

 累は特に意図もなく紫郎に語りかけた。

 その様な累をルームミラーでちらりと見ながら使用人はゆっくりと車を走らせた。


 雑木に囲まれた緩やかな細い坂道を車は進む。

 窓の外を流れていく木々は新芽を芽吹かせていた。

 門を抜け、玄関先に到着すると家政婦が出てきて累の足の砂を綺麗に拭ってくれた。柔和な笑みを浮かべながら我が子を扱うようにかいがいしく世話をしてくれる家政婦。その横で、穏やかな眼差しで二人の光景を眺めている言葉少ない使用人。

 いつも良くしてくれる二人には感謝してもし尽くせない。


「いつもありがとうございます」

 ニコリと笑顔を向けると、家政婦は無言ではにかんだ。

 

「おかえりなさい、累ちゃん」

 玄関で待っていた女が微笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。

 使用人は随分と待たせていると言っていたが、見るとその女には怒りの様子はなかったのでひとまず安心した。


 ――そういえば、この人の名前、なんだったっけ?


 先日聞いたはずだったのに、目の前にいる女の名前を思い出せなかった。

 思案する累の横を犬が走る。女に駆け寄っていった紫郎が嬉しそうに尾を振っていた。


「紫郎もおかえり」

 犬は大はしゃぎで腹を見せて甘えた。


「累ちゃん、潮風は気持ちよかったかしら? でもまだ寒かったでしょう?」

 累ちゃん、と気安く呼ぶ女の姿を家政婦が横目で睨むのが見えた。


「うん、でもお天気も良いからそんなに寒さは感じなかったわ。あ、そうだ、そんなことよりも、随分とお待たせしたみたいですね。ごめんなさい」


 話ながら、名前を思い出そうとしたがやはりダメだった。それで累はそのまま女を待たせたことを謝罪した。


「全然平気よ、片付けなきゃならない仕事がたくさんあったからね。それにね、これもお給料の内よ、気にしないで」


 言ってその女は笑った。

 ――仕事か、そうよねこの人にはこれが仕事だものね。しかしだからといって迷惑をかけるのはダメよね。……それに、このひと良い人そうだもん。

 累は少しだけ反省をした。


「あのね、累ちゃん。今日はお言い付けされたことがたくさんあるの」

「言いつけ、ですか? なんだろう」

「伯母様から累ちゃんへ渡すようにとお預かりしているものも幾つかあるわ。それから、累ちゃんもこの春から受験生でしょ。進路のことや、お友達の事、新学期から必要なものとか、色々聞いておかなくちゃいけいなの。預かっている物も新学期から必要なものよ。後で一緒に確認したいから、用意が出来たらリビングへ降りてきてくれるかしら?」


 テキパキと用件を伝えくる女。

 命令するわけでもなく、押し付けるでもなく、媚びるでもない。話は端的でいてしかも口調には適度に親しみが込められている。話しぶりには清々しささえ感じられた。


 ――好きなタイプの先生ってところかな?


 女の保つ距離感には好感が持てた。ただし今のこの印象だけで気を許してしまうのは何か違う気がする。


「はい、ありがとうございます」


 累は一礼して、その後に破顔してみせた。


 部屋に戻ると軽く暖房が入っていた。生活の何もかもが累の気持ちの先回りで尽くされている。だが累はむしろ逆に、その不自由のなさを窮屈と感じてしまう。

 ため息の後、累は鼻孔に戻ってきた空気にほんのりとした桃の香を感じた。それは累のお気に入りの香だった。


「うん。この香りだけには嘘が無いわ」

 桃の香りは累の心に安らぎを与えてくれる。


「そういえば、桃の花ってどんな花だっけ?」


 ふとそんなことを考えた。桃の果実は知っている。けれど、思えば花の記憶はなかった。梅や桜の花は直ぐに思い浮かぶ。けれども桃の花は……。

 ――知っている気もするんだけどな……。

 ぼんやりと頭の中に浮かぶピンク色の花弁。可愛らしい小輪の花。梅と桜のイメージの中間くらいで思い浮かばせることは出来るのだが、それがどうにも曖昧で頭の中の画像がぼやけてしまう。累はさっと携帯を取り出して「桃の花」を検索し、その画像を表示させた。


「ほうほう。なるほど」

 そこにはピンクに彩られた満開の桃花がいくつも映し出されていた。

 何故だか既視感を抱いていた。

 不思議と惹かれるその花を一度直に見てみたい。累は、ディスプレイに表示された満開の画像の中で気に入ったものを一枚保存することにした。


「これで、よしっ!」

 次に累は、先程の女の事を思い浮かべた。

 だが、よく考えてみれば世話係として派遣されてきた以外の事は何も知らなかった。


 そこで累は空想の中でイメージを遊ばせてみた。

 ――さて、あの人の正体は? いったい何者なのか? まずは普通に家庭教師? いや家政婦?


「うーん……。これじゃあ、ありきたりで面白みに欠けるなぁ」


 思いついたことが平凡でつまらないものだったので、次はミステリアスな設定で想像を膨らませてみた。


 ――伯母さまの会社の人で……何か極秘任務を受けた特別な秘書か、いや違うな。大学生くらいに見えるから……アルバイトで……と見せかけて、こっそり忍び込んだ殺し屋か……。


「……これはダメね」

 思いつくまま適当に空想を広げてみたが、終いには自分の想像力はこんなにも凡庸なのかとガッカリする。それで詰まるところは普通に考えて、「お世話係の何でも屋さん」ということで片付けることにした。


 彼女のことについては、春から仕事の都合でしばらくここを離れる叔母に変わって、(といっても伯母が直接自分の世話をするわけではないのだが)身の回りの世話をしてくれる人だと聞いていた。

 家政婦や使用人とは違い、勉強や、学校のことなど色々と相談にのってくれるのだという。ここで累は、世話係の女の言葉を思い出した。確か、用意が出来たらリビングへと言ってた。少しだけ思案する。直ぐにリビングに向かう気にはなれなかった。

 累は、暇を持て余すようにしてしばらくし部屋の中をうろうろとした。

 そうして化粧台の前に座ると、また世話係の女の顔が浮かんできた。息苦しさを感じていた。理由は分からない。決して彼女のことを嫌っているわけではないのだが。


 ――監視? だったりして。


 はっと閃き、まさかねと口に出してみた。

 思いついた妄想は少しだけワクワクするものだった。

 しかし、今度の空想も失敗に終わる。刺激的な顛末など浮かんでこなかったからだ。彼女が監視役であるという物語の筋書きは、累の満たされている現実のどこをどのように考えてもありえなかった。


「つまんないな」という言葉が独りでに零れた。


 世話係の女は細身のせいか背も高く見える。クラスの中で背の低い方ではない累よりも頭一つぶん大きい彼女。やはり長身といってしまっていいだろう。整った顔立ちに切れ長の目が印象的で、その立ち居振る舞いにも知的でクールなイメージを持たせる。あのような格好良い女性に憧れる女子はきっと多いだろう。

 同じ仕事が出来るタイプの女性としては、伯母のことも思い浮かべられるが、伯母とは少しタイプは違うようだ。叔母は体型もコロリと丸く表情も柔和な感じだった。

 ああでもない、こうでもないと様々空想を膨らませると可笑しさがこみ上げてきた。

 鏡の中には笑う顔が映っていた。そこに再び世話係の女の顔が浮かんできて重なる。


 ――既視感。


「いや、違うよね。この気持ち、なんだろう? 親近感? なんで?」

 累は戸惑っていた。

 ――それにしてもあの人のあの髪、綺麗な水色だったなぁ……。


 ほんの一瞬だけ見えた青い髪色。実際には違う色なので光の加減であろうとは思う。しかしその青は、どこか郷愁のようなものを心に抱かせた。それは不思議な感じだった。


「――私、なんであのお世話係さんの事がこんなにも気になるんだろ……」


 累は小首をかしげて呟いた。

 あと数日で新学期を迎える。いよいよ中学三年生になる。受験生の累にとって、今年は忙しい一年になるだろう。勿論、自覚はちゃんとある。もっとも入学試験のことはそんなに心配もしていないのだが。


「――この春休み中にどこか遠くへ出かけてみようかな……」


 累は携帯電話のアイコンをタップした。

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