第7話 陰陽五家

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 陽だまりの中を冷気がそよぐ。黄緑色きみどりいろを芽吹かせた木々が穏やかな風に撫でられて揺れる。小枝の影が陽光に暖められた地面を優しく撫でていた。


 社務所と兼用の屋敷の隅で、飼い犬が大きな体を投げ出すようにして横たわっている。犬は目を細めながら春の光を浴びていた。


 唯が加茂家に連れてきた飼い犬。シロという名はその時に既に付けられていた。名前はシロだがその体毛はどちらかというと白色よりも銀色に近い。

 加茂家に来たときから成犬であったシロは、今ではそこそこ歳経ているはずであるのだが、青く輝く鋭い眼光には威力があり、まるで衰えを見せていなかった。野生の狼を思わせるその獣は悠々としながら健在であった。


 シロは幼い唯の心を支えた第一の功労者でもあった。

 


「シロ、お前の御主人様はいったいどこにいるんだろうな」


 樹の問いかけに一瞬だけ目を開け耳を少し動かしたシロだが、直ぐにあちらを向いてまた目を閉じてしまった。家に来たときからずっとこの有様なのだが、樹はこの時もいつもと同じように唖然とする。どうにもシロには見下されているよう気がしている。

 


「お前は、ご主人様を探そうとは思わないのか?」

 シロの傍に寄りその背を軽く撫でた。

 シロは呆れるような目つきで樹を見てから、またあちらの方に顔を背けた。

 犬に話しかけても仕方ないのは分かっている。それでもシロの前で愚痴をこぼしてしまうのが日常だった。シロの方も慣れたもので、いつものように「またか不甲斐ない奴め」といった感じで軽くあしらうだけで、慰めてくれるようなことは一切なかった。


 しばらくシロとじゃれていると(といっても樹がシロに適当に扱われていただけなのだが)屋敷の表の方から人が近づいてきた。

 逆光であったがそのシルエットで直ぐに誰だか分かった。上狛かみこま水音みずねである。


 水音はスラリとして背が高い。整った顔立ちに切れ長の目が特徴的で、振る舞いも颯爽としていて見る者にクールで知的な好印象を抱かせた。

 上狛水音は学生である。古典芸能に関心があり大学ではそれをテーマに歴史や伝承などを研究しているということだった。

 このように加茂家を訪れるようになったのは三年前からで、樹が初めて水音を知ったのもその頃だったが、樹の父母とは以前から面識があるようだった。


「こんにちは、水音さん」


 樹は立ち上がり軽く会釈した。


「こんにちは、樹君、こんなところにいたのね、探したのよ」


 水音が近づくと、シロは大喜びで駆け寄っていき、立ち上がってじゃれついた。


「シロもこんにちは、元気そうだな」


 水音に話しかけられるとシロは応えて喜びを表す。ついには自ら腹を見せて撫でてと甘える始末だった。

 ――こうも態度を変えるのか。お前の飼い主は誰だ。

 自分に対するのとは大違いのシロの態度に樹は呆れた。


「随分と慣れちゃってますね、うちのバカ犬」

「私、昔から犬には好かれるタイプみたい」


 水音は嬉しそうに媚びを売るシロの喉元を撫でていた。シロの顔を見ると恍惚の表情を見せながらすっかり脱力していた。


「水音さん、今日はどうしたんですか?」

「えっとね、蘭子ちゃんと鈴ちゃんの舞の稽古が始まるって聞いたから一度見てみたいと思ってね」

「ああ、それで……」

「樹君は、舞台には上がらないの?」

「ええ、まぁ、そのつもりは無いです」

「あらま、樹君と蘭子ちゃん、それに鈴ちゃん、この三人の揃い踏みなんてなかなか見られないだろうに……」

「水音さん、ここの神楽の舞手は元来は二人なのですよ。三人は必要ないのです」

「あらそうなの? 蘭子ちゃんと鈴ちゃんの二人が氷華を舞って、樹くんが桃花を舞う。三人一緒での舞が見られると思ったのに。うーん……桃花は見られないのかぁ。残念だわ。蘭子ちゃんか鈴ちゃんのどちらかが桃花をやってくれないかしら」

「それはちょっと無理ですね。『桃花』は女子には許されていませんから」

「女子禁制の舞かぁ……これはますます残念ね」

「それでも、猿楽家と白雉家が揃って舞う姿もなかなか見られませんよ。あの二人が舞台に花を添えてくれるんだから、それも贅沢なことですよ」

「わたしは、氷華も桃花も全部見たいんだけどなぁ」


 水音がいった桃花とは桃花の舞のことをいう。

 氷華は女子でも舞う事を許されているが、桃花は男子の舞としてこれは今も厳格に加茂家の男子にしか舞うことが許されていなかった。

 氷華と表裏一体の裏舞。桃花も氷華も、元々は一つの舞であったということだが、現在ははっきりと区別がなされている。しかし、どういう理由で舞が二つに分けられたのかは定かではなかった。

 

「樹君、舞台に上がっちゃいなよ」

「…………」

「樹君は小さい頃から神楽の申し子といわれていたんでしょ? みんな楽しみにしているよ」

「ここの跡取りを持ち上げて大人が勝手に言っていた戯れ言です。それにもう、僕は舞には興味がないので」

「それでも、好きでしょ? 歌舞うたまい

「……嫌いです」

「ふーん。本当にそうなのかなぁ?」


 悪戯っ子のような笑みを浮かべる水音みずね。まるで見透かしているような目をしていた。その伺うような目つきが樹に不思議な圧をかけた。


「な、なんですか!?」

「樹君、もしかしたらぁ、怖いのかなぁ? 舞台に上がるのが」

「はあ?」

「自分が舞台に上がったらぁ、お化けとか……そうそう、鬼とか出てくるんじゃないかって」

「な、なに言ってるんですか!」


 水音の口から鬼という言葉を聞いて樹は思わず狼狽した。

 ――偶然、だよな……。


 何も知るはずのない水音の言葉である。「鬼」という言葉を発したことに意図などあろうはずがない。だが、舞台に上がれば鬼が出るという台詞は現状において極めて端的に的を射ている。


 ――知らないはずだ。偶然だ。

 舞台の上で鬼を見ていることは、蘭子と鈴の他は誰にも話していない。

 事情聴取で話してはいたが、そのことはまともには取り上げられてはいない。

 既に認知もされていない事実。それは誰も知らないのと同じことだ。


「お化けを怖がって舞台に上がらないなんて、小さな子供じゃあるまいし」

 言いながらハッとして、知らぬ間に胸に当てていた手を下ろす。頬はまだ固まったままだった。面白がるような水音の目の色はまだ変わっていなかった。


「それじゃ、樹君が舞わなくなっちゃったのは、唯ちゃんの事件が原因かな?」

「…………」

「ほう、こちらのほうが正解だったか?」

「何なんですか? さっきから。なんで水音さんはそんなに僕を舞台に上げたがるんですか」

「だって、きっとその方が唯ちゃんも喜ぶと思うから」

「な、なんでそんなこと水音さんに分かるんですか――」

「あら、分かるわよ。樹君のことも、そして唯の事も。私はよく知っているのよ」


 水音は「そうよねシロ?」と仰向けのまま陶酔中の犬に話しかけた。話を知ってか知らずか、シロも「ウォン」と同意を返した。


「唯って、水音さん……」

「実は私はね、昔から君達のことを知っているのよ。ここにも来ていたわ、幼い頃から何度もね。それだから舞が大好きな男の子のことも、天賦の才と謳われたあの華麗な舞も何度も見てる」

「……水音さん」

「それを樹君が知らないだけなのよ。まあ直接会う事もなかったからね、私のことを知らないのは仕方のない事よね」


 水音はくすぐるような視線を樹に向けてきた。稚児を扱うような水音の態度に樹は戸惑い口ごもって下を向いた。


「やっぱり、舞を止めたのは唯がいなくなった時のことが原因かな?」

「違います!」

「違わないわね。その忌避感は罪悪感からくるものかしら?」

「…………」

「あらら、やっぱりそうなんだ。でもそれは勘違いよ」

「はあ! あなた何言って――」

「そんなの唯は喜ばないわ。だって唯は樹君の舞が大好きだったもの」

「さっきから何なんですか。水音さんには関係ないでしょ!」


 浴びせられる言葉に痛みを感じ反感を持つ。樹は強い目で水音を見返した。


「関係ない? そうかも?」

「そうです!」


 不毛な会話を嫌うが、そこから逃れようとしても何故か水音から逃れられない。

 水音の飾り気のない言葉が樹の心に入り込んでくる。心が揺れていた。


「ねえ、樹君。ちょっと聞いて良いかしら?」

「何です?」

「君、ここの収蔵庫で調べものをしているんですってね」

「それがどうかしましたか?」

「それってさあ、唯の為? それとも可愛い妹を失った可哀そうな自分の為?」


 言われて樹は大きく目を見開いた。水音の指摘が胸に刺さる。

 必ず成果を上げられると断言することは出来なかった。樹には無駄骨を折っている自覚があった。寂しさや苦しさを紛らわす為だけに無為に時間を費やしているだけではないのかということを思わずにはいられないときが確かにあったのだ。

 しかしそれを認めることなど出来ない。止めることは唯を探すことを諦めてしまうことと同義だからだ。やめてしまえば二度と唯に会えない気がするからだ。


 ――それが独り善がりだとでも言いたいのか。自分の為にしている慰めだとでもいいたいのか。違う! 断じて違う! 僕は……。

 樹は混乱した。


「ははーん、これは図星だね!」


 見透かすような視線を受け息が詰まる。


「そ、そんなこと……」

「私が唯なら、大好きなお兄ちゃんには、好きな歌舞を続けてほしいと思うだろうけどな」


 水音が語る言葉がいちいち正論に聞こえてくる。一つ言われる度にえぐられるような痛みを感じさせられた。


「あの収蔵庫で何を調べたって無駄よ、あそこには何もないわ。現に何も見つけられていないでしょ」


 笑顔で語られているが、それは辛辣な指摘だった。言葉が樹の痛いところにどんどん踏み込んでくる。


「あなたに何が分かるっていうんですか!」


 堪らず語気が強まる。


「あら分かるわよ。樹君、あなた鬼姫の事を調べているんでしょ?」


 軽妙に語る水音の声に樹は呆然として立ち尽くす。

 その時、何か強い力を感じさせる水音の眼がさらに光ったように見えた。


「――なんで!」

「あら、これも当たりかぁ、樹君ってわかりやすいね」

「僕の事をからかって、そんなに楽しいですか!」

「からかっているつもりなんてないわよ。そうね、無駄なことは止めたらという、これはお姉さんからのアドバイスってとこかしら。だって私はよく知っているのだもの。樹君が探している鬼姫こと。なぁんて言ったら信じる?」


 奈落の底で自失していた。いったいこの人は何を言っているのだろうか。

 誰も知らないはずなのに……それなのに……水音は何故どこでその言葉を聞いたのか。知っているというのか? 水音は。それならば……。


「あらら、大丈夫かしら?」

「…………」

「そうね、初めてここを訪れたのは私が八歳の時だったわ。そのとき樹君は三歳、唯は一歳の赤ちゃんだった。……唯が誘拐された時、私は十六だった。ちょうど今の樹君と同じ歳ね。ねえ知ってる樹君、唯が真中まなか家から加茂家に引き取られた本当の理由」

「――! ……真中家?」

「あら? 初耳だったかしら。あなたの妹になった真中まなかゆいは真中家の後継の巫女なのよ」

「な! 唯が、後継の巫女って? それに真中家って」

「なんだ、樹君。何も聞かされていなかったんだ」


 ――知らないこと? 聞かされていない? なんだ? この人は何を言っているんだ。

 自失、呆然、混乱……。

 樹は強く首を振った。我を取り戻そうと視線を空に投げてから深呼吸をした。

 

 ――なんだこれ。

 春風に揺れる水音の美しい髪が一瞬ライトブルーに輝くのが見えた。


「樹君、あなた、やはり」


 水音が何かを確信したように頷く。


「水音さん、あなたは何者なんですか! 何を知っているのですか!」

「そうね……。知っている事は今のあなたとそう変わりはないかな?」

「でも、鬼姫って、そのことは誰も知らないはずだ。それに唯のことも呼び捨てに……」


 樹の様子を見て水音が悪戯な微笑みを口元に浮かべる。


「唯の亡くなった母親、真中まなか優佳ゆかの旧姓は上狛かみこまっていうの。彼女は私の叔母なのよ。唯はね私の従妹なの。でも妹といった方が気持ちは近いわね。私は唯が生まれた時からずっとそう思ってきたもの。真中家に縁の深い私は幼い頃からしょっちゅう唯の家に出入りしていたのよ。だから鬼姫の事も知っている。ちなみにね、鬼姫という言葉は加茂家、猿楽家、白雉家の大人達はみんな知っているのよ」

「なんだって! それじゃあ」


 告げられた事実に樹は付いていけなかった。


「大人達は知っていた? 馬鹿な、これでは僕は、本当に一人で空回りをしていた愚か者じゃないか」

「無駄ではないわ、意味はある。でもここの古文書だけで全ては分からないのよ。これは本当よ。全てを知ろうとするなら陰陽五家おんみょうごけの全てを知らなければならない」

「陰陽五家……」

「そう、陰陽五家よ。加茂家、猿楽家、白雉家の三家に加えて、唯の真中家とそして最後に今はもう失われてしまった犬童いんどう家」

「――真中家、そして犬童家……全てを知る……」

「樹君、鬼姫のことを調べるなら、唯を救いたいと思うのならば、唯の生まれた真中家のことを、まず調べなさい」

「唯の家……真中家……。水音さん、あなたは一体……」

「何者でもないわ。私はごく普通の大学生だよ。ただね、私も優佳姉さまを殺した犯人と唯ちゃんを拉致した犯人を追っているの。それだけよ」

「水音さん、あなたは僕に何を……」

「あ、そうそう、本当の目的を忘れてしまうところだったわ。樹君、こんなところでいじけていないで、ちゃんと神楽殿に来なさい。みんな待っているわよ。あなたは、あなたの舞を舞いなさい。唯もその方が喜ぶと思うわ」


 樹の積み重ねてきた日々が溶けて失われていった。

 全てが徒労であったことを知った。だが、もたらされた情報は絶望ではなく希望である。

 一度砕けた心だが、水音の話には気持ちを奮い立たせる何かがあった。進む方向が明確に示された気がする。


 ここにきての事態の急変。一体何が変わったのだろう。これから進むべき道はこれまでと同じのようで何かが違うような気がしていた。

 水音は全てを知れといっていた。しかし、前途には確かめなければならないこと、知らなければいけないことがあまりにも多い。

「唯の生家の真中家。鬼姫……真中家の鬼姫が、加茂家に引き取られた……これは、そういうことなのか……」


 水音の話しを頭ごなしに信じてよいのか分からないが、唯を救う為ならばそれがどのような些細な情報でも構わない。手がかりから繋がる全ての事を掬い上げ必ず辿り着いてみせる。


 見上げた空から視線を戻すとその場に水音の姿はもうなかった。シロもまた元の日差しの下に戻り体を投げ出していた。

 樹は、忌む記憶に立ち向かうべく、神楽殿へと一歩を踏み出した。



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