第8話 神座

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 神楽殿の奥には神域がある。

 四方に注連縄しめなわを巡らせたその空間を神座かむくらと呼ぶ。

 神座は神の御座おわす処にして、現世に神を招く聖なる場所であるといわれているが、未だ誰も真の神座など見たことはない。 

 神楽の舞手は神域と現世うつしよの境界で歌舞うたまいを舞って神を迎え、我が身を依り代として神憑りをする。


 聖なる舞台に、猿楽の巫女と白雉の巫女が揃って立つ。

 泰然として巫女装束を纏った蘭子と鈴。凛とした雰囲気を醸し出しているその立ち居振る舞いは、両家の伝統と格式を伺わせた。


 ――流石だな。二人とも。


 水音から衝撃的な事実を聞かされた次の日のこと。

 樹は、神楽殿を囲う木々の後ろから舞台を見ていた。身を隠すようにしているのは、少なからず気後れを感じていたからだ。

 あの日から、一度たりとも訪れることがなかった神楽殿。舞を見るのも、雅楽の調べを耳にすることも避けてきた。今でも気持ちの整理など全くついていなかった。


 ――僕は何故ここに来てしまっているのだろうか。

 

 舞台の上で拍子が緩やかに鼓動を刻み始めた。

 琴の旋律が響に合わせるようにして麗らかに後を追う、合わせて笛の音が躍った。

 厳かな空気の中で、巫女らの舞は時に悲しみ、時に怒り、時に笑う。

 巫女の身体がポンと跳ねた。蘭子と鈴は宙で麗姿を見せて舞台に帰ると、その流れのまま踵でトンと床を鳴らした。

 着地と同時に屈んだたいは次に両手を翼のように広げた。

 右手にもった剣を正面に回す。蹲踞そんきょをしたままの姿勢でゆっくりと左手を剣に添える。巫女が剣を振り被ると、美しい直線が並んで上空を目指した。

 剣の静止が生み出した一拍の静寂が時を止めると、太鼓の連弾が激情を奏で始める。舞は静を動へと誘い始めた。

 頭上で凝然としていた剣が、天から大地に向けて走る。切先を滑らせた剣が一気に空間を切り裂いた。


「――見事だ……」


 剣舞に見惚れて樹は呟いた。

 巫女らは再び上空へと舞い上がる。舞が空を駆けると剣は一閃して空間を薙いだ。

 拍子が更に速さを増し鼓動は強さを増した。琴と笛も拍子と共に強く激情を奏で始める。

 空から戻った二人は、今度は前方に跳躍し、縦を斬り、横を払う。

 躍動する二人が舞台を所狭しと舞い狂った。

 意識が蘭子と鈴の舞う神楽の世界へどんどんと引き込まれていく。

 いつしか、樹は二人が舞う姿に自らを重ね共に舞う感覚へと落ちていった。



「――あれ? 樹様、いつの間に舞台に?」


 気付いた鈴が舞いながら目線だけを向けてきた。


「え? あれ、僕はどうして……」


「あれれ? どうして樹がここに?」


 遅れて蘭子も樹の存在に気が付いた。


 尋ねられても答えようがなかった。何故このようなことになっているのか樹にも理解出来ていなかった。

 拍子も旋律も木陰にいたときと変わらずに耳には届いている。旋律がどこかで途切れた覚えもなく、自ら舞台に歩み寄った記憶もない。

 どれだけ考えてみても、舞台の上に移動してしまっている理由が分からなかった。


「僕にも分からない。気が付いたらここに……って、えええ!」

 答えようとした時だった。樹は蘭子と鈴を見て目を見開き身を固まらせた。

 そんな驚きの顔を、幼馴染みのふたりが首を傾げて覗き込む。


「蘭子! 鈴ちゃん! どうしたんだいその髪!」

「なんだよ樹、髪って」

「な、蘭子、あなた髪が真っ赤に変わっていますわよ!」

「はあ? 何言ってんだよ鈴。――って、鈴! お前もじゃないか! っていうか樹もおかしくなってんぞ!」


 三人は互いに顔を見合った。

 蘭子の髪は紅色に、鈴の髪は白銀に、そして樹の髪は緑青色に変わっていた。


「うっわぁー、なんだこりゃ! 面白いなぁ、あたしたち、舞を舞って変身しちゃったのかな? これってまるでマンガだよな、あははは!」

「変身って!?」


 お気楽に自分の髪色を見てはしゃぐ蘭子に軽くツッコミをいれながら、樹は混乱する思考をなんとか整理しようと試みる。しかし、いくら考えても自分達の身に起きている事態に説明がつかない。やむなく夢オチということで片付けようともしてみたが、お約束の様に目が覚めることはなかった。

 これは埒が明かないと考えあぐねた樹は鈴に見解を尋ねた。


「鈴ちゃ……」


 言いだして止まる口。見ると鈴が自分の胸に両手を添えて何かを確認していた。


 ――ざ、残念。そこは変身できなかったんだね、鈴ちゃん……。


 様子を見て思わず同情してしまった樹。だが、変化を見せなかった小さい胸から視線を上げると……。殺気を孕んだ鈴の眼差しが樹を射貫いた。――不味いっ!


「あ、い、いや、鈴ちゃん、ほ、ほら成長期って……」


 言い終えるよりも早く、鈴は剣舞で使っていた剣を樹の目の前に突き立てた。


「――樹様、それ以上は申されぬことをお勧め致します。わ!」


 細められた眼。鈴の怪しく光る目が恐ろしかった。鈴の琴線には触れるべからず。樹は貴重な人生の教訓を得た。

 それはともかく、この異様な状況が何なのか考えなくてはいけない。どうにかしなくてはならない。樹は気を取り直して思案を始めた。


「――樹! ひ、人が!」


 先ほどまではしゃいでいた蘭子から驚きの声が出た。


「ん? 人がって何? どうしたんだ? 蘭子」

「――人が動いていない!」


 蘭子が叫び指さす方に目を向けるとそこに静止画があった。楽師の動きが止まっていた。いや、動いていないのは楽師だけではない。空には鳥も、景色の中で風に吹かれていたはずの木々も。見える世界の中で自分達以外の全てが動きを止めていた。


「なんですのこれは!」

「止まっているのか! あたし達以外は全部ってなんだこれ!」

「――でも音は、音は聞こえますわよ……」

「夢か? これって夢じゃないのか」

「ありえません! 三人同時に同じ夢を見ているなんて」


 夢ではないことは樹も先ほど確かめていた。

 ――では、自分以外の誰かの夢なのだろうか? 

 いいやそれも違う。誰かの夢の中で自分が意志を持ち思考するなどありえない。

 それではやはり、ここは自分が見ている夢の中なのか。

 彷徨う思考が夢の一点を巡ってしまう。抜け出せない。――このようなことは現実にはありえない。


「蘭子、鈴ちゃん、どう思う? 二人とも今、誰かの夢の中にいるって感じ?」


 この事態が夢ならば、そこに登場する人物も自身が作り出していることになる。だから誰に何を聞いても意味がない。分かっている。しかし、体感が夢を否定しているので尋ねずには居られなかった。

 五感を一つ一つ確認していく。肌に感じる空気、呼吸、拍動、視覚が捉えている映像、聞こえる音、全てをリアルに感じていた。

 手に外からの刺激を受ける。見ると鈴が樹の手を握っていた。鈴の手は温かかった。樹はその手を少し強めに握り返した。


「――樹様、私は、夢ではないと思いますわ」


 樹の力を手に感じて鈴の考えもそこに至ったようだ。樹は蘭子の方へも手を差しだした。その手を蘭子も強く握った。


「――そうだな、こんなリアルな夢はないよな」


 蘭子も頷いてみせた。


「そうだね。とりあえず今起きていることを現実ということで話を進めよう。夢か否かは、この状況から脱すれば分かる事だ」

「でもどうします? 脱すると言っても易々と元に戻ることが出来るのでしょうか?」

「――この不思議な状況……。思い当たることと言えば……」

「言えば?」

「僕が思うに、僕達は今、舞によって現世を離れ神域に踏み込んでいるのではないかと」


 樹は、古文書に記されていた文言を思い出し話した。


「神憑りでございますか」

「なんだよそれ! って鈴も何か知っているのか」

「神楽の舞台は元来、神を招く神聖な場所なのです。ここで舞手は神を迎え我が身を依り代として神憑りをする。神楽の極意です。私達は今、歌舞によって神憑りをしていると思われます……。しかしこのようなことが本当に……」

「そうだね、これが現実なら大変な事が自分達に起きている。二人が舞う様子を見ていた僕は、いつしか二人の舞に引き込まれ自分も舞っている気分になっていた。それで気が付いたらここに立っていた。恐らくここは、舞が呼び寄せた空間なのだと思う。そして僕達の体の変化から察すると、今の僕達には何らかの力が宿っているといことになる」

「神楽の舞台、舞、神憑り。なるほど……」

「樹様、鬼、鬼姫、神憑りと周囲に次々と起こるこの不可思議な事態。もうこれは只ならぬことではないでしょうか」

「そうだね……。これはもう、鬼の存在云々とは次元の違う事態なのかもしれないね。この先にいったい何が起こるのか想像もできない」

「左様でございますね」

「でも僕らは何も知らされていない。知らないことが多過ぎる……」

「知らされていない? 樹様、それはどういうことですの?」


 額に手を当て少し考えてから樹は意を決して話を始めた。


「二人とも、ちょっと聞いて欲しい話があるんだ」


 居住まいを正す樹。向き合う蘭子と鈴は頬に緊張を見せた。


「実は、ここに来る前に上狛かみこま水音みずねさんと話をしたんだ」

「上狛水音? ……ああ、神楽の見学に来ていたあの大学生か」

「綺麗な人でしたわ」

「収蔵庫で二人に話をした後で、また直ぐにこんな奇妙な話をすることになるとは思っていなかったんだけど……」

「何かありましたの? 樹様」

「水音さんから話を聞いて、僕があまりに何も知らないことが分かったんだ」

「奇妙な話って、その水音っていう人が、鬼の話について何か知っていたとか? まさかね」

 軽い調子で話す蘭子。樹は真剣な面持ちで頷きを返した。


「樹様、水音さんから何を聞かされたのですか?」

「上狛水音さんは自分のことを唯の母親の姪だと語ったんだ」

「つまり水音さんは唯ちゃんの従妹だったと」

「そう。それで、水音さんは、親族という関係故に唯の生家の事情に詳しくて……『鬼姫』を追うのならば唯の生家である真中家を調べろと……」

「『鬼姫』って! おい、樹」

「……真中家?」

 鈴が目を細めながら首を傾げた。


「鈴ちゃんも知らないのかい?」

「はい」

「蘭子は?」

「あたしも知らない」

「ということは、やはりどこの家も、子供達には何も知らせていないようだね」


 樹は上狛水音と話したことを全て伝えた。

 鬼姫に関しては真中家の事情というものが最重要であるということ。鬼姫という言葉を親達が知っているということ。過去には、加茂家、猿楽家、白雉家の三家以外に唯の真中家と今はもう絶えてしまっている犬童家を合わせ五つの家で繋がっていたということ。


「陰陽五家か、なるほど……それは大変興味深い話ですわね」

「水音さんは、加茂家の古文書だけでは全てが分からないと言っていた。全てを知ろうとするならば、唯を救おうと思うのならば五家全てを調べなければならないと……」


 樹はその調べが簡単な事ではないと考えていた。

 加茂家所蔵の書物でさえ相当数ある。他家のものにまで手を出すとなるとそれはもう膨大な数と言って良いだろう。ただでさえ難解な書物である。紐解く作業の見当もつかない。蘭子と鈴に無理強いすることも出来ないと思っていた。


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