第27話 桃花の予言

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 本殿を見下ろす大岩の元に安堵の空気が流れた。

 眼下で繰り広げられた死闘。手出しを許されず注視させられていた戦いにようやく決着が付いた。

 一息ついた皐月さつきは戦いの終了をもって稽古場に遣わしていた式の目を閉じた。勝利を見届け肩の緊張が解かれる。


「やりました! 神薙様は見事に三紫を撃退なされました! ……はっ」


 皐月は大きな声を出してしまった迂闊さを恥じて下を向いた。ここは既に戦場の中である。浮かれている場合では無かったと反省し、そっと覗くようにして顔を上げるとその場には一様に安堵の顔があった。皐月は皆が同じ思いであったことを見て胸をなで下ろした。


「いやはや、白の巫女様のあのような無茶な振る舞いには肝を冷やしました。一時はどうなることかと」


 極月ごくげつも相好を崩して皐月に続き、如月きさらぎもホッとした表情で頷いた。

 だが、そのような部下の言葉を受けた水音みずねの表情はまだ硬いままであった。


「水音様?」

 皐月が尋ねる。


「…………」

「水音様、如何なされましたか」

 極月も神薙勝利の余韻の中で首を傾げた。


「皆さん少々緩みすぎですよ。確かに三紫の事は上々に済みました。しかし下にはまだ朱鬼しゅきがおります。失念してしまったのですか」


 水音の口から出た「朱鬼」という言葉に一同はハッとして顔を強張らせた。

 樹の祖父、玄眞の中に潜む鬼は健在であった。それどころか、未だ人のフリをして社の人々の中に混じっていた。

 陰陽師達に戦慄をもたらせるその鬼は、数多の鬼の中でも筆頭格にして神格級の強者であった。辺りの空気が再び息が詰まるような緊張に包まれた。


「――どうやら、朱鬼もここで動く様ですよ」


 水音が静かに朱鬼の動向を告げた。

 受けて陰陽師達が眼下の社に意識を向けるや否や参道の方から凄まじい鬼気の発動が起こる。

 朱鬼の放つ気は肌が粟立つようなおぞましさを含んだもので、これまで彼らが対峙してきた化け物を遥かに凌駕する程に強大であった。

 生まれて初めて神格級の鬼の気に当てられた皐月は、意識を根こそぎ持っていかれるような感覚に陥り昏倒こんとうしそうになった。


「み、水音様! こ、これが神格級の鬼気でございますか!」


 息苦しさと歪む視界の中で、必死に意識を保ちながら皐月は尋ねる。みれば他の者も皆、何かを必死に堪える様子を見せていた。


「うむ。お主等には初めての経験じゃったな。まぁそれならば無理もないことよの。しかし慌てずともよい。皆、日頃の修行を思い出して心を静めてみよ。そして気負わずにちゃんと朱鬼を見てみよ。決して対峙できぬ相手ではないことがわかるであろう。なに、これも慣れじゃよ、慣れ」


 いうと水音はニヤと悪戯な笑みを浮かべた。


「――え? 水音様? え?」


 筆頭陰陽師の笑い顔を見て、皐月は水音の様子がいつもと違うことに気が付いた。

 訝しむ。皐月にはずっと何かを見落としているとう思いがあった。釈然としない思いが折々に心に疑問を投げかけていた。

 そのことを己の未熟さ故の迷いであるとして無理に心の奥へと封じていたのだが、目の前の水音の変化に気が付くと、それは確信に近い閃きをもって一気に皐月の心の壁を崩した。

 先刻の記憶が蘇る。神獣しんじゅう大口おおくち次郎左衛門じろうざえもん景雪かげゆきの封を解く折にも皐月は水音の様子にどこか違和を感じていた。考えてみれば、そもそも主命にしか従わぬはずの神獣が急にしおらしくなったのも不自然であったし、次郎のことを水音が景雪と真名まなで呼んでいたことも不可解である。

 真名は忌み名ともいい、その者の霊的人格と結びついていると言われている。

 その真名を呼ぶことはその者の霊的人格を縛るとも言われ、故にあるじ以外が真名を呼ぶことは不敬とされていた。

 その上に、神獣は己が真名で呼ばれる事を主以外には認めない生き物であった。


 ――まさか……。

 思い至った皐月は、そんな馬鹿なと思いながらも恐る恐る水音の顔を伺った。


「ふふふ。ようやく気付いたか未熟者め」


 してやったりと言わんばかりの軽い調子に呆気に取られてしまった皐月の顔を見て水音がケラケラと笑う。


「や、やはり! れい様!」


 皐月は水音の正体を知り澪の気に触れることで一気に活力を取り戻した。朱鬼が発する禍々まがまがしい気勢に晒されて息をするのも苦しかったのだが、それももう無い。


「ほれ、もう慣れたであろう」


 水音に扮した澪は生気を取り戻した皐月の様子を見て微笑むと、その姿を歪め老婆の姿へと変化させた。


 行方不明の犬童いんどうれいが、突然目の前に現れたことに上狛五神官は皆呆気に捕らわれてしまったのだが、犬童澪の存在は一瞬にしてこの陰陽師達に喜びと自信に満ちた表情を取り戻させた。


「澪様、相変わらず人が悪うございますな」

 極月が白い歯を見せて大きく笑った。


「すまぬな。皆を騙すつもりは無かったのじゃ、許してくれ」

「しかし、澪様。澪様が水音様のお姿になられていたのなら水音様は今は、いったどちらに?」

 如月が聞いた。


「うむ。水音にはちと事情があっての、ここには来ぬように申し付けておる。今は新たな拠点を整える任に当たっており、そこでこの件を片付けた我らの帰りを待つことになっておる」


 老婆が優しい眼差しで答えながら五神官を見渡す。

 その中で唯一人、歓喜する一同に反して水無月みなづきだけが鈍い光を目に宿し恨めしい顔つきで犬童澪を見ていた。


「――なるほど。これで森の社の抵抗が薄かったことに合点がいった。いとも容易く陥落したことも全て計算のうちとは。しかし、それが犬童澪の計略であったとしても、如何に神無月かんなづきの奴が不埒者ふらちものであったとしても犬死にとは哀れなものでございますな」


 水無月が嘲るように笑みを浮かべた。


「み、水無月! 澪様に向かってお前は!」

 極月が語気を強めて諫めた。


 神無月の裏切りについては、皐月も皆と同じように無念を抱いている。命を失った神無月に対して悲痛も抱いている。知己の喪失を今この時にもまだ信じられていない。だが、鬼との戦いにおいて各個は一個の駒にしかすぎない。そのことは、幼少の頃から言い含められていたことであり、命じられた任にはすべて命を投げ出す覚悟も出来ていた。

 皐月は、悔しさを噛みながら下を向いた。戦士ならば割り切らねばならない。戦いで散った命に対してはそれを無駄にしないというのが残った者の在り様だと信じている。

 神無月の裏切りの真偽については、水無月が話すことを信じるしかないのだが、この際はそこに拘っている場合でも無かった。自分達はこれから神格の鬼と戦をしようとしているのだから。いちいち感傷的になるようでは戦場では使い物にならない。


「――よいのじゃ極月。水無月の申す事も一理あること。事において全てを語ってこなんだわしに責任がないとは言えぬ。そして仲間を失うというのも皆と同じように辛い。しかし、しかしのう、これも桃花の予言にあることなのじゃ。じゃから話したくとも話せなかった……皆には本当にすまないと思っておる。そして出来れば殺したくはない……」


 沈痛な面持ちの老婆を見る。鬼姫討伐戦とはかくも非情なものなのか。皐月は主を深く思いやった。皐月は澪が語った言葉を噛み締めた。

 ……なんだ? 

 頭の中で再生される主の言葉の中にトゲのような違和感を覚えた。

 これは何だろう? 澪は今何か重大な言葉を……。

 その思案の最中だった。唐突に刺すような気配を肌が感知した。

 これは、――殺気!


 すかさずその気配のする方へ視線を向けると。不敵に笑む水無月の顔が見えた。


「澪様! 危ない!」


 危機を察知した皐月の叫び声と同時に水無月が飛び出す。

 皐月は老婆を守ろうと懸命に前へ飛び出した。


『――皐月、動くな!』

 突然、皐月の頭の中に止まれと声が届いた。


「――何!?」

 その一瞬が、皐月の出足を鈍らせてしまう。いきなりのこととはいえ、主の危険に際して動きを止めてしまうとは。僅かの時の中で皐月は焦燥した。


「遅いわ皐月! 犬童澪の命はこの水無月が確かにもらった!」


 ――ダメ! 間に合わない!

 視線の先に黙して動じない老婆と得物えものをかざして嬉々として笑う水無月の顔が見えた。

 皐月は悔いた。もう間に合わない。凶刃を防ぐことが出来ないことは明白だった。

 次に起こりうる場面を頭に浮かべてしまう。心に引き裂かれるような痛みを感じて思わず目を閉じてしまった。

 

「……殺したくは、なかった」


 目を閉じた皐月の耳に慚愧の声が届く。

 脱力した人間が地に伏せる音も聞こえた。

 肉体が刺し貫かれていくいやらしい濁音。その後の断末魔の声。

 主の殺害という悲劇を思う皐月の心に失意の闇が降ってくる。

 だが、殺しを聞いた皐月の耳に再び届いてきたのは哀愁を帯びた老婆の声だった。


「――なに?」


 懐疑に戸惑う皐月がゆっくりと目を開くと血を流して横たえているのは水無月の方だった。

 素早く状況を理解しようと顔を上げ周囲を見回す。

 三本の槍に貫かれて横たわる水無月のむくろに視線を落として目を潤ませている老婆の姿が見えた。これはどうしたことか。何が起きたというのか。


 皐月には事の顛末を理解することが出来なかった。

 目を閉じてしまっていた皐月には、引き起こされた惨劇の経緯が分からない。見ている結末について皆目見当もつかない。

 分かっていることといえば……。耳に残っているあの時のあの声。

 皐月の動きを止めた声には覚えがあった。しかし、その声はこの場では聞こえてくるはずのない死んだ者の声だった。――あれは神無月かんなづきの声だ……。


 更に混乱する皐月の耳に、今度は声が音として聞こえてきた。


「まったく……。澪様にこれだけの温情を賜りながら水無月の奴め、結局はこれか。俺につまらねえことをやらせやがって」


 声のする方を見る。大岩の上にこちらを見下ろしている者がいた。それがやはり仲間を裏切り死んだはずの神無月であった。

 上から聞こえたその言葉から察すると、先程の水無月の暴挙から澪を救ったのは神無月ということになるのだが。


「――神無月がやったのか? どうして? なんで? そもそも神無月はなぜ生きているの? 裏切って水無月に殺されたんじゃないの?」


 皐月の心は不能に陥った。

 神無月は大岩の上からひょいと飛び降りると黙って澪の前に進み、片膝をついて首を垂れた。


「澪様、ご無事で何よりでございます」

「――神無月、辛い仕事を頼んでしまってすまぬ……」

「いえ、これも桃花の予言にあること。であれば澪様が責任を感じることはございますまい。むしろ、改心の機会を与えられここまで生かされていた水無月こそ愚かと言わねばなりません」

「神無月、これはどういうことだ!」


 泡を食った極月が目を吊り上げて神無月に迫った。

 皐月も口にこそ出さなかったが極月と同じように心の中に湧き上がる疑問の答えを求めた。

 裏切り者を成敗した水無月が、成敗されて死んだはずの神無月に殺された。これまでの話の筋ではこういうことだった。

 しかし目の前で起こった事態は真逆の様相を呈している。


「――まったく、水無月もどうしようもねえな。目の前に澪様がお姿を現した途端に事に及ぶとはなんとも浅はかなことじゃねえか。それによう、次郎様のことはあの時に皆が聞かされた話じゃねえか。神獣の目の前で主人を害することなど出来るはずもないだろう。ここは次郎様のお社だぜ。水無月も随分とうぬぼれたものだな」

「神無月! 説明しろ! どういうことだ! 水無月はお前が裏切ったと言っておったのだぞ!」

「ああ、旦那、そのことなら逆ですよ。裏切り者は水無月の方です」

「な、なんだと!」

「そもそも森の社に居たのは俺と水無月だけで、森の社に姿を見せていた澪様も他の陰陽師達もみんな式だったんです。そしてあの時広間で澪様が仰った『うまく負けろ』とはこの裏切りに備える為の言い付けであったのです。しかし勘違いしてはいけませんよ旦那。澪様は俺に水無月を殺すことを命じていたわけではありません。むしろ森の社の惨劇や、三紫と神薙様の戦い、そして朱鬼に対峙すること全てを見届けさせて改心させるつもりだったのです」

「な、なんと……」

「裏切り者の存在は桃花の予言にて既に知らされていたこと。それが誰であるかも分かっていた。分かっていたから澪様はそれを防ぐことを踏まえて俺達を教え導かれてきた。しかしどんなに手を尽くしてもやっぱり歴史は動かされなかった。そういうことですよ」


 肩を落とす極月を見ながら、皐月はあの広間で澪が言った「化かし合い」という言葉を思い出していた。次に三紫との戦いが始まる前に抱いた疑問が次々と頭をよぎった。

 ――意味があるのだ。やはり澪様の策には全て意味がる。しかもそれは全て桃花の予言に基づいているという。だとすれば三紫と桃花様の戦いも、鬼姫の覚醒も、その鬼姫と刃を交えるのも定めということになるのか……。


 皐月は予感する。この先にもまだ想像も出来ないような事が起こるに違いない。


 主と神無月の言う「桃花の予言」はどこまでの事を読み取り啓示しているのだろうか。そもそも「桃花の予言」とは一体どういうものなのであろうか。

 息苦しさを覚える空気の中で思考を彷徨わせていると、老婆が重々しく口を開き語り始めた。


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