第26話 朱鬼

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 明るい部屋から外に出た瞬間は手探りで暗黒を彷徨うようであった。徐々に目が慣れてくると辺りに奇妙な明るさがあることに気が付いた。屋外への脱出をはたし境内に出ると更に皓々こうこうたる景色があった。


 白い夜の中を凝視する。その場所は掃き清められた石畳の升目ますめまでもが目視できるほどに明るかった。建物の輪郭どころか細部までが見えるくらいの明るさを訝しんで空を見上げる。そこには不気味な光を放つ血塗られた満月がいた。


 立て続けに不可思議な体験を強いられた岩井の心はまるで夢の中を漂うようにぼんやりとしていた。既に芯を失ってしまっている心。本能では肯定するのだが理性がそれを否定する。そんな不安定な精神状態でも最優先の行動を継続しようとするが、その行いの良し悪しに迷いを持つ心は、岩井の自我を寄る辺も無いところに置き去りにした。


 生き物の気配が全くない静まり返った境内を見渡す。

 夜の社の有様は昼間に見るものとは随分と違って見えた。別の世界に迷い込んでしまったような感覚におちいると、その怪しげな景色が殊更に岩井をオカルトの世界に誘った。岩井はハッとして我に返る。不可思議にはまりこもうとする自分に抵抗するように首を振った。事態は急を要している。切迫する危機感がその空虚な思考に浸ることを拒否させた。


 頬に寒風を受ける。心が落ち着きを取り戻すと、岩井の頭は目で捉えた景色と状況を正確に認知しようとして素早く働いた。

 とにかく今は動くことが優先であると心を決めて後ろを振り返った。皆が揃っていることを見て一つ息をついたのだが……。

 岩井が避難する者達の状態を確かめようとして僅かに口を開いたときだった。稽古場の方で轟音が鳴った。



「なんだ!?」


 岩井は身構えた。鳴り響く音とともに一行の足も止まった。

 脳裏に子供達の顔が浮かんだ。直後、子供を置き去りにして大人が逃げていることに罪悪感を覚える。岩井の感覚は急速に御伽噺を拒絶し警察官としての矜持を取り戻そうとした。

 ふいに大人達に目を向ける。誰もが皆、戸惑いの中で言葉を失い呆然として稽古場の方を見つめていた。無理もない。我が子を危地に置き去りにして逃げているのだから。岩井は先の行動を考えた。このまま逃げるべきなのか、それともこの場所を取りあえずの避難場所として子供達の元へ向かうのか。


 さぞや心配なことだろうと一人一人の顔を見て心情を慮る。しかし、その視界の中に一人だけ稽古場の方を眺めながら薄い笑みを浮かべている人物を見つけてしまう。岩井に違和感を与えたその人物は樹の祖父、加茂玄眞であった。


「――どうやら、ここまでのようじゃな」


 玄眞はひとりごちた。

 ニタリと笑う玄眞に言葉の意味を問おうとしたのだが、その束の間に玄眞の顔に不気味な影が差す。好好爺の双眸に怪しげな光が宿り始めた。


 ――なんだ? どういうことだ。


 玄眞に異質を見た観察眼が直ちに最大限の危険を知らせた。そのことが否応なく御伽噺を現実として認識させてしまった。


 目の前の危機に対して的確な対応を取るべく状況を整理しようと試みるが、恐怖に縛られる岩井の頭は思考を拒んだ。感情が先に立ち思考不能に陥る。この場所に居たくない。一刻も早くこの場所から逃げなければならない。

 岩井の体は震えていた。奥歯がガチガチと鳴り視界が小刻みに震える。

 岩井の目が捉えている玄眞が徐々に異相を見せ始めた。瞳の中、瞳孔は立てに細くなり、その目は爬虫類のように変化した。



「ち、父上、如何なされました」

「クククク……」


 慌てて声を掛ける康則を一瞥した後、玄眞は笑いを堪えるようにして下を向いた。


「玄眞様、何かございましたか?」


 猿楽十和子も首を傾げるようにして尋ねた。

 尋常ではない気を発する玄眞の様子と、そのことに全く気が付かない康則と十和子。その奇妙な光景が捕食者と好餌こうじに見えた。


「加茂さん、猿楽さん下がって! 下がってください! ダメだ! その男から離れるんだ!」

 岩井は咄嗟に危機を叫んだ。肩に抱えていた猿楽猛を地面に降ろすと、急いで玄眞と康則達の間に割って入り自分の体を盾にした。


「加茂さん、あの男は危険だ。後ろに下がってください」

「……岩井さん? 何を」

「とにかく後ろへ、後ろに下がって下さい」


 これは元来の血筋がなせることなのか。二人とも玄眞の異常に気が付かない。どうやら社の後継者達は化け物に耐性があるようで、玄眞に変化を見ていても恐怖などは感じないようだった。


「早く! とにかく早く下がって!」


 岩井は舌打ちし叱り飛ばすように言った。


「おお、流石は、といったところであるかの刑事さん。そこにおる神薙の末裔どもでさえ己が使命を忘れてなおそのように呆けておると言うのにのぉ。リアルだのオカルトだのと騒いでおったお前がこのように素早く動けるというのは実に珍妙なことであるのぉ」


 玄眞の視線を受けた岩井は全身に粟立つような不快を覚えると徐々に体が硬直していくのを感じた。


「玄眞さん……あ、あなたは……な、何者だ……」

「ほう、大したものじゃの。人間風情で今のわしの目を直視してなお声を出すか」

「……な、なにを、言って、いる、のです、か」

「殊勝なことじゃの。そうじゃ、褒美に良い事を教えてやろうかの。あの三匹の目を見てそこの阿呆どもが気絶をせなんだその訳は、その身に流れる血のおかげなのじゃよ。どうじゃ刑事さん? オカルト話が大好きなお前があの時に予想した通りでさぞ嬉しかろう」

「……そ、そんなことは、どうだっていい……おま、え、は……何者だ!」


 心の芯の方まで恐怖が浸透していくのを感じながら、それでも岩井は強い意志で玄眞を睨んだ。


「ほほう、面白し。まだそのような目をしてわしに向かおうとするか。なかなかの強情よな」

「……も、目的はなんだ! なんで……こんなこと……」

「はて、そのような事をお前に話す義理も無いのじゃが。どうしたものかのう。直にあの世へ行くと分かっておってもそれでも聞きたいかの? 血筋の者よ」

「――な!」


 岩井の顔が固まった。


「何故? という顔をしておるな。あはははは、愉快。そのようなもの見れば分かるではないか。お前も感じていたのであろう。違うか? 不思議だとは思わなんだか? あの鬼どもの目を見てもお前はそこで寝ている者とは違って立っておられたであろう。血じゃよ、血」

「くっ! う、る、さいぞ!」

「はははは! 面白いのう。大方、生い立ちを忌避してのことか。お前のオカルト嫌いもどうせ根っこはそのようなところであろう。そもそも、そもそもじゃ、わらべが語った戯れ事などに気を留める者などはおるまい。しかしお前はそれを見過ごすことが出来なんだ。それどころか真中家の事件にまで手を突っ込んで掘り起こし鬼姫という言葉まで持ち出してくる。お前がどれだけ現実的に事件に関わっていると声高に言うてみても、己で自覚せずにいても、どうしてもそこにこだわってしまう。さて、それはどうしてじゃろうのう。そうして、放っておけば良いものを、人の分際でわざわざこの様な事に首を突っ込んでくるとは、お前もなかなかに酔狂者であるな。ハハハハハ!」

「…………」

「己に流れておる血がそんなに嫌か? フフフ、ハハハハ! では、言うてやろうかの、オカルトが大好きな刑事さん。お前もの、お前も鬼じゃ。とはいってもお前はほとんど人間と変わらぬで加茂樹とは違うがの。おっとこれは余計な事じゃった」

「そんな! 父上! 樹が、樹が鬼だと申されるのですか!」

「父上? こやつはどこまで阿呆なのじゃ。桃花の血筋の者よ。我はお前の父ではない。もっともこの体だけはお前の父の物ではあるがの。魂はすでに滅んでいることであろうて。わしはのう、この爺の中で辛抱強く待っておったのじゃよ、あやつが目覚める時をの」

「目覚める? 目覚めるとは何のことでございますか! 父上!」

「フ、フフフフフ。ハハ、ハハハハハ! そんなことをこれから死んでいくお前達に話しても詮の無い事であろう。――しかしのう、憐れであるな。おぬしたちは、どこまで間抜けなのじゃ、全くもってこんな子孫しか残せなんだとは不憫なことよのう。いや、こういう時は滑稽というべきかの。ホホホホ」


 玄眞は、ただただ面白がっていた。



「な、なんてことだ……」

「康則さん、残念ですが、あれは玄眞さんではないようです」

「で、ですが……」

「姿形はそうでも、中身は違う。本当にあいつの言った通りなのでしょう」

「ならばあれは――」

「あれは……。あれは鬼です」


 何かを吹っ切ったように岩井が言葉を吐きだした。


「そうじゃよ、わしは鬼じゃ。名乗ってやってもよいがどうせ現世うつしよの人間には分からぬであろう。わしは無駄な事が嫌いじゃ。では、もうよいかの? そろそろあの世へ送ってやろう」


 玄眞の言葉に岩井が最後の時を思ったその時、稽古場の方で再び大きな爆発音が鳴り煙が立つのが見えた。


「やれやれ三紫め、たわい無いことじゃ。――しかし黄玉の奴め戯れ事とはいえ余計な事をしてくれた。鬼姫のおらぬ今、加茂樹に神薙の力を目覚めさせてしまえば、折角の謀の邪魔にしかならぬではないか」


 玄眞が苦々しい顔をして稽古場の方を見た。

 岩井は稽古場の様子と玄眞の口ぶりから直ぐに何が起きたのかを察した。


 恐らく今の爆発は子供達が行った事だ。玄眞の口ぶりから察するに子達が化け物を倒したとみて間違いだろう。ならば子達も間もなくここへやってくる。――どうする……。


 先刻、稽古場で初めて化け物を見た時にもこれまでに経験したことのない恐怖を感じた。それでも岩井は、化け物に向き合う子供達をみて、樹から言葉を掛けられて、その恐怖を振り切ることが出来た。

 しかし岩井は今、稽古場で見た化け物とは比べ物にならない怪物と対峙することになってしまった。


 目の前の相手が発する気は、抗う事が不可能であることを悟らせ生を諦めさせる程のものであった。

 それでも岩井はここで心を折るわけにはいかないと足掻く。

 子供達を巻き込んではいけない。救わなければならないという強い思いは彼本来の性のようなものだ。岩井は正義感と義務感、その上に使命感を総動員して己を奮い立たせようとした。岩井は意を決して気力を振り絞り、ほくそ笑む玄眞に向けて銃を構えた。


「やらせない! お前を、あの子達のところへは行かせない!」

「ほほう、そのような物でこのわしをどうしようというのかな?」

「黙れ!」


 普段なら片手で扱える拳銃を両手でしっかりと握って狙いを澄ませた。


「お前の思うようにはさせない!」

 食いしばる歯がギリギリと音を鳴らした。恐怖からくる震えによって照準は定まらなかった。


「ほほう。威勢だけは褒めてやるがそのような物ではどうにもならぬというのは見世物の定番ではなかったかの? 無駄な事はせぬがよいぞ。ホホホ」

「黙れと言っている!」


 出来るか出来ないかではない。やるのだという強い気持ちで岩井は、玄眞に向けて引き金を引いた。しかし、渾身の思いで放った弾丸は玄眞の顔の前で見えない壁に阻まれるようにして止められると、そこで宙に浮いたまま赤い炎に包まれて蒸発するようにして消えた。


「くそっ!」

「だから無駄じゃと言ったであろう。おお! そうじゃ、良い事を思いついたぞ。どうせ神薙どもはこちらにくるであろう。少し遊んでみるのも面白かろう。お前はそこで銃を構えておれ」


 玄眞が言う。途端に岩井は自分の意思を肉体に伝えることが出来なくなった。


「――な、なにを……」


 岩井の体は再び自由を奪われた。

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