第34話 因果の歯車

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 氷華祭りが終わると水音の両親が迎えに来た。

 帰路を眺める優佳。桃の花は艶やかに咲き乱れども春の夜はまだ寒い。

 母親達との何気ない会話にさえ傷ついてしまう。我が子が抱える問題を思えば、否応なく不安に掻き立てられて心をうすら寒くさせる。

 帰り道の車中で優佳は座席の隣へ目を向けた。

 チャイルドシートの中で車に揺られながらうつうつと眠る愛娘が愛しかった。

 優佳はそっと幼子の頬を撫でた。温もりと幸福がそこにあった。

 この幸せな時間がいつまでも続いて欲しいと優佳は心底願う。

 だが……。


「――定め……」


 希望を絶望へと変える言葉が優佳の口から漏れ出た。


「え? 何かいった優佳」


 漏らした音を拾った姉が問いかけてきたが、優佳は一言、何でもないよと答えた。


「それよりどうだった? 優佳ちゃん、氷華祭りは」

「ああ、ええ、そうね、素晴らしかったわ」

「そう、それは良かった。澪様のお話ではもともとあそこは犬童に連なる社であったとのこと、だとすればあの社は僕達にとっても親戚の家みたいなものだからね」

「そう、ですね……」


 和男は今、澪様の話ではと言った。

 和男の口から出た澪様というのは伝説の巫女のことだ。

 伝説の巫女「犬童いんどうれい」が上狛の社に降臨されたと聞いていたが、それは優佳が真中家に嫁いだ後のことで、その伝説の巫女とやらが本物であるのか、信じるにたる人物であるのかを優佳は知らない。

 伝説の巫女が千二百年の時を経て再び現世に現れるなど本当にあるのだろうか……。

 陰陽師として育てられてきた優佳でさえ眉唾ものの話ではないのかと疑ってしまうほど犬童澪と名乗る老婆の出現は突然の出来事であった。

 訝しむ優佳はその老婆の存在を忌まわしくも思う。なぜならその老婆の存在こそが現代における鬼姫との戦いを示唆するものであったからだ。


 歩んできた道も魍魎調伏の技も上狛の家に生まれた優佳の生い立ち故のごうではあるが嫁いで家を出れば上狛との縁も薄くならざるを得ない。優佳は上狛水音の誕生により、自分を縛るものは無くなったものだと思っていた。


 優佳はごく普通に恋愛をして結婚をした。それがたまたま真中家であった。

 偶然だった。それだけの話であるはずだったのだが……。

 勿論、上狛は陰陽五家と命運を共にするほどの深い繋がりがある。あるがしかし自分は因果に流されたわけでも誰かに強要されたわけでもない。恋愛も結婚も全て自分の意思で決めたことである。

 それが何故? 何故こんなことになるのか……。

 優佳は鬼姫伝承に手繰り寄せられ大きな時の流れに乗せられてしまった。そうして抗うことさえ許されず翻弄されていくことになった。


 ――犬童澪、あなたさえ現れなければ……。


 伝説の氷華の巫女、犬童澪の家系は既に絶えているはずなのに、それが何故に今なって上狛に現れるのか。これも桃花の予言を頂く上狛故のことなのかと思うが、その不可思議に到底納得など出来なかった。

 犬童澪を否定したいと思う優佳の心は我が子に希望を抱く母の想いでもある。

 出来うることならば拒絶したい。しかし自分のこれまでの人生を振り返れば二三年という短い間において優佳の身の回りに起きてきた出来事は全て我が子が抱える問題へと収束しているようにも思えた。

 これで、犬童澪の降臨をもってしてこの時、我が子と桃花、猿楽、白雉と伝説を彩る陰陽五家の神薙かんなぎが全て出揃ってしまったということになる。


 このままどこか遠くへ、いっそ全てを捨てて海外にでも逃げてしまえばこの忌まわしい現実から逃れられるのではないかとさえ思う。

 しかし優佳は首を振った。自分達親子を呑み込む因果律が逃げればどうにかなるような類のものでないことは陰陽師の優佳にはわかりきっていることであるからだ。

 こうなってしまっている以上、何故と嘆いている場合ではない。誰かのせいにして悲嘆に暮れていても仕方がない。

 優佳はそっと愛娘の額を撫でた。

 湧き上がる慈母の感情は鬼姫伝承に立ち向かうことを母親に決意させるのには十分なものであった。


 ふと、愛娘の眠るその隣に、穏やかな顔ですやすやと眠る天才陰陽師、水音の顔が見えた。


 ――私とて水の巫女の再来とまでいわれた陰陽師。犬童澪が現れたからといってそれが何だというのだ。


 見つめる我が子に邪の気配は微塵もない。ならば守る。自分が我が子を鬼姫にさせないように守り抜くのみである。


「負けないわ。私が守る。この子を、絶対に守って見せる」


 車窓の外を流れゆく暖色の光の帯がどことなく自分と我が子には関係のない世界の世界の温もりであるように感じながら、優佳は必ずや平穏を掴み取ってみせると固く決意をした。



「ん? どうかしたかの優佳どの」

「あ、ごめんなさい水音ちゃん、起こしてしまったわね」

「――思い詰めたような顔をしておるではないか」


 長く美しい髪を耳へとかけながら水音が心配そうに見てきた。


「こら、水音、あなたまだそのような言葉遣いで」


 水音の声を聞いて千佳が窘める。


「ああ、いや、母上、こればかりは癖のようなものなのじゃ、以後気を付けるゆえに今しばらくはご容赦くだされませ」


 八歳の子供の可笑しな口ぶりに父親は我慢がならず噴き出す。

 真中家へ向かう一行が氷狼神社を離れて1時間が過ぎていた。

 車は既に街中を離れていて気が付けばもう随分と道淵の灯りも減っている。

 この先の峠を越えれば目的地は近い。

 和やかな雰囲気の中で帰路を進む一行は真中の社のすぐ傍まで来ていた。



「おいおい、マジかい」


 急ブレーキがかかり車が路肩で止まった。


「……あなた」

「今日は何かの記念日だったかい?」


 日々に魑魅魍魎の調伏を生業とする者でもそれを見ることは稀であった。

 その稀であることを揶揄しお道化ながら軽口をたたく和男であったがその目は厳しく真っすぐに前を見据えていた。


「やれやれ、今日はお休みを頂いていたんだがね、これって休日出勤ってことでいいのかな」


 呟くようにいって和男がドアに手を掛けた。


「義兄さん!」

「優佳ちゃん、唯ちゃんはまだ乳飲み子だ。それに水音も幼くて戦えない。頼めるかい?」


 和男の言葉に優佳は頷きを返す。


「優佳、とりあえず車からは離れましょう。車中にいては逃げ場がないわ」


 唯を抱いて急いで車から降りると路肩に止められた車のライトの先に人影が見えた。それは影にしても明らかに人より大きい。その影がゆっくりとこちらに向かってくる。赤銅色の裸体を晒し肩を怒らせクツクツと笑うそれはみると額に一本の角を生やしていた。


「まったく、こんなところで出くわすとはね、しかも鬼だよあれ」

「あなた……」

「大丈夫だよ千佳せんか。たかが鬼さ、一匹出てきたところでどうということもないよ」

「でも……」

「よく見てごらん、あれはアカではないそれに角も一本だ、低級だよ」


 いうと間もなく、鬼が飛びこんできた。


「おやおや、あわてんぼうさんだね」


 和男の軽口を無視して鬼は突っ込んでくる。

 大振りに振り下ろされた拳が空を裂いて音を立てた。

 攻撃を半身で交わした和男が、目の間を通り過ぎる拳に掌をちょこんと当て相手をいなす。途端に重心を崩された鬼の拳が、目標を失い勢いそのまま地面に突き刺さった。

 地響きと風圧。アスファルトの道に大きな亀裂が生まれた。

 拳を地面から引き抜く鬼は自然と和男を見上げる格好になった。

 見下げた和男が鬼を小馬鹿にするように笑う。

 怒る鬼は唸り声をあげ、巨体を誇示するように気勢をあげた。

 唸りを上げる拳と空を切り裂く蹴りが連続して襲い掛かる。しかし和男の身体は風の中を漂う綿毛のようにゆらゆらと逃げ、決して鬼に捉えられることはなかった。


「体の大きさが強さの証しではないんだよ」


 諭すようにいって笑みを浮かべると和男の身体が残像を描いて走る。

 旋風つむじかぜの如く動くたいは、あっというまに鬼の懐に潜り込むと、その腹に矢継ぎ早に掌底を打ち込んだ。

 グウという低い呻き声を漏らす敵。堪らず鬼が地面に片膝を落とした。


「目的はなんだい?」


 鬼を見下げて和男が問うた。だが鬼はウウと威嚇するだけで答えない。


「まぁ答えるわけはないか。でもね、答えないということはお前にはちゃんと目的があるということだ。そして口止めをしている主がいるということだ。そうだよね」


 和夫のカマ掛けに鬼の眼と肩がピクリと動く。


「ふん。目は口ほどにものを言うか。分かりやすいものだね。だけどこれ以上聞いてもどうせ君も答える気にはならないのだろう。じゃあさ、もういいよね、我々もね暇じゃないんだ。おいとまさせてもらうよ」


 いって和男は呪符を取り出しそれを左手に持つと右手で印を結び呪を唱えた。


「雷神の加護をもって調伏す。滅!」


 和男の左手から浮くように離れた護符は、瞬く間に目の前の敵の身体に張りつくと雷を呼んでその敵の全身を打った。


「ふう」


 一つ息を吐いた和男が振り向いて笑顔を見せた。

 その和男の後ろで黒焦げになった鬼が黒い霧となって消えていった。

 軽い調子で首を左右に動かしやれやれといった様子で和男が戻る。だが。


「父上! まだでございます!」


 父に向かって水音が叫んだ。


「ん? 水音、それは誰に向かって言っているのかな?」


 娘の忠告に笑顔で応え和男は余裕の表情を崩さない。

 ヒュンと風の音が鳴るのを受けると、和男は手を前に差し出して何かを掴んだ。


「錫杖? 野狐やこか……。鬼に加えて狐までご登場とは、なんなんだ今夜は」


 掴んだ錫杖を見た後、和男の鋭い視線が山肌の一点に向けられた。

 その視線を追うようにして見れば峠の淵の斜面、高い木の上に狐の面をかぶった妖が見えた。

 新手の出現を見て緊張する。優佳は幼い唯を片手で抱きもう片方の手で水音を守るようにして立った。


「優佳殿、優佳殿」


 小さい声が足下から聞こえる。


「え? 何かしら水音ちゃん」

「これは不味い事になったぞ」


 見ると水音が厳しさを目に浮かべていた。


「不味いって? 不味いって何が」

「奴が来るやもしれぬ」

「奴?」

朱鬼しゅきじゃ」

「朱鬼? え? 朱鬼って、何? 何を言っているの水音ちゃん」

「お主も上狛の者なら名は知らぬまでもその存在を耳にしたことくらいはあろう。朱鬼、それは先の鬼姫討伐の折に鬼を束ねておって首領のことじゃ」

「お、鬼の首領! 朱鬼って……水音ちゃん! あなた――」

「奴の目的はあの時と同じく唯じゃろう。社でもずっと唯を見ておったからな」

「え? 社? 社って氷狼神社のこと?」

「そうじゃ」

「……で、でも、あそこは、あそこは桃花様の社、そんなところに鬼が入り込めるはずが――」

「あるのじゃよ、それがあるのじゃ、奴は殻をかぶっておるでの。……しかしまさか今夜動くとまでは思わなんだ。くそ、油断じゃの……。優佳殿、よいか守るぞ唯を」

「…………」

「こら! 何を呆けておるのじゃ! お主も水の巫女の再来とまで言われた陰陽師であろう、しっかりせい! 奴がここに現れれば不味いことになる。わしも今はまだ力をどれだけ出せるか分からぬで、果たしてどこまでの事が出来るか……。頼りにしておるぞ」


 幼女が笑った。その幼女の言われるままに優佳は姉と義兄の元に駆けつけた。


「ちょっと優佳、水音、離れていなさい。ここは危ないわ」

「――母上、そして父上、ここは皆で力を合わせねば切り抜けることは出来ませぬ」

「なに? 水音、あなたこのような時まで、これは遊び事ではありませんよ!」

「千佳姉様」

「な、なに? あなたまで」

「これは水音ちゃんの戯れ事ではありません。ここは水音ちゃんの言う通りに」

「なに? 優佳、どういうこと?」

「千佳、どうやら訳がありそうだ。ここは優佳ちゃんと水音の言う通りに」


 水音と優佳の目を見てすぐに何かあると踏んだのだろう和男は気持ちを切り替えていた。


「父上、ありがとうございます。そして母上も」

「で? どうするんだい? 水音」

「逃げます。ここから真中の家まであとわずか、ならば行ける所まで車で向かうのが良いかと。なに、奴らもまだ表立って動くことはないでしょう。であれば逃げきることが出来れば我らの勝ちになりまする」

「そうとなれば、善は急げだ! 皆、車へ」


 子供を抱いた優佳と水音一家が一斉に駆け出す。

 気が付けば、山肌に青白い野火が無数に浮かんでいるのが見えた。


「急ごう! 囲まれては不味い」


 真中まなかゆいの誕生と、その母、真中優佳を絡めた因果。陰陽五家と上狛一族の邂逅と犬童澪の降臨。すべてのピースが着々と埋められていく中で、鬼の首領である朱鬼までもが娘の唯を狙って動き出した。

 鬼姫の母となった上狛の陰陽師は、娘の唯を軸とした歴史の歯車が動き出そうとしてることを悟った。


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