第56話 氷華の裏切り
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岩井は親しい者に話しかけるような口調で犬に頼みごとをした。
岩井は、飼い犬の名をシロではなく次郎と呼んだ。呼ばれた次郎は目を細めた後、何も言わずにフンと顔を背けて朱鬼へと向き直った。
「岩井さん!」
樹は、澪と岩井の傍に駆け寄った。
戦闘中に不意に捉えた犬童澪と朱鬼の会話。不思議を思って聞き耳を立てていると、その場にふらりと岩井が現れた。
喋る犬、古の巫女、岩井に似た怪しい男。恐らく彼らは揃って一連の謎の中枢にいるに違いない。樹は居ても立ってもいられなかった。
「よう! 樹」
「い、樹?」
岩井に似た男に名を呼ばれ戸惑う。本物の岩井はこれまで一度たりとも樹のことを呼び捨てにしたことが無かった。妙に馴れ馴れしい態度にも違和感がある。これはますます怪しい。
「ちょうどよかった。まぁなんだ、お前もある日突然このようなことに巻き込まれて、さぞ混乱しておることであろう。しかしこれには深い事情があっての」
「――事情?」
「子細について、今はまだ全てを語ることが出来ぬ。しかし、澪様との話のついでに掻い摘んで説明してやるゆえ、お前も話を聞いておるがよい。さすれば少しは事情というものについて分かることもあるであろう」
「い、岩井さん? あなたは……」
「なんじゃ樹?」
「あ、あなたは、本当に岩井さんなのですか?」
樹に問われて岩井はフフと嬉しそうに声を漏らす。
「ん……まぁ、それはこの際よいではないか。それに時間もないでの、また後にせよ」
岩井が童のように瞳を輝かせて笑う。樹は不満を漏らすが岩井には全く応じる気配がない。仕方なく口を閉じるしかなかった。
「さて、ことは千二百六十年を遡る」
岩井は氷狼神社に纏わる奇縁と秘史を語った。話に引き込まれていく。岩井の話を聞いて、樹は自分の中にある疑問を次々と紐解いていった。どの話も加茂家の古文書では知り得なかった事であり、それは真実を語っているようであった。
「――と、ざっくりと話せばこれが陰陽五家と鬼を巡る因縁である。さて、本題はここからなのだが……」
咳払いを一つして居住まいを正す。岩井は続きを話そうとした。
「ちょっと待て。岩井殿、お主はどこでそのようなことを知ったのじゃ?」
「うーん……。はては困ったものでありますな。澪様、まだ気付いては頂けませぬのか?」
「気付く? いや、すまぬ。……わしには記憶が欠けておるところがあってのう」
澪が申し訳なさそうに俯いた。
「記憶が欠ける?」
樹は尋ねた。
「そうじゃ。わしは犬童澪の記憶を持っておるのじゃが」
「犬童澪の記憶?」
「――ああ、それはの、本来、人は生まれ変わりなど出来ぬもので。じゃから今はこういうふうにしか言えないのじゃ。ともかく何故かわしは千二百年前の犬童澪の記憶を持った上でこの現世に上狛水音として生まれてきておるのじゃよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい! あなたが水音さんだって! そ、それじゃあの水音さんは」
「まぁ待て樹、それを話すと長くなる。そのことは後で分かるとして、今は澪様の事情の方が先じゃ」
「……わかりました」
樹は渋々了承した。
「うむ、よろしい。では話を。澪様、澪様の記憶が欠けておる話でございますが」
岩井が姿勢を正して澪を見つめた。その目はまるで覚悟を問うているようであった。澪はそんな岩井の目を見返し無言で頷いた。
「その昔、陰陽五家の神薙として桃花の他に四人の巫女がおった。ある日、その四人のうちの一人である
「金色の巫女を転じさせる? 卑巫女? 鬼姫?」
「うむ。真中家に生まれ出るのが金色の巫女である。その金色の巫女が陰に転じた姿が卑巫女である。そして、卑巫女の別称が鬼姫ということになるのじゃ」
「唯が金色の巫女で……それが転じて卑巫女になり鬼姫と呼ばれる……」
樹の納得する様子を横目で見て岩井は話を続ける。
「古より連綿と続く鬼との戦いの中に二回の
「……二回の大戦」
「うむ。その第一次鬼姫討伐戦であるが、戦の結果は、ほぼ桃花らの完勝といってよかった。そして桃花はこの戦で初めて鬼姫の実態が実は先に攫われて行き方知れずになっておった金色の巫女であることを知る」
ここで一度話を止めて岩井は澪を見た。問われた澪は了承の意味で頷きを返す。
「澪様、澪様はこの戦いのことをどこまで覚えておられますか?」
「あ、いや、そうであるのう……。わしは主様と、巫女達、それと
「その先は覚えておらぬ。ということでよろしいでしょうか?」
口篭もり戸惑う澪を見て岩井が念を押す。
「あ、いや、しかし……」
「実は澪様、それでよろしいのです。そこから記憶が無いというのは正しい事なのでございます」
「……」
「では、お話し致しましょう。ここからが澪様が知らぬ話なるのですが、その話というのが澪様にとっては実に辛い話になります」
岩井が悲痛を目に浮かべると澪は息をのんだ。
「この第一次鬼姫討伐戦において、澪様は罠に嵌められてしまう。澪様の魂の核は魔鏡に囚われてしまうのです。そして残された犬童澪の身体はその存在ごと奪われてしまった」
岩井の話に、そんな馬鹿なと呟いて澪の顔が青ざめる。どうやらそれは予期しなかったことのようだ。
「信じられないのも無理はありません。しかしこれが真実」
「……真実」
「――話を続けます。とにかく澪様は魂の核を封じられ有様のすべてを奪われてしまった。これは身体を乗っ取られるとか、魂が入れ替わるといった安物の術ではない。これは魂の核だけを抜いてそこに別物を上書きするといった高度な術。ですから偽の犬童澪の有様は、そのほぼ全てが澪様と変わりが無かった」
「そ、そのようなことが! 馬鹿な、あり得ぬ」
「事実であります。それは起こり、ある日突然、犬童澪様は別物となった」
「……」
「澪様は変じてしまった。しかしその事に誰も気づけなかった。それは澪様と契約を交わす神獣の次郎でさえも見抜けない程であった」
「次郎?」
樹はシロを思い浮かべながら尋ねた。
「次郎とは、澪様が使役する狼の神獣。その名を大口次郎左衛門景雪という。あそこで朱鬼と戦っておるシロのことじゃよ、樹」
「な、シロが神獣? しかも巫女に使役されるとは」
「樹、その話の説明も面倒じゃ、後にせよ」
「……」
樹は無碍に黙らされた。
「――では、話を続けるぞ。変じてしまった犬童澪について、桃花だけは薄々気付いておったようじゃが、
「そして、如何したのか!」
何か危惧を察したのか、澪が話の先を急ぐように問うた。
「その第二次鬼姫討伐で、犬童澪が白雉燐と猿楽爛を殺す」
「な、なんじゃと!」
澪の肩はわなわなと震えていた。岩井の目にも憂いの色が浮かんでいた。それでも岩井はその先の話を続ける。
「この第二次鬼姫討伐戦の結末であるが、鬼どもを追い詰めた桃花は最後に鬼姫を封じるといって幼き鬼姫の心臓を突き」
「な、なんだって!」
思わず声を出してしまった。それは赤月の桃花に教えられた呪いの解法と、桃花による鬼姫封印の話が全く同じであると思えたからであった。
――真実だとういうのか、これが。本当のことだというのか、あの赤月の桃花の言っていたことが。
「まだ話の途中なのじゃがの、如何した樹」
「い、いえ」
なんでもないと答えて樹は下を向く。様々な事が頭の中を巡っていた。
「その後に桃花は、この第二次鬼姫討伐戦で取り逃がした朱鬼と鬼の残党の討伐を加茂家の始祖と犬童澪に命じる。この時、神器蒼帝の大太刀は加茂家の始祖に預けられた。と、これが二回に及ぶ鬼姫討伐戦の顛末という事になる」
澪の顔に浮かぶ感情は悔恨というよりは怒りであろうか。真実を聞かされた澪は唇を強く噛んで堪えていた。その思いが、罠にはまった己への叱責なのか、敵に対する憎しみであるのか、樹には推し量ることも出来なかった。
千二百六十年も昔の壮絶な戦いの記憶。
時を経て再び、猿楽家、白雉家の巫女に氷華の巫女を加え、鬼姫と対峙しようとしている樹にとっても、聞かされた悲劇は身につまされるようであまりにも苦い。
――それでも今は……。
樹は、固く口を結んで過去を飲み込み未来を見る。澪の気持ちを察すれば心が痛み胸が苦しくなったが、今は感傷に浸っていられる余裕はなかった。
先代桃花と幼き鬼姫の逸話。真中家の始祖が鬼姫であったという伝承と、赤月の桃花が話した解法。樹の中で話が繋がっていく。真中家の成り立ちを鑑みても逸話と伝承は、なんの矛盾もなく見事に繋がってしまう。赤月の言葉の信憑性が増していた。
赤月の言っていることが正しいというのか……だが、しかし。――樹は迷う。
樹は無理に心に疑問を生じさせその疑問に縋った。
岩井は、桃花が鬼姫の心臓を突いたと言ったが、呪を解いたとは言わなかった。
実は鬼姫を殺していたということもあるのではないか。そのことをはっきりとさせなければ赤月の桃花の話が真実であるとは言い切れないではないか。
桃花は心臓を突いたあとで何をどうしたのか。自身に巣くう鬼を否定する樹は、そのことに真実の是非を賭けた。
「――加茂家の始祖と偽物の犬童澪は、この後に三年をかけて朱鬼を討伐することになるのじゃが」
「どうなったのですか?」
樹は心に疑問を抱きながら話の先を急いた。
「討伐は確かに叶ったと思っておったのだが、事実は違う。それは先程、朱鬼が話しておったであろう。もう少しで滅ぼされかけた。とな」
「なぜ、朱鬼は助かったのですか?」
「それはの、つまりは滅ぼすように見せかけて朱鬼を救ったやつがおるからじゃよ」
「それもまさか……」
「そう、犬童澪じゃ。勿論、偽物のことじゃがな」
「偽の犬童澪……」
樹の呟く声に頷いてから岩井は犬童澪の方に顔を向ける。
「今の話を信じろというのか。真実じゃと――」
「さようにございます。偽の犬童澪の存在。これが現在澪様の記憶が欠落している理由にございます」
犬童澪は沈黙を続けたまま目を伏して固まっていた。
「岩井さん」
「お、なんじゃ樹」
「桃花は、先代の桃花は結局は鬼姫をどうしたのですか? 殺したのですか? その時、加茂家の始祖と偽の犬童澪の前で桃花は鬼姫をどうしたのですか?」
「何故そのような事を尋ねる?」
「そ、それは……」
樹は口籠もった。岩井は黙って何も言わず、次の言葉を待つようにして樹を見つめた。そこで岩井が一つ息を吐く。
「その時、桃花はすぐ目の前にいた加茂家の始祖と犬童澪に鬼姫を殺したように見せていた」
「殺したように見せた? そんな、随分と曖昧じゃないですか!」
「鬼姫を刺した直後、桃花は手に掛けた鬼姫を弔うと言ってその場から立ち去ってしまった。じゃからその後の鬼姫がどうなったのか、その時、その場に残された二人には分からなかった。と、そういうことなのじゃが」
「ならば、事の真実など分からないではありませんか!」
「いや、真実なら分かる」
「岩井さん、まるで見てきた事のように物を言うではありませんか! なんであなたがそのように知ったふうな事を」
「――やれやれ。樹よ、初めに皆までは語れぬと申したではないか」
「な、なんで!」
「それはの……」
話を止めた岩井が、目を細め睨みつけるように視線を飛ばす。
樹はつられて岩井が視線を送った先に顔を向けた。岩井の口角がフッと持ち上がる。岩井は樹に向かって銀の太刀を渡せと言った。
何をする気だと思いながら樹が太刀を差し出すと、岩井は太刀を矢のように宙へと放った。
「それはの、その詳しき事情を聞きたがってる奴、知りたがっている奴がこの場に来ておるからじゃ!」
太刀が唸りを上げて拝殿の屋根の上に向かう。
「岩井さん! 何を!」
それは樹の声とほぼ同時であった。放たれた銀の太刀が拝殿の上空で何かにぶつかり鈍い金属音を鳴らした。銀の太刀が空気の壁を抉じ開けようとして唸り声をあげる。
「フフ、フフフフフ」
銀の太刀の向こう側で女の笑い声がした。
「久しいのう黄玉」
いって岩井が不敵に笑う。
漆黒の闇を纏った黒髪の女が樹の視線の先に姿を現した。
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