第57話 黒髪の女
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夜の中に薄らと輪郭を見せる氷狼神社拝殿。その大屋根の頂に立ち、戦場を見下ろして長い髪の女が笑む。髪が風に吹かれると美しい濡れ羽色が艶やかに揺れた。
「黄玉!」
老軀の目にギラリと殺意が浮かぶ。犬童澪は憤怒の情を露わにして女を睨み上げた。
岩井は澪の横に並び立ち黄玉を見上げ、これで役者が揃ったと独りごちる。樹はおぼろげにその黒髪を見ていた。
黄玉の儚げな微笑は妖艶であり、憂いを伴ったその息遣いは甘美であった。
畏怖を感じさせる程に美しい。それが樹が黒髪の女に抱いた印象だった。しかし、黄玉がその身から放つものは美しさだけではなかった。この女はダメだということを瞬時に感じ取っていた。それは、いわば生き物が本能的に忌避してしまう毒気のようなものであった。
黄玉の登場に目を奪われていた束の間を横からきた突風が攫う。ハッとして周囲に目を配れば、歯噛みをしながら厳しい視線を投げる澪と、朱鬼から奪った太刀を担ぎ悠々と笑んでいる岩井の顔が見えた。澪は拳を握り締め今にも飛び出さんとしていた。
再び澪と岩井の視線の先を見る。大屋根の上で微笑を浮かべる黄玉の顔。明かりに集まる羽虫のように化けもどもが動いた。戦場には、いつの間にか主を守るかのように全ての野孤が集まっていた。
「樹!」
「澪様!」
蘭子と鈴、そして上狛の陰陽師も急いで樹の周りに集まってきた。
「樹様、あの者は」
「……黄玉」
「――オウギョク?」
虚ろに答えた樹の顔を覗き込み鈴が小首を傾げる。
「時の移ろいの中にあって様々な名で呼ばれてきた正体不明の美女。
「……不吉の塊」
「我らは古来より奴を黄玉と呼んできた。白の巫女よ、奴こそが元凶。ことを仕組んだ張本人じゃ」
岩井が鈴の疑問に答えた。聞いた鈴は額に手を当て一考する。
「……元凶。稽古場に現れた一口鬼のことも、あの錫杖のことも、……って、岩井さん! なんで!」
鈴の驚く顔を見て岩井がニッと歯を見せて笑う。
「まぁまぁ、よいではないか」
「よいではないかって……」
「説明すると長くなるのじゃ白の巫女よ。まぁ手短に話せば、この身体は岩井のものではあるが、今はちとばかしわしが使わせて頂いておるということじゃ。とりあえずそれで合点しておいてはくれぬか」
「は、はあ……」
渋い顔を見せるが、鈴は抱いた疑問をとりあえずとして飲み込んだようだ。その鈴の傍らにふわりと獣が降り立つ。
「ご苦労であったな、次郎」
岩井は、獣に謝意を示した。
「次郎? シロでは?」
鈴がまた首を傾げる。
「白の巫女よ、それもまた後程の。それよりも次郎、朱鬼は如何した?」
「フン、女々しく黄玉のもとへ向かったわ。合流することで体勢を立て直せるとでも考えておるのであろう」
「ほほ、相変わらず小さき男よのう」
鈴は岩井と獣の話から何らかの解を得ようとしているようだった。聞き耳を立て目は注視をしていた。岩井と獣の顔を交互に見て彼女も何かしらブツブツと呟いている。
「何にせよ、これでこの場に役者が全て揃ったというわけか」
「おいおい、次郎よ、それはまだ早いぞ、メインキャストがまだである」
「メインキャストだと? どういうことだ」
「次郎、お主の仕事もこれからが本番ということになる。気を抜くでないぞ」
「本番だと。おい、それは――」
「説明するまでもない。もう直ぐじゃ、もう直に分かる」
次郎が尋ね岩井が答える。鈴は直ぐさま察して肩に緊張を見せた。樹にはもう十分すぎる程に分かっていることであった。
拝殿側には朱鬼と黄玉に野孤の軍勢。相対するこちら側には四家の神薙に上狛の者と岩井に次郎。ついに両陣営が揃って舞台に上がった。対峙し睨み合う化け物と人。 それでも黄玉は一言も発することはなく動かなかった。
「なんで敵は動かないんだ?」
緊迫感に焦れる蘭子が呟いた。
「待っておるのじゃよ。奴らも」
「待っているって何を……。まさか!」
「来るのじゃよここに、ついに鬼姫が、いや、真中唯であったの」
「……唯ちゃん」
蘭子が空を見上げた。
「澪様」
「ん? なんじゃ皐月」
「我等はこれから如何いたしますか?」
「おお、そうであった。実はの皐月、そなたと極月にはまだ話せていなかったが」
話を止めて澪が一時思案をする。皐月は澪の言葉を待って固唾をのんだ。
「実はの皐月――」
澪が傍らの皐月に事情を話そうとした時だった。
煌々と地面を照らしていた月の明かりが突然遮られると、辺りを暗闇が包み込んだ。上空から一帯に身を圧し潰さんばかりの重い気が降ってくる。
蘭子は口を引き結び上空を見上げていた。鈴も無言で闇の正体を観察していた。隻腕の陰陽師は憂える目つきで眉根を寄せる。上狛の陰陽師達は肩に力みを見せながら顔を強張らせていた。そうして最後に犬童澪が静かに呟いた。
「――来たか、真中唯……」
黒闇に浮かぶ巨体が肢体をうねらせ、ゆるりと夜空を泳ぐ。見える大蛇は視界に収まりきらぬほど巨大であった。ルビーのように輝く眼は天に煌く赤星のように美しい。樹は息を呑んだ。
大蛇の二つ並んだ赤い星の上に長い髪を風に靡かせて一人の少女が立っていた。
あの頃と比べ随分と様変わりしていたが確かに面影はある。間違いない、唯だ。
「御出座しであるな。皇陣、そして鬼姫」
岩井の言葉を横に聞く。コウジンとはおそらくはあの蛇の名であろうと樹は理解をする。大蛇が空から見下げて笑うと、樹の傍らにいた獣の毛皮から気勢が上がった。
「なるほどな。我の役目とは、本番とはこのことか」
吐き捨てるようにいって飼い犬は式の殻を破る。
蒼銀色の毛並みをふわりと揺らし、獣は巨躯に力を漲らせながら首を上空へと向ける。水晶の如き澄んだ青の瞳が大蛇を睨みつけた。氷華の巫女の神獣がついにその本性を露わにした。
「懲りぬ奴。皇陣よ、あの時のようにまた、我等に対して戯れるのか」
次郎が蛇に問いかける。
「フ、戯れるだと? それをお前が言うのか次郎。裏切り者に使役されていたお前が」
「はて、何を申しておるのか。我が主は裏切りなど行ってはおらぬ」
「白の巫女と赤の巫女を殺しておいてよくもまぁ言える。我が何も知らぬと思うなよ次郎」
「煩い黙れ! あれは我が主にあらず」
「フン、存在を奪われたことが既に手落ち。そのようなことは通らぬわ」
「ならば言わせて貰うが、お前の主の方こそ情けないことだ。五行の中心にありながら、再び陰に転じさせられるとはな」
「笑止。転じるも何も、金色であれ鬼姫であれ、我が主は何も変わらぬ」
「理屈だな。もうよい、再び懲らしめてやるゆえに覚悟せよ、皇陣」
「出来るのか次郎よ、あの時のように手加減などしてやらぬぞ」
「ぬかせ皇陣、それは我の台詞」
怒りと共に口からから吹雪を噴き出し、次郎は宙へと躍り出た。
千二百年の時を超え、再び神獣同士の決闘が始まろうとしていた。
皇陣が次郎を迎え撃つべく肢体をくねらせると、大蛇の頭部から跳躍した鬼姫がゆっくりと地上に舞い降りる。
樹と蘭子と鈴のすぐ目の前に行方知れずの少女がついに立った。樹の脳裏に苦節の歳月が流れていく。
「――唯ちゃん……なのか……」
「面影は見えますわ。あれは唯ちゃんですね。それにしてもあの気、凄まじいものでございますね」
強烈な気を放ち樹達を見据える唯。冷血を感じさせる瞳は仄暗く曇っていた。
樹の身体は極度の緊張により震えていた。
視線の先で、無表情な少女の髪と瞳が鮮やかな青紫色に変わっていく。唯の瞳が徐々に鬼気を纏っていく。鬼姫の瞳の瞳孔は細くまるで爬虫類の目を思わせた。
「唯……」
呟きとも呼びかけともとれる声が無意識に樹の口から洩れた。しかし少女は樹の声に何の反応も示さなかった。
「樹様……」
「ああ、鈴ちゃん、どうやら正念場がやってきたみたいだね」
「樹……」
「蘭子、ここは言った通りに。鈴ちゃん、悪がもう一度僕に太刀を」
どこまで出来るか分からない。手にする神器も一向に応えてはくれぬままだった。だが、もう泣き言を言っている場合ではない。とにかく何とかして唯の動きを封じねばならない。銀の太刀を手に取った樹は唯との間合いをはかった。
樹が動くと、すぐさま唯が片手を翳す。鬼姫の手から金の光が放たれた。
その攻撃を見切って半身で交わす。樹の衣服を掠めた金の光はそのまま後ろの木々を滑らかに切り刻んだ。
鋭利に裂かれた上着にチラリと目をやり強く一つ息を吐く。樹は、唯に向けて太刀を構え直した。
次は左手から黒い光が飛び出した。樹は蒼帝の大太刀をくるりと風車の様に回し黒の光を弾き飛ばした。
咄嗟に岩井が見せた技を真似てみたがどうやら上手くいった。その技を使えば唯の放つ攻撃を弾くことが出来た。それでも精一杯である。力を出し惜しみできるほどの余裕は樹にはなかった。
「一か八か、やってみるか!」
樹は唯に向かって飛び出した。
唯の懐に飛び込んだ樹は唯の身体を捕まえようとした。
鬼姫が不気味に笑う。甘かった。唯の動きは素早く、樹の攻撃は空振りを見せた上に、反撃を許してしまう始末。鋭く伸びた唯の五指の爪が横殴りに樹を襲った。
「く、そんなもの!」
間一髪で飛び退って樹は爪から逃れた。走る風を受けた頬から生暖かいものが流れ出た。頬から顎を伝って地面に落ちる血を見る。樹の背に汗が流れた。
碧の髪と青紫の髪が剣舞を舞った。縦に振り下ろした太刀を鬼姫が笑い声をあげながら躱す。くるりと反転した鬼姫が、そのまま屈んで蹴りを繰り出し足を払おうとしてくるが、樹はそれをトンと跳ねて避けた。高速で動く互いの手数はほぼ同数。どちらも相手に届かせることが出来ない。息もつかせぬ攻防が続いた。
均衡を見せる勝負だが、打撃さえ当てられぬ樹に対して、唯の攻撃には殺意が籠もる。力量ということでは互角を見せるが、やはりその意識の差は大きく。どうしても樹は劣勢に立たされてしまう。
根負けし僅かに樹が後退った。
――どうすればいいのか。何か手はないのか。唯を救う為に何とか動きを封じねばならない。樹の中に徐々に焦りが募っていく。
戦闘中の不用意な迷いが一瞬の油断を生んだ。その隙を青紫の瞳は逃さなかった。
「――しまった!」
頭上から爪が襲い掛かる。樹は咄嗟に太刀を手放し両手で唯の手を受け止めた。
劣勢に見えるが、それは窮地に得た思いがけぬ幸運だった。
遂に、唯を捕まえた。このまま一気に押さえ込むことが出来れば……。
唯の腕を捕まえたまま片膝を突く樹。鋭利な爪が樹の睫毛に触れる。押し込まれる。奥歯がギリと音を立てた。
樹は力を振り絞った。鬼姫の口から呻きが漏れると徐々に形勢が転じていく。
――だがしかし。
いける! と思った時である。突然、あの痛みが、あの苦しみが樹を襲った。
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