第42話 鬼火⑥

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 お前を倒して氷狼神社へ行くのだと大見得を切る鬼灯ほおずきるい。だが、ことはそう簡単には運ばないであろう。黄玉おうぎょくと呼ばれている女は雑作もなく鬼と変化した使用人の男と家政婦の女を倒してしまうほどの者だ。

 たとえ、鬼灯累が鬼姫おにひめであったとしても、真中まなかゆい金色こんじきの巫女であったとしても持っている力の使い方が分からぬでは戦いにもならぬであろう。

 緊迫した状況を目の当たりにして水音の心に潜む何者かが再び焦燥し始めた。しきりに何かを訴え始めた。水音は戸惑う。どう行動すれば良いのか。何を成すべきなのか。何が出来るのか。


 使命と感情の狭間で揺れる心。そんな水音の耳に累の挑む声が飛び込む。


「黄玉! あなたの思うようにはさせない!」

「あらあら、鬼姫様。まだそのように聞き分けのないことを――」

「うるさい! 私を鬼姫と呼ぶな! 私は本当の自分を取り戻すの。そしておじさんとおばさんのかたきを討ちます!」


「フッ」


 累の言葉をなおざりに聞いて女は失笑を溢す。


「仕方のないお姫様ですこと。まぁいいわ、ここで再教育するのも私の勤めです。その緩んだたがを締め直すとしましょう」


 戦いが始まる。累が力を見せ先手を打った。突き出す両手から金と黒の光が迸り黄玉へと向かう。だがその累の攻撃は揺らぎを見せた的をすり抜ける。


「な、なんで!」


 外れた累の初撃が女の後ろで凄まじい音を出し爆発を起こした。

 巻き起こされた風と砂塵の中で女が怪しく目を光らせる。

 女は累の顔に焦りをみて薄笑いを浮かべていた。

 その後も累は次々と光を放ち敵を射止めようとするのだが、女はその攻撃のことごとくを躱してしまう。


「なんで! なんで当たらないの!」


 累の顔に動揺が見えると女がたしなめるように言う。


「まるでなってないわ。せっかくの力も、当てられないのではどうしようもないわね」

「そんな……」

「フン、もう飽きたわ」


 言ってしたり顔を見せる。女は眼に凶悪を浮かべその手に錫杖を出現させた。


「そういえば、鬼姫様。私のことを仇と申されましたが、お友達の件はもうよろしいのですか?」

「友達? 私の?」


 累は、戦闘中に投げかけられた問いにより動揺し何かを思い出そうとする仕草を見せる。累は身体を強張らせてしまった。その直後、女が累に向かって飛び出した。

 横を払うように走る錫杖が勢いよく腹に食い込むと身体は堪らずくの字に折れ曲がり累は地面に両膝を着いた。口からは重い呻きが漏れ、顔は苦痛に歪んだ。

 苦悶する累を見て女が悦を伴った笑みを浮かべた。


「あら? 鬼姫様ともあろうお方がそのように地に伏して。なんともまぁ、みっともないことじゃありませんか。ククク」

「……私は」


 髪を鷲掴みにされ無理やり顔を上げさせられた。それでも累は横目で女を睨みつけ不屈を顔に浮かべる。


「はい、何でございましょう? なんなりと申して下さりませ」

 

 女が少女の腹を蹴り上げた。累の体がもんどりを打って倒れた。


「わ、私は……負けない」

「はい? よく聞き取れませんねぇ? もう少し大きな声でお願い致します。遠慮はご無用にございますよ、姫様」


 累に応える女の言葉は丁寧であったがその声は多分に毒を含んでいた。

 女は優しい顔で累に近づいていくと再び髪を掴んで強く左右に揺らした。


「ほれ、如何なされましたか。お話しくだされませ、お話しくだされませ、ほれ、ほれ」


 甚振いたぶられながらも歯を食いしばり耐える累のうめきを聞く。

 水音は太刀を握る手に力を込めた。苦痛に喘ぐ少女を黙して眺めていられる水音はもういない。累を救う為に出ていくことは今の水音には当然の事となっていた。水音は一歩を踏み出した。だが、飛び出そうとしたその瞬間、脳裏に犬童澪の声が響く。


『決して動くな。決して姿を見せるな』


 主より課された厳命が呪縛のように水音の動きを封じた。

 指一本動かすことが出来なかった。そこで何者かの意図によって縛られていることに気付く。意識の外から、干渉してくる何かの力が水音の身体の動きに制約を掛けている。


 ――くっ! なんだ! どうした! 動け! 動かないか!


 思考だけは回るが手足にどれだけ力を込めても自らの意思を肉体へ伝えることが出来ない。そのまま、身体の自由が利かないまま残酷な光景を見せつけられ、焦りだけを募らせていく。水音の鼓動はどんどんと大きく速くなっていった。


「――ゆい!」


 強情な意思が悲痛な叫びを伴って縛るものを打ち破ろうとして足掻く。

 抗う水音の耳が再び女の嗜虐しぎゃくの言葉を捉えた。


「苦しいですか、痛みますか、お辛いのですね鬼姫様。無理もないことでございます。そのようなつまらない自我などに縛られて……。お労しや……。でも、どうかご安心くださいませ、私が直ぐに楽にして差し上げますから」


 女の更なる甚振いたぶりが始まった。暴力が嵐のように累の身体に降り注いだ。

 蹴り上げられた胴体が宙に浮くと、そこへ容赦のない錫杖が怒涛の殴打を浴びせた。

 地に着く間も与えない。女の攻撃は累の身体を空中に浮かせたまま操り人形のように踊らせた。

 累を地面に落とすと次にその少女の頭を踏みつけて女が恍惚の表情を浮かべる。

 そうして女が再び累の髪を掴んで持ち上げた。

 頭を持ち上げた際に女が累に顔を近づけて何かを言ったようだったが、その言葉を水音は上手く聞き取ることが出来なかった。

 言い終えた女は嬉々としてまた暴力を開始した。

 殴打を与えて痛めつけ、一息ついて累が立ち上がるのを待つ。黄玉はそれを延々と繰り返した。


 ――やめろ、やめてくれ!


 噛んだ唇から呻きが漏れる。それでも水音は、縛られたことにより女の残虐の様子をただ見ていなければならなかった。水音は己が痛めつけられるよりも激しい苦痛を心に感じていた。


 ――もういい、もう立つな、唯!


 累が立てば、女が錫杖で足を払ってまた倒す。

 累の心を折るまでと繰り返される暴力。その暴虐は止まりを見せなかった。

 女が倒れ込む累に近づき徐に足を上げた。

 勢いよく降ろされる足が累の腹に食い込むと累の口から醜い悲鳴があがった。

 血反吐を吐いた累を見て、水音は五体を引き裂かれる思いに至る。

 痛めつけられボロ布のように汚れて地に伏した累は成す術もなく四肢から力を失わせていった。水音の心は半壊していた。


「随分と頑丈なこと。でもそのおかげでスッキリしちゃった」


 高笑いする女は累を足蹴に転がしながら悦に入った。その女が何か思いついたようにニタリと笑みを浮かべる。


「そうね、どうせなら手足の一本も捥ぎ取っておこうかしら、殺さなければいいのよね。そうよね、この際ですものもっと愉しまなくっちゃ」


 水音の奥歯がギリギリと音を立てた。


「さて、鬼姫様はどのように鳴くのかしら。フフフ、フハハハハハ!」


 こいつだけは許せない。

 胸の奥から熱を帯びた何かが止め処なく湧き出してくると、ついにその激情が臨界へと迫った。

 怒りに震える水音の中で魂を包み込んでいたベールが一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。

 それは自我の崩壊というよりも目覚めというものに近い感覚であった。

 あの子の為なら、たとえ神の言い付けであろうと背いて構わない。

 私はあの子の為なら何もかもかなぐり捨てることが出来る。そうあの子の為ならこの命さえも惜しくないと思える。


『――行くのですか? それでも、己を犠牲にしてでも』


 突如、水音の頭の中に先程の犬童澪とは別の男の子の声が響く。


「誰だ!」

『――唯は死にませんよ。これは時の必然なんです。だからこの戦いでも唯はきっと負けない』

「誰だ! ――時の必然? 何を言っている!」


 心に直接語りかけてくる者の声はどこかで聞いたことがある声だった。

 水音はその子供の声を思い出そうとした。


『今、出ていけば何が起こるか分からない。あなたは失わなくてもいい命を二度失う事になるかもしれない。それは本意ではありません。一度目は救えた。だが二度目は、おそらく無理です』

「一度、救えた? 二度死ぬ? 何のことだ?」

『今、起きているこの事態は僕の知っている事実からは随分と齟齬が出てきています。それがあなたに何をもたらせるのか分からない。だから自重してくれませんか? 唯の為にもあなたを失いたくはない』

「唯、唯だって……」


 水音は唯の為だと話すその子供の顔を思い出そうと記憶を辿った。


『思い出そうとしても無駄です。記憶は封じています』

「記憶を封じる?」

『はい。封じています。これは必要なことだった。あなたを死なせたくなかったのです。どうか許してほしい……』

「…………」

『肉体を持たない魂は人を現世に留めさせることが出来ない。あなたは消滅してしまうかもしれない』

「そんなことはどうだっていいんだ……私は唯を救いたい。私は、私はもう唯が傷つくのを見るのは嫌なの……」

『あなたのお気持ちは分かります。しかし……』

「頼む。どうかこれを解いて欲しい」

『その願いは、僕にあなたを殺させるのと同義だ。僕はあなたに生きて欲しい。だから――』

「言っているだろう……私はどうなってもいいんだ!」

『…………』

「頼む……」

『――分かりました。しかし、一つだけ約束して欲しいことがあります』

「約束?」

『はい、必ず守っていただきたい約束です』

「その約束というのは」

「この後、鬼灯累は鬼姫となって氷狼神社へ行き、そこで桃花と戦うことになります』

「桃花と累が、いや、加茂樹と唯が……戦う?」

『はい』

「そんな、残酷な事が起こるというのかこれから」

『はい。しかし心配はいりません。それでも唯は無事に済みます』

「唯が無事に済む。それは本当のことなのか?」

『そのことは保証します』

「信じていいのか?」

『これは歴史の必然であり、時の必然です』

「時の必然……」

『はい。必然です。そしてこれは必要な事なのです。ただ……』

「ただ?」

『こればかりは変えようがないことなのですが、絶対に変わらないという事も言えない。そう今のあなたの在り様が変わってしまっているように……』

「私の在り様……」

『そうです。本来のあなたの役割はもう少し違うものだった。その変遷が必然として起こったのかどうかは分からない。多分、必要であったとは思うのだけれど……』

「本来の私……」

『すみません。今は詳しくは話せません。しかし、あなたは危険だ。今のあなたは大きなイレギュラーの因子となってしまっている。お願いです。この戦いの後はこの場を動かず、ここで唯の帰りを待っていて欲しい。くれぐれも氷狼神社へ行く唯を追わないで下さい。あなたが氷狼神社へ行けば、歴史を変えてしまう恐れがある。そうなれば桃花が時を渡れなくなる可能性がある』

「桃花が……時を渡る?」

『桃花は時を渡る。このことは何があっても成さなければならない。それにはどうしてもこの後に起こる桃花と鬼姫の邂逅が必要になるのです』

「詳しい事情は話してはくれないのか?」

『いずれ分かるとしか今は言えない。仕掛けはしました。しかし不確定要素は出来るだけ排除しなければならない』

「わかった。私は氷狼神社へは行かないと約束しよう」

『――では、あなたの縛りを解きましょう。それでも記憶だけは封じたままです。許して下さい。これは唯の為でもありあなたの為でもある』


 水音は無言で頷きを返した。

 身体の縛りが解かれたのを感じると体感が変わった事に気付く。これまでの自分とはまるで違った何者かになっているようであった。力が漲るのを感じていた。

 そこにはもう上狛五神官を束ねる筆頭陰陽師の姿はなかった。水音は心の奥底から溢れ出る思いに飲み込まれ駆け巡る血汐に身を委ねた。

 しかし、水音が累を救おうとして動き出そうとしたその時だった。

 水音の耳が打ちひしがれて伏せている累から漏れ出した細い声を拾う。





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