第2部 鬼姫の涙

第29話 鬼火④

   -29-

 漆黒の髪の少女は眠りから覚めようとした。

 だが、少女の意識は空を漂うようで定まらず、気だるさを感じる体は重い瞼を半分しか開かせることが出来なかった。

 その半部だけ開いた瞼の奥で紫紺の瞳は仄暗くまだ光を取り戻すことが出来ない。

 そんな少女の五感に一番先に届いたのは、部屋に漂うほのかな桃の香だった。

 安らぎを覚えた少女は深く息を吸った。

 どこか懐かしいその甘い香りに包まれて少女の心は凪ぎの海を漂う。

 徐々に意識に明るさを取り戻していくと見つめる先に白い天井が見えた。

 その景色に見覚えがあることに思考が到達すると、鬼灯ほおずきるいはここが自室であり、自分が今ベッドの中に横たわっていることに気がついた。


 ――私は……。


 心は平静を保っていたが、どことなく悪い夢にうなされていたようにも思う。

 しかしその悪夢がどのようなものであったのかを思い出すことは出来なかった。

 枕元に置いてある目覚まし時計に目をやると、デジタルの表示が記憶に残る日付よりわずかに一日が過ぎただけであった。一体いつから自分はここで眠りについていたのだろうか。こうなる前の自分は何をしていたのだろうか。

 深く記憶を辿ってはみたが、分かったのは眠りが深かったことと自身がひどく疲れているということだけであった。


 なんだろう、頭が重い……。


 心身にひどい気怠さを感じると、重い身体と弱っている心が回復を優先させようとして累をもう一度眠りへと誘った。――眠い……。

 一つ深く吸って息を止め、それを心に溜まったモヤとした何かと共にゆっくりと吐き出す。累は再び微睡まどろみ始めた。しかし、そんな夢現ゆめうつつの中で何者かが累に話しかけてきた。


「コンジキのミコ様、お目覚めになりましたか」


 ぼんやりとする累の耳に届いたその声は横手から聞こえてきた。

 話かけてきた声に累は既視感を抱く。話す者のその気配にもどこか覚えがあるようだった。まるで自分の体から別れた半身がそこにいるかのような気配に少しだけ安心感を覚えた。

 何とはなしに声の方に顔を向けると、そこに柔和に笑む少年の顔が見えた。

 少年を見た累は、あなただったのかと古くから見知った親友の顔を見たように思い再び目を閉じようとした。しかし……累はその少年を知らなかった。


「なに? だれ?」


 累は目を見開いた。


「――痛っ!」


 自室に男の子が存在している不思議。慌てて飛び起きると、腕にも足にも背中にもといった具合に全身に痛みが走った。


「なにこれ? 私どうしちゃったの?」

「それはコンジキのミコ様が、酷いお怪我を負われたせいでございます」

「え?」


 少年が累の疑問に答えた。言葉の始まりに妙な呼ばれ方をされたような気がしたがよく聞き取れなかった。

 怪我をしたからだ。と話す少年の言葉を受け確かめるように五体の隅々へと意識を配る。

 累は訝しんだ。体を動かそうとすれば筋肉は固まっており、骨は軋むように痛んだ。身に触れる寝具は絹であるにも関わらず擦れれば肌にヒリとした痛みを与えてきた。

 どうやらこの少年の言うことは本当らしい。確かにそこかしこに痛みを感じる。

 だが、これは大した怪我なのだろうと自分の身体を衣服の下まで覗いてみるが累の肌はいつも通りで怪我をしたようには見えなかった。

 見た目と痛覚とに違和感がある。そのアンバランスがどうにも理解できなかった。

 累は疑問を抱きながら少年を見た。


「あ、あの……怪我をしたと。あなたは私が怪我をしたと言いましたが……確かに怪我をしたような痛みは感じるのですが……」

「傷がない。ですか?」

「……はい」

「治ったのでしょう」


 さも当然、といったように少年は答えた。


「はい? ……ええっと、それはあなたが……その……手当というか治療というか……して下さったのでしょうか?」

「いいえ、貴女様はご自身の、コンジキのミコの力で治癒なされました」


 いって少年は目を細め笑みを浮かべた。

 この時、少年が累の事を聞き慣れない呼称で読んでいる事に気付く。それは知らない言葉であった。


「貴女様? コンジキ、の、ミコ?」

「はい。貴女様はコンジキのミコにございます。金の色に巫女で金色巫女こんじきのみこです」


 何がなんだか分からない。累には目の前の少年の話す事が理解できなかった。

 それでも「巫女」という響きにはかすかに親しみや懐かしさを感じた。


「……巫女……巫女」


 累は、その言葉を繰り返し口に出してみた。


「はい。さようでございますよ、金色巫女様」


 少年が嬉しそうに笑みながら肯定した。

 累は「巫女」という言葉を頭の中で反芻しながら、ここで初めて初見から既知のように話す少年の全容を伺った。

 どうやら危ない感じは無さそうだ。しかし、少年の恰好は怪しすぎる。


 累に違和感を抱かせたその理由は目の前のその少年の姿にある。

 まるで平安の絵巻から飛び出してきたような格好。歴史の教科書に出てくるような姿。少年はほうを纏い烏帽子えぼしを冠っていた。

 姿はいわゆるコスプレとは違っていて妙に板についている様子である。

 その端正な顔立ちに長い黒髪も凛として美しい。いにしえの貴族を思い起こさせる様相は、突如目の前に現れた事と相まって累に夢と現実の境を失わせた。

 しかし累は知らない間に傍にはべるこの奇妙な存在に対して不思議と不安や恐怖などは抱かなかった。

 直観はこの少年が、自分のことをよく知る人物であろうことを累に信じさせていた。

 この屋敷で暮らし始めた当初からずっと抱いている疑問。心から何かが抜け落ちてしまっているように感じていた。累は、自分の事をよく知ると思われる少年について詳しく知りたいと思い問いかけた。


「えっと、それで? あなたは、あなたはどこのどなた様なのでしょうか?」

「――それは……」

「それは?」


 素性への問いかけに口淀んだ少年に言葉をかぶせて累は尋ねた。


「それは、それは今はお答えできぬことなのです」

「え?」

「あなたにはじゅが掛けられております。そのことで、私とあなたのえにしも封じられております故……。ただし、あなたが力を解放された折に、皇陣こうじんも解放され、私への縛りも緩みました。それで今、私はごく細い糸を手繰るようにして貴女様の御前に姿を現すことが出来ているのでございます」


 ――呪? 縁? 力? ……コウジン? ……発現? ……なんのこと?


 少年の話す事が理解できなかった。


「あなたのお名前は?」

「――申し訳ございませぬ。今の私には名乗ることが出来ない。私は名を奪われております。それを解き放てるのは巫女様のお力だけにございまする」


 少年が悲し気に俯いた。


「名前を奪われる? 巫女の力?」


 話を聞けば聞くほど訳が分からなくなった。

 しかしこの少年との出会いと自身の現状により、自分の身に何か重大な事が起こったことはどうやら間違いがない。

 そこで累は我が身に起きた出来事を思い出そうとした。けれども深く意識を探れどももやの中を彷徨うようでまるで見えない。累の記憶には霞が掛かっていた。

 溜め息が漏れた。


「――ダメだ。私、がんばっても何が起きたのか思い出せないわ……」

「それは、あなたが思い出す事をいとうておられるからでございましょう」

「え? それは私が、私自身が思い出したくないと思っているということでしょうか?」

「はい」

「それは……何故でしょうか?」


 累は他人事を訪ねるように呟いた。

 もどかしい。身に起きた出来事はどうしても思い出さなくてはいけないことであり、それは自分にとってとても 大切な記憶なのだと思えた。けれどそれを思い出すことを自身が拒絶していると少年は言う。

 自分で自分のことが分からない。

 累は下を向きシーツを強く握りしめた。

 一体私はどうしてしまったのだ。いったい何があったのだ。私は何だ。


「思い出すことが出来ない。それは本来の貴女のさが憐憫れんびんと慈しみであるからでございましょう」


 少年が累の心を読み取ったように優しく理由を述べた。


「……本来の?」

「はい。本来の貴女様にございまする」


 少年の口から出た本来という言葉にはどこか腑に落ちるものがあった。

 自分は何者であるのか、それは累が常々自身へ抱く違和に対しての問いであったからだ。

 自己に対する肯定と否定とのせめぎ合い。

 現実を認識しようとするほどそこから乖離をさせられて空想を彷徨う心。

 掘り下げて考えると自分が消えて無くなりそうで怖くなった。

 だからいつも空想は遊び事だと思うようにしてきた。

 しかし目の前に現れた少年は今の累の姿を偽りであると断言する。

 心に届いた言葉と置かれる状況に何かを掴みかけている。累の鼓動は高まった。

 累は少年に救いを求め、自身の在り様について性急に答えを求めた。


「本来の自分? ……本来の私とは何? 私は、私は何なの?」

「――それも残念ながら、今の私には申し上げられないこと。貴女が自身の在り様を取り戻すしか手はございません」


 高まった期待はあっさりと外された。少年の言葉に累は肩を落とした。


「自分の事は自分で思い出すしかないと……」

「はい。こればかりはご自身で何とかしていただかねばなりません。そして今の貴女様にはそれが出来るでしょう。あの時とは違う」

「……あの時?」

「はい、あの時、同じよな境遇に陥った先代はまだ幼く、桃花の手助けが必要であった」

「先代? 桃花?」

「はい。先代とは先代の金色巫女様のことでございまする。そして桃花とは先代の桃花の神薙にございます」


 一度落胆しかけた累であったが、少年の口から出た「桃花」という言葉はまるで郷里を思い出させるように累の心をくすぐった。

「桃花」という言葉も初耳であったのだが、その響きにどんどんと引き付けられていく気がした。累は考えた。


 ――桃花とは何だ? 心のどこかに覚えがあるような気がするのだが……。

 目覚めてから僅かの間に気分は上がったり下がったりを繰り返し、心は少しも落ち着かなかった。だが目の前の不思議な少年との会話は累の心に少しずつ光明を与えてくれているように感じていた。累は考えた。


 桃花とは何だ? 誰だ? なんだろう……何かぼんやりと……なんだろう……。

 必死になって思考を巡らせるがどうにも歯がゆい。しかしこの時の累にはそれが希望にも思えていた。あと少しで大切な何かに手が届きそうだとも思っていた。


「桃花……桃花……桃花って桃の花のことよね……」


 累は少し前にスマホで検索していた桃園の画像を思い起こしていた。

 何故か惹かれたあの可愛らしいピンクの花々。その花々が咲き乱れ、散り乱れる景色は確かに自分の中にある物だという気がした。


「私が、私が本当の私を取り戻すしかないんだよね!」

「はい。さようでございます」


 その累の言葉に少年が強い期待を瞳に浮かべて頷く。



 累は視線を上げた。正面に目をやると大きな鏡台に映った自分の姿が見えた。

 伽羅色の肌に漆黒の髪の少女。鏡の中には少女を見る紫紺の瞳があった。


「――あなたは誰?」


 累はいつものように鏡に映る自分に尋ねた。


 ……いや、これではダメだ! もっと強く、もっと強く。


 少年が話している事が真実なら、いや真実である。

 累はもう知っている。日々に自身に問いかけてきたことは真の自分がまやかしの自分を打破しようとするの心の叫びだったのだと。

 偽りの自分にはもう惑わされない、今の自分は本当の自分ではないと思う累の心にはもう少年の言葉を懐疑的に受け取る余地はなかった。そして今の累はこの鏡の中の自分が仮初めの存在であると確信していた。


「今の自分は本当の自分ではない。ならばわたしは誰だ!」


 もう一度累は鏡の中の自分に問うた。


 私は誰だ。私は誰だ。私は、私は、私は……。


 更に深く思い強い意志を持って問う。


「今の私は真の私ではない! 真実を! 私の心よどうか真実を示して!」

「――み、巫女様……金色巫女様……ああ、私は、私は……」

「え?」


 傍にいる少年から歓喜の声が漏れ出た。

 鏡に映る自分の姿から少年の方へ目を向けると、胸の前で小さな手を握りしめる少年が喜びに震えているのが見えた。


「ええええ! なんで! なんで!」


 少年は全身から神々しい光を放った。少年の髪と瞳が黄金こがね色に変わっていく。


「ありがたき幸せにございまする。私は貴女様のお力によりこうして姿を取り戻すことが出来ました」

 累は目を丸くして金色の少年を眺めた。

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