第12話 事件を追う者
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稽古場へ向かった。入り口で立ち止まり一礼をする。
そろりと右足を持ち上げた樹は、心に戸惑いを抱きながら厳格さを保つその域内へと踏み込んだ。
正面奥、幕の向こうには祭壇があり、祭壇より一段下がったところに大太鼓が見えた。木の香が薫るような木造の部屋。壁面は板張り、飴色の床板は経年と手入れにより艶を見せる。樹は身を包み込むような雰囲気を受け取ってどことなく高揚感を抱いた。
勝手知ったるその場所は、あの頃と少しも変わっていなかったが懐かしさなど抱かなかった。感じていたのは時の流れだった。
目にする景色に違和感があった。その場所は狭くなったし、天井も低くなった。樹は、数年ぶりに立ち入った稽古場を窮屈に感じていた。
――それもそうか……。
樹は当たり前のことだと納得をする。この稽古場を頻繁に利用していたあの頃の樹は十一歳だった。あれからもう……。小学生だった自分ももう高校生になっている。
あの頃とは体格も目線の高さも全く違う。樹は自分の身体の変化にも歳月を感じてしまう。胸が苦しくなった。夢の中の唯は当時のままの子供の姿だった。しかし唯の容姿も年月の経過と共に随分と変わっていることだろう。時間は人に等しく過ぎていく。ならばそれは当然のことだ。
見てくる視線に気付きフッと顔を上げた。稽古場の中を見ると、樹の父、
あれは……。その人物は今も唯の行方を追っている刑事の
歳は三十過ぎ、緩んだ表情に無精髭を生やす優男。長身細身は柳が風に流されるが如くゆるゆるとしている。決して本意を見せない掴みどころのない男だったが、細い目の奥に鋭いものを宿していることに樹は気づいている。
「遅いぞ、樹!」
蘭子が樹を見つけて嬉しそうに手を振った。そんな快活の横で鈴もニコリと微笑みを浮かべる。傍に近寄っていくと、岩井が声を掛けてきた。
「よう、樹君、こんにちは」
にこやかに挨拶を交わしながらもその細い眼は笑っていない。相変わらず食えない中年男だ。
「こんにちは、岩井さん。いつもご苦労様です」
歩み寄り、岩井の正面で姿勢を正して頭を下げた。
「よせやい、そんな改まって」
脱力したまま手をブラブラさせて樹に応える岩井。その手には乗らないと樹は構えた。岩井は話し相手を油断させるために粗略な体を表現しているに過ぎない。
「父さんも、お疲れ様です」
父親にも頭を下げると、康則は何も言わずに微笑みを浮かべ頷きを返した。
「ちょうどよかったよ、樹君。今、君を呼んでもらおうと思っていたところだったんだ」
「僕に何か用事ですか。なんです?」
「いやね、樹君。君に尋ねたい事があって来たんだけどさ。樹君ってば忙しそうにしているみたいでさ。ほら、ここの宝物庫だっけ? なんだっけ?」
「収蔵庫ですか?」
樹は、子細を聞き流し短い単語で返答を済ませて先を促した。
呆けた表情、遠回しな口ぶり、わざとらしさはいつものことだ。
「そうそう。君、ここの収蔵庫で何か調べ事をしているんだって?」
「はぁ……」
ほら来たと樹は思うが、しれっと惚けて見せた。岩井が何かと言ったのはカマ掛けだと直ぐに分かった。
「やめてよぉ、樹君」
演じる樹を見て、岩井が困り顔を見せて頭を掻いた。あなたのその話術は通じないと言ってやりたかった。しかし、そのような意図さえも承知した風の岩井の態度は変わらない。
「岩井さんが、カマかけなんてするからでしょ。確かに岩井さんの考える通り、僕はあそこで唯の誘拐事件についての調べものをしています」
「へえ、唯ちゃんのことをねぇ」
「唯を探していることは家族にも話していません。まぁ家族の者は多分そうなのだろうと思っていたでしょうが」
「なるほどねぇ」
「それでも、唯の誘拐事件と、うちにある古文書が結びつくなんて誰にも考えられないことでしょ? 普通に考えれば僕はおかしなことをやっている。しかしそれを僕は自覚してやっています」
「へぇ」
「岩井さん、これで全部です! 他にもまだ聞きたいことがあるのなら、単刀直入に聞いてくれてかまいませんよ」
隣で聞いていた康則が苦笑いを浮かべて下を向いた。
「……わかったよ、では、その単刀直入とやらで聞こう。樹君『鬼姫』って言葉を聞いた事があるかい? あるならそれはどこで聞いたか教えてくれるかい?」
瞬時に心の防御が崩された。愕然とさせられた樹は口ごもると逃れるようにして身を逸らした。岩井の細い眼が少しだけ開いて、樹を観察しはじめる。
まさか、ここでまた鬼姫という言葉を、しかも実際に捜査をしている刑事の口から聞かされるとは思いも寄らなかった。混乱する。樹は何をどう答えていいのか迷ってしまった。そんな樹を見て岩井はスッと目を伏せ頷いた。
「あるんだね。そうかそうか、うんうん」
言いながら岩井は周囲にも目を配っていた。
「あれあれ? なんで蘭子ちゃんがそんな顔をしているんだい?」
見ると、蘭子があっといったまま口を開き驚き顔を固めていた。岩井にツッコミを入れられて動じる蘭子も返答に窮した。
「え、あ、あの、あの」
狼狽する蘭子の様子を見て岩井は笑う。蘭子の隣に座っていた鈴は咄嗟に下を向いて表情を隠した。
「岩井さん、その鬼姫ってのがどうかしたんですか?」
樹が助け船を出す。蘭子への視線を遮るように前に出て岩井に話しかけた。
「樹君、単刀直入って言ったろ。こっちも話すからさ、そっちも話してよ。どうやらここにいる神社のみなさんも知っているみたいだしさ。ねえそうでしょう? 康則さん」
突然話を振られて、ずっと表情を崩していなかった康則も苦く笑うしかなかった。
「じゃ、樹君。――まず、話を整理する為にあの日の話から始めたいんだけどいいかい?」
「分かりました」
樹が了承すると、その場にいる全ての者が岩井の顔を向いて頷きを返した。
「五年前、この神社の祭りの日に加茂唯さんの略取誘拐事件が起こった。現場は大勢の観客の見守る神楽殿の舞台の上だった。舞台には楽師達と舞手の加茂樹君、そして加茂唯さんの二人がいた。犯人が現れたのは演舞の最中だった。これが事件の概要だけど。これでいいかい?」
「はい」
樹の返事に岩井が頷く。岩井はその場の人間の顔を一人ずつ見ていき確認を取った。場が整ったことを確認した岩井は、一呼吸分だけ思案する様子を見せてから再び話し始めた。
「……そして、唯ちゃんを拉致した犯人は忽然と衆目の前から姿を消した。か……。いやぁ、こんなこと警察官の僕が言っちゃ駄目なんだけどね。消えるって言い方は不味いよねぇ、こんなのまるでオカルトじゃないか、ハハハ」
岩井が頭を一つ掻いて笑った。
「刑事さん、真面目にやってくださいませんこと!」
堪りかねた鈴が叱るように言った。
「ごめんごめん。なんだっけ、あ、そうそう、犯人が消えたって話だね。これはあまり僕達警察を責めないでもらいたいんだけどさ。事件後の鑑識作業でも、犯人の足取りに繋がる手掛かりがまるで掴めなかったんだよね。もちろん、開き直るつもりはないよ。ただ、祭りの日ということもあって不特定多数の人間が現場にいたということが逆に不運となった。会場が大混乱してしまったことも捜査に悪影響を与えてしまった。その上に、あの局所的な荒天ときたもんだから……これはもうお手上げ状態だった」
「そのようなことはもう、皆さんが存じ上げていることですわ刑事さん。それで? 何が聞きたくてここに来たのですか? 勿体ぶらずにさっさと本題に入りませんこと」
頭の回転が速い鈴は苛ついていた。勘も良く、話の先回りをしてしまう彼女は岩井の話し方が気に入らないようであった。
「いやいや、鈴ちゃん、何事も順序立て行わなければね。たとえ分かっている話でも零れ落ちている事実っていうものがあるかもしれないだろ? むしろそっちに気付く方が重要だったりもするんだ。回りくどいと思うかもしれないけど、ちょっと我慢して聞いてね」
「へぇ、捜査ってそういうものなんだぁ」
蘭子が暢気に感嘆の声をあげた。
「お猿の蘭子は黙ってなさい!」
「なんだと、おいこら鈴、あんたまた猿って――」
「二人とも、話が進まないよ」
樹が蘭子と鈴の間に割って入った。
「ははは、もういいかい? じゃあ続けるよ。警察はその後、怨恨と営利目的の線を中心に捜査を始めた。捜査本部を立てて犯人からの要求を待った。しかし待てども一向に犯人から加茂家への接触がなかった」
「ちょっと待って! 今どきさあ、身の代金目的の誘拐なんてあるのか? しかも犯人は大勢の前で顔を晒しているんだよ」
蘭子が思いついたように話した。
「お猿でも気が付くことに、警察が気付かないはずはないでしょう。おそらく警察はその大胆な手口から、怨恨がらみで、尚且つ営利目的の可能性もあると見たのですわ。変質者の仕業ならば、もっと違う手段のほうが可能性としては高いでしょう。登下校の最中や人の気配の少ない場所で、目標が一人になるところを狙うのがそいつらの
「そうだね、おおむね鈴ちゃんが言ったことで合っているよ。その上でそこに付け加えると、もちろん我々は未成年者略取誘拐の線でも捜査はしていた。今はどちらかというと、そっちの線を強くして捜査が行われている」
「それで、どうなんですか?」
樹は岩井の目の色を探った。
「ダメだね。それもまるっきりダメ。あ、すみません。ご家族の前で……」
岩井はハッとして改まり頭を下げた。
「僕は略取誘拐の線で犯人を追っているんだが。実は警察もこの家に犯人からの要求が来ないと考えた時から、犯人像を略取誘拐目的の変質者に変えたんだ。でも僕はその捜査の線が少しズレているのではないかと思っているんだ」
「それは、どういうことですの?」
「何かが違う。違和感があるというか……。だから僕はこの事件を一から洗い直す事にして単独で捜査を始めた。しかし、残念ながら結果は散々だった……。けどね、先日、ある捜査官からおかしなことを聞いたんだよ」
話が核心に近づいていくのを感じたのか、場が息をのんだように静まった。その場に居る全員が岩井の顔を見た。
「その捜査官は言った。少年が鬼を見ていた、と。少年が鬼と話をしたと言っていた。と……」
いって岩井が樹を見た。蘭子と鈴の視線も釣られるように樹に向かう。
「そうですね。僕はあの時確かに、警察の聴取で犯人は鬼だと言いました」
平然と涼しい顔をして樹は答えた。その樹の表情を読みとろうとして岩井が少し緊張を見せた。
「――うーん、やっぱりそうだったんだね。樹君はちゃんと鬼って言ったんだよね」
岩井は砕けたような笑顔をみせながら樹に確認した。
「あの時、錯乱状態だったということは?」
「ありません」
「恐怖で犯人が鬼に見えていたとか?」
「ありません」
樹は岩井の目を真っすぐに見返して答えた。
「いやね、樹君もあの時は怪我なんかさせられていただろ。それだからだよねぇ、当時、話を聞いたお巡りさんも、子供の話を真に受けなかったんだよね。だから結局、恐怖に怯える子供の証言と受け取られてしまって、それで鬼のことはその表現すら調書には載せられなかったんだ。でも樹君は正気だった」
「はい」
「今でもそう思っているのかい? って、ここまで話をしておいて聞くのは野暮だよねぇ。でも困っちゃうよ。鬼、鬼かぁ、まったくオカルトだよねぇ。でもね、それを信じてちゃ警察なんて要らなくなっちゃうんだよねぇ、僕もまぁリアリストだしねぇ」
「ちょっと待ってよ刑事さん!」
蘭子が口を挟んだ。
「蘭子ちゃんは、樹君からその事を聞いて信じているんだね。そして鈴ちゃんも」
岩井は前傾に構える蘭子を片手で制してその後、確認のために鈴の方も見た。そんな岩井の測るような視線に鈴も力強く頷きを返した。
「なるほどね、うんうん了解した。僕はね、何も鬼のことを信じる事が、……なんていうの中二なんだっけ、ま、いいや、そんなことを言いたいのじゃない」
「まったく、とても回りくどい物言いですわ刑事さん。もう少し何とかならないかしら」
鈴が溜め息を洩らしながら訴えた。
「仕事なんでね。悪く思わないで欲しい。僕はね、まぁ鬼のことはともかくとして。僕が気になったのは、実は会話の中身のことなんだ」
「中身って? 樹が話した内容のこと?」
「樹君は、犯人から、ある言葉を聞いていた。それが鬼姫に関する何某かの話だった。どうだい? 合っているかい?」
「……岩井さん、仮にそうだったとして、それが事件解決に、唯を見つける為にどう繋がるんですか?」
「僕はね、唯ちゃん本人について調べたんだ。事件は小児性愛者による略取目的でも加茂家に対する怨恨でもない。考えたんだ。もしかすると、唯ちゃん自身が何らかの要因を抱いていたのではないのか。この事件は何かの理由で唯ちゃんを欲しがる動機を持つ者、もしくは集団の仕業ではないかと」
「そんな、だって唯ちゃんは普通の女の子じゃないか! 唯ちゃんに原因があるとか……そんな、唯ちゃんに攫われる理由なんてあるはずない!」
蘭子が岩井を睨んだ。それを岩井は微笑みを返して抑えた。
「僕はね、真中家について調べたんだ。知っているかい? 唯ちゃんの生まれた家のことなんだけど」
「知ってる!」
「知っております」
「知っています」
蘭子と鈴、そして樹が同時に答えた姿を見て、康則が少し驚いた様子を見せた。その康則の顔をチラリと横目で確認して岩井は話を続けた。
「捜査の中で僕は、『鬼姫』という文言に辿り着いた。どうやらその言葉は真中家では相当な曰くがあるらしい」
岩井が横目で康則の顔色を窺う。康則はその視線を淡々と受け止めていた。
「話を続けよう。鬼姫という言葉は関係者達の間では忌み嫌われている言葉だ。だから加茂家でも、猿楽家でも白雉家でも、その言葉を子供達には聞かせていない。そうですよね、鬼姫の事は樹君ら子供達は知らないはずですよね? 康則さん」
岩井が康則に同意を求めると康則は黙ってそれに頷いた。
「岩井さん、唯は私の大切な娘です。私も家内もこの五年の間、片時も唯の事を忘れたことなど無かった」
これまで話を聞くだけで沈黙を守っていた康則がとうとう重い口を開く。
「はい」
「あなたは、唯が誘拐された動機が、加茂家にはなく真中家の事情にあるといった」
「はい」
「ならば真中家の事情というものを話さなければなりません。しかし、これはあなたの言うところのオカルト的な話になるかもしれません。何せこの話は千二百年を遡った伝承の話から始めなければなりませんので。本日、ちょうど猿楽家と白雉家の者がここを訪れることになっております。そこであなたの疑問についてお話ししたいと思いますが、如何でしょうか」
何か意を決するような真剣な面持ちで話す康則を見て、岩井は静かに頷いた。
「わかりました。ではそこでお伺いすることに致しましょう」
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